見出し画像

72候【花鳥風月】白露の候


お宝さがしがはじまるよ


かぼちゃ、銀杏、梨、栗、無花果いちじく
9月に入ると歯ごたえ、噛みごたえに特徴のある旬ものが出回ります。
植物にとっては、人や動物たちの口のなかに入るか、地に落ちて土に還るか、運命の分かれ道といったところでしょうか。

さんぽすると早朝の朝もやが濃くなって、あさつゆがキラキラと輝く季節になったと感じます。
最近めったに見かけることの少なくなった季節の花、竜胆りんどうを見つけると嬉しくなります。

photolibrary

季節もののキノコといえばマイタケですが、人工栽培が今ほど盛んでなかったころは、野生種のマイタケを見つけると舞い踊るほどうれしいことから、舞茸という名がついたそうです。

秋は野に入り山に入り、薬草、茸、木の実など、お宝さがしに胸躍る季節です。
春分のころから芽吹いたいのちが、あちらこちらで結実しています。
昔の日本では秋の暴風(いまでいう台風)を、野分のわきと呼んでいました。
野の草を吹き分けるほどの強い風は、秋のお宝を見つけるのにきっと一役かってくれたことでしょう。
「野分晴れ」というと「風の道をたどってお宝探しにいこうか」みたいな、ワクワクした感じが伝わってきて「台風一過」より、風情があるなぁと感じます。

大気は温度差のある層が行き交い、うろこ雲と階層的にかさなる雲に、空の奥行を感じることもしばしば。
地では動物たちがいそいそと冬ごもりの支度をはじめ、
植物たちは身の内に種を宿して、いのちをつなぐ準備に余念がありません。


秋の花といえば9月9日は重陽の節句。
奇数が重なる日を陽の日、縁起の良い日として祝う五節句のひとつです。

1月7日 春の七草
3月3日 桃
5月5日 菖蒲
7月7日 笹
9月9日 菊

重陽の節句では被綿きせわたという風習がありました。
重陽の前夜8日に、菊の花に綿をかぶせておいて、夜露や朝露、そして花の香りを綿に含ませます。
その綿でからだを拭くと邪気を払い長寿となり、縁起が良いとされていました。
菊は仙人の住むところに咲く花と考えられていて、この季節に濃くなるもやつゆを媒介に、仙人パワーを受けとる習わしがあったそうです。
秋分の日を目前に、秋の暴風を野分のわきと呼んで、お宝探しの助っ人よろしく見立てる古人が、秋のもやきりつゆしずくに潜む気配から、なにを感じていたのかなと想像するのも、夜長の楽しみのひとつです。

photolibrary


もうすぐ秋分、一年の折り返し地点


帰りそびれた精霊たちが
野分を合図にうごきだす
朝もやに、朝露に
そっと潜んで秋分の
大きな吐息をまっている

白露はくろの候、今年は9月8日から。

草露白くさつゆしろし―草に降りた露が白く光る
鶺鴒鳴せきれいなく―せきれいが鳴き始める
玄鳥去つばめさるーつばめが南へ帰っていく


秋分にむけての準備は、春分から受けとってきた地の恵みを再確認するところから始まる、と感じています。
自分をとりまく環境にあるものを、創造活動の成果として「見て」みる。
身近な環境で秋の収穫、お宝さがしを楽しみます。

創造は自己分化、はじめのイメージはしゃぼん玉のようにフワフワ
創造活動がくりかえされ強化されると、イメージは少しづつ物質性をまとう
自己分割した創造物が出現して、身のまわりをとりかこむ
周囲をとりまく地上的な創造物に充足したら次のステップへ

こんな風に書きだしてみると、なにか特別な創造プロセスが必要なのかな?なんて感じがしますが、じっさいは誰もが毎日、毎秒やっている、思考活動、印象や食べ物の消化のくりかえし、そのものです。

機織りのように1本づつ、糸を積みあげるように、生のいとなみをくりかえしているから、いま着ているものや食べているもの、人間関係や目に映るものが身近にあるのだろうな、と思っています。
それらはつながり大きな一枚布になって、見えない天幕のように人を包んで、気配や雰囲気を醸成します。
見えない天幕からは無数の糸が伸びており、身のまわりの持ち物やご縁の深い人、場所とつながっているのだろうな、と。

そうはいっても、自分のことはよくわからない、というときは、深くご縁のある先様を鏡と見立てるのも一考です。
日本は秋津国、トンボの国とうたわれた神武天皇のことばには、
トンボはたがいの尻尾を噛んで、ついになり、
やがてつがいになる、という意味があるのだと思っています。
相「対」するものは、たがいの役割を順「番」に入れ替えて、輪廻するのだろうな、と。
トンボは秋の風物詩。
トンボの古語は「あきつ」です。

photolibrary


太陽は乙女座後半に入ります


秋の太陽は、白露の候から乙女座後半に入り、物的豊かさから精神的な豊かさへシフトする傾向が強まります。
「見る」「観察する」「輪郭を明確にする」「ラベリングして整理整頓する」乙女サインの得意技は、モノやヒトなど実体的な対象から広がって、気配や印象、雰囲気を「排除しないで見る」方向へ転換する時期とも。

見ることは相互作用で、かなりの情報とエネルギーが交換されます。
誰かにじっと見られているとき、その目線に込められたメッセージで元気になったり、気が滅入ったり、いろいろな気分が醸成されます。
ステキ、大好き、応援してるよーというメッセージ目線は、とうぜん元気もやる気も起こります。
失敗しないか、まちがえないか、だいじょうぶか?というメッセージ目線は、圧を感じてしまい萎縮することもあります。
キライ、どっかに消えろ、ムカつくわーというメッセージ目線は、アドレナリンを放出させて、逃げるか戦うか「闘争逃走本能」にスイッチが入ります。

感情をともなわない視線もいろいろあって、焦点を肉体輪郭に合わせるか、肉体以上の気配を含めるかで、ずいぶんちがってきます。
肉体に焦点をあわせた視線は、大小高低バランスや主観的な美醜基準でまさぐられる感じ、研究対象にされてるようで落ちつきません。ますます肉体に閉じこもり、排他性、閉鎖性を強化するような。
気配や印象をふくめた、絞りのゆるい視線は、広がりや解放感の共有が自然と起こり、警戒心がゆるんで、のびのびできる感じがします。

視線は自分をみるときにも、同じようなはたらきをすると思います。
ただ自己同化が強いほど自身を見ることはむずかしく、他者への自己投影も激しくなると思います。
誰を見ても、なにを見ても、自身を語るに落ちる的な感じです。


結実した果実は因果の「果」なので、「因」の側にある印象や気配を整理できれば必然的に収穫物にも変化が起こると考えています。
物質や肉体偏重視点のくさびから自由になって、顕在意識をあらかた整理したら、潜在意識へもダイビング。
放任・放置状態で育ちに育ったぼうぼうの草も、野分で倒され見晴らしがよくなる季節に乗じて、こころの内も整理します。


潜在意識から意図(糸)を出す

潜在意識とは、自覚されていない意識のこと。
主に過去の経験などをもとに(無意識のうちに)蓄積された価値観・習慣・思い込みなどによって形成される。
潜在意識の「潜在」は「潜伏している(=密かに隠されており表立って確認できない)(が存在する)」ということ。対義語は「顕在」。
潜在意識は意識全体の9割以上を占めるとされ、日常行動・ひらめきや直感、思考、非常時・緊急時の対応などの決定に影響していると言われる。

Weblio辞書


潜在意識を整理するとき、もっぱら活用しているのはマインドマップです。
描くことを楽しめるよう、ペンはカラフルに用意します。
用紙はA3以上のできるだけ大きな白紙で。

用紙の中心に描くのはコトバ、イラスト、写真を貼ることもあります。
そこから自由に連想するイメージをかきだしてゆきます。
手が止まらなければどんどん進めます。
手が止まりがちな時は「プレノート」にいったん切り替えます。

プレノートはA3のマス目ノート。
たとえばテーマが竜胆りんどうだったら、りんどうりんどうりんどうと書き続けて、あたまのなかを陣取っているリアリスト解説者と対話します。
「りんどう」というイメージを広げることにストップをかけているのはなんだろう?と、問いかける感じです。
そのうちに「りんどう」以外の言葉が浮かんできたら、そのまま書きだしてみます。
自分がなにを思っているのか、あるいはなにが思うことを阻んでいるのか、顕在意識にはとどいていない言葉を排泄します。

マインドマップはハーブやアロマの勉強をするときにも重宝しました。
一度マップに落とし込むと、そのハーブと縁が結ばれる感じで、いままで気がつかなかった事象が目にとまることが多々あります。
たとえばローズヒップのマインドマップを作ったあとで、いつも通る道ばたの生け垣にハマナスの花を見つけたり、バッチフラワーレメディのひとつ、ゲンチアナのマップを作ったあとで、野生種のりんどうをみかけて小躍りしたり。
学術的な知見を暗記するだけではなく、自身の天幕にお招きして潜在意識につなげると、暗記という無味無乾燥な苦行が楽しい縁結びに変わります。



因はつながり、果は個体


マップづくりなどで潜在意識にダイブすることは、自他のあいだにある因果を、自然と整理することにもつながるな、と思っています。

周囲にある個体存在は、かつてすべては火だった。
すべては火から生じた。
石も、水の流れも霧も、すべてが火だった。
火のなかに生きている元素たちは、やがて土、水、風に閉じこめられた。
周囲のすべては四元素によって存在している。

周囲にある個体存在は、かつてすべてが液体であった。
すべての液体は、かつて気体だった。
気体は火から煙となって生じた。
そのような濃縮プロセスには四元素の封じ込めが伴う。

ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)

りんどうの花をじっと見つめます。
花弁が何枚とか、葉が対生に生えているんだなとか、研究・分析の目ではなく、その周囲にただよう気配や雰囲気をまるごと見る感じで。

はじめは花という物質的存在の抵抗感のようなものがあり、視線を跳ねかえしてくる感じがあります。
見ることでつながろうとするこちらの意図(糸)は受入れません、というきっぱりした閉鎖性のようなものが、花の美しさをより際立たせているんだな、と感じることもあります。

それでもめげずに、気配まるごと見続けていると、やがて意識の共感というか、共有というか、同化することを許してくれる瞬間が訪れます。
それは、花に閉じこめられた四元素と自分のあいだに相互作用が起きて、四元素交換が可能になる通路ができることなのかな、と思っています。

物質界の成立は四元素ぬきには語れません。
けれど四元素にも循環は必要で、シュタイナー曰く「四元素にも故郷はあり、人間界は通過点に過ぎない。春分、秋分は四元素にとって、故郷の元素界に帰るとびらが開く日だ」と。


循環、めぐりは活力の源。
物質や肉体はたしかに地の恵み、結実したお宝ですが、見える輪郭を拡大して、感じる輪郭、匂う輪郭、聴こえる輪郭、温感輪郭なども視野に入れると、秋のお宝さがしがより一層楽しくなると感じています。

☆☆☆

お読みくださりありがとうございました。
こちらにも、ぜひ遊びに来てください。
オーガニックアロマ100%のスキンケアシリーズ
Shield72°公式ホームページ



この記事が参加している募集

習慣にしていること

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?