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190412_きみは元気玉をつくれるか_10日目

「力を貸してくれ」。

助けを請うことは、何も、困難に晒されている場合に限らない。自分ひとりの力じゃどうしようもないけれど、どうにか越えたい、越えなければならない壁を見つけたとき、知恵を借りたり、肩を借りたり、一緒に壁を壊してもらったり、そういう相手が必ず必要になる。

「弱み」を正しく認識しているか。

このことを考えるきっかけになったのは、レオの次に有名な家入さんこと、家入一真氏のこのツイート。

「弱み」は実際のところ相対論でしかなく、環境が変わればまたその質も方向性も変わるものの、確かに、一定の環境内では「弱み」は代替不可能かもしれない。というか、「弱み」を補いあった関係それこそが「代替不可能」である。

「自分でなんでもできる」。

ぼくはどこかしらそう思っていた。つい最近まで。しかし、勤め先の社長から事業戦略を聞いたり、キングダムを何周もして何度も中華統一に挑戦しているうちに、あることに気づいた。

自分は、誰かと協力して、互いの弱みを補わなきゃいけないほどの戦いに挑んでこなかっただけではないのか。

「自分のことは自分でできなきゃいけない」というルールのもとで、いろんなことが人並み程度にはできる、その結果、「生きる」ということが、許容された一定の「失敗」の幅の中で、人に迷惑を掛けないで生きていくことになる。それこそが、「墓場まで敷かれたレールを進む」ような生き方にほかならない。

きみは元気玉をつくれるか。

誰かの力を借りられるなら。ぼくは何をするだろう。世界の平和が実現するかもしれない。後世に残る作品を生み出せるかもしれない。

ドラゴンボールの「元気玉」は、そういう、力を集めることによって成し遂げられることの可能性の象徴だ。

ぼくはみんなと一緒に元気玉をつくりたい。

たしかにこれは「手段」である。目的ではない。しかし、「自己実現」は「目的」や「結果」だけで達成されるものではなく、納得感・満足のある「手段」や「過程」とセットでもたされると思っている。したがって、もちろん大義は必要ではあるものの、みんなと一緒に魔人ブウを倒したぞ、と言える人生を歩んで死にたい。

地球を救って、好きな人から素敵な人だと思われたい。ちろう。

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