歴史千夜一夜(7) 天海のもうひとつの可能性

 明智=天海グループが陰陽師集団ではないかという可能性に関して先に書きました。しかし、実はもうひとつの可能性があると私は考えています。しかし、この仮説はあまり具体的な根拠もないので、ファンタジー的な可能性として読んでいただけたらと思います。

 中東のエルサレムの地にイエスと呼ばれる青年が誕生し、新しい宗教を広げ始めました。このイエスは一般的に大工の息子だったとされていますが、エッセネ派とかクムラン教団と呼ばれるユダヤ教の秘教集団のエリートで、救世主としての英才教育を受けたという説があります。

 いくら聡明であったとしても、普通の大工の息子が教えを説いても周囲がそれを信じたと思いにくく、秘教集団のエリートであった方が説得力があります。また、イエスには歴史に残っていない空白の期間があり、その説ではこの空白の時期にエジプトやインドで様々な宗教を学んだとされており、それもまた説得力があります。

 その説が正しいとしたらひとつ疑問が出てきます。イエスは無学な人間たちをリクルートして自分の弟子たちにしています。12弟子とか呼ばれる人たちも、イエスがあらたにリクルートした無学な人たちです。もしイエスが秘教集団のエリートだったら、わざわざ新しい弟子をリクルートする必要があるでしょうか。もし新しい弟子を必要としたのであれば、何らかの理由があったはずです。

 私はイエスがユダヤ教を改革しようとしていただけでなく、エッセネ派と呼ばれる秘教集団をも改革しようとしていたのではないかと想像しています。だから、イエスの教団には実は2つの派閥があって、ひとつは旧来のエッセネ派を中心としたグループ、もうひとつはイエスがリクルートした無学な人たちグループです。なまじっか知識があると、新しい教えに反発される可能性があったので、イエスはわざと無学な人たちをリクルートしたのではないかと思っています。そして、エッセネ派の中心人物がマグダラのマリアやユダではなかったかと思っています。

 ユダは、イエスがエッセネ派を壊そうとしていると危惧してイエスを売り渡したのではないかと、私は考えています。普通に考えて安いお金のために自分の先生を売り渡すのは、あまり想像できません。エッセネ派を守ろうとして、売り渡した方が納得できます。

 イエスの死後、教団は2つに分かれました。ひとつはイエスがリクルートした12弟子を中心としたグループ、もうひとつはエッセネ派を中心としたグループです。12弟子グループはローマ・カトリックへと発展していきました。エッセネ派グループは、マグダラのマリアに率いられてヨーロッパに渡りました。

 「ダビンチ・コード」という小説や映画がヒットしたおかげで、イエスのパートナーがマグダラのマリアではなかったかという話は有名になりました。また、なぜ彼女が貶められて、忘れ去られたかという話は他の弟子たちが彼女に嫉妬したからではないかと言われています。

 でも考えてください。いくら嫉妬があったからとしても、自分たちの尊敬する先生のパートナーをそこまで悪く扱うでしょうか。普通は、多少意見が違ってもそれなりの待遇をするのではないかと思います。しかし、もともと違う派閥のグループであり、派閥争いがあらかじめあったとすると、彼女の存在を隠蔽して、貶めるという行為も納得ができます。

 聖母マリアもエッセネ派のエリート教育を受けた人なので、エッセネ派のグループとともにヨーロッパに渡ったのだと思います。そして、ヨーロッパの地に根を下ろしたのでしょう。そして、その後、ローマ・カトリックがヨーロッパに来た時に、争うのではなく、ローマ・カトリックの下に潜り、ヨーロッパ独特の聖母マリア伝説や聖杯伝説を生み出していきました。ヨーロッパの修道院のいくつかは、表向きはローマ・カトリックであっても、裏ではエッセネ派だったのではないかと思います。

 こうして、エッセネ派の人たちはヨーロッパの修道院に潜んだのですが、彼らにも機会がやってきます。大航海時代の訪れです。エッセネ派の人たちの一部は、ローマ・カトリックの支配を脱して、あらたな自分たちの宗教の国を創ろうとしました。そして、ローマ・カトリックが世界に進出するのに便乗して、イエズス会に入って自分たちの理想の国を見つけようとしたのだと思います。

 そして、見つけたのが日本です。信長、秀吉の時代、ヨーロッパから来たキリスト教徒は歓迎され、多くの大名がキリスト教に改心しました。生き残るためにキリスト教徒とは言わなかった大名や武士も多かったのではないかと想像します。ひょっとしたら、明智=天海グループは単なる陰陽師集団ではなく、当時来日したエッセネ派の人たちのグループと関係があった、というかエッセネ派に改宗した人たちだったのかも知れません。

 彼らは日本の歴史などを研究して、古代のキリスト教の人たちが日本に渡ってきたことに気付いていたのかも知れません。ともかく、日本を自分たちの理想の国にしようと考えたのだと思われます。

 古来より、太陽信仰の民族は日の昇る方角である東を特別な方角と位置付け、東の方角に神の国、楽園があると思っていたはずです。そして、戦争とかに敗れて民族の住む場所が無くなると東を目指しました。たぶん、日本にはそういう人たちが多数大陸から渡ってきて、混血を繰り返していたのだと思います。

 ユダヤ人は聖書の記述から、東は神と人とが出会う場所と思っていました。人は、エデンという楽園から東に追放されたからです。そして、東の果ての列島に自分たちの国にできるかも知れない場所をエッセネ派の人たちは見つけたのです。そして、明智=天海グループは日本をエッセネ派の国にしようと考えました。徳川政権を乗っ取り、自分たちの理想の国を作ったのだと思います。

 日光東照宮という名前を不思議に思いませんか。東を照らす宮なのです。家康が日本や関東の守護の神社として創建したのであれば、もっと別の名前があるのではないでしょうか。確かに関東は東(あずま)武士の地であったとしても、東だけを照らす必要はないでしょう。

 方位というものは色々なものを暗示します。南北朝の北朝もそうですが、国東半島もそうです。大分の国東半島は、国の東となっています。つまり国が西にないと話は合わないのです。だから、九州の中央に国があったと考えるのが自然です。しかし、ほとんどの人は、国東という地名に何ら疑問を持ちません。

 同様に、なぜ東を照らす宮なのでしょうか。しかも、社ではなく宮なのです。また、家康を祀っているといいながら、家康の墓とされる場所は東照宮からかなり奥まった場所に申し訳程度についているだけです。もしかして、エッセネ派の人たちが自分たちの神の宮を作ったのではないでしょうか。

 徳川幕府では、二代将軍秀忠の死とともに古くからの家臣が一掃されて、家光の時代に新たな官僚体制が出来上がったともいわれます。家光は、お福=春日局が乳母となって育てました。その春日局が明智=天海グループだったとしたらどうでしょう。徳川幕府は、エッセネ派の人たちに乗っ取られてしまったかも知れません。

 日本では江戸時代、キリシタンが弾圧されたので、それはおかしいとも思われるかも知れません。しかし、エッセネ派の人たちはローマ・カトリックの裏で生きてきた人たちで、ローマ・カトリックの支配の及ばない国を創ろうとしたのかも知れません。信長や秀吉が手を焼いた一向宗や比叡山ですら禁止にはなっていないのです。キリスト教だけ弾圧される必然性が分かりません。

 もちろん、宣教師が海外の軍事エージェントだったとか、日本の女性を奴隷にして海外に輸出していたという話もあります。それで禁止されたとするなら、確かに意味は通ります。

 しかし、問題は家康の態度です。家康は初期はキリシタンを容認して、途中で急にキリスト教を禁止するようになります。宣教師が云々とか奴隷が云々という話であれば、最初からキリスト教を禁止していないと話が合いません。そして、なぜ急に禁止するようになったのかは良く分かっていないのです。明智=天海グループのエッセネ派の人たちが、ローマ・カトリックを排斥したくて、天海経由で家康を動かしたとしたらどうでしょう。それなりに筋は通るのではないでしょうか。

 この説は、かなり荒唐無稽な話であり、ある意味ファンタジーだとも思います。しかし、歴史を様々な視点からみると新しい見方ができるかも知れないという意味で、この話もご紹介させていただきました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?