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令和のキャリア教育を考えよう

令和のキャリア教育について探究を進めるべく、noteに整理していきたいと思います。

キャリア教育のはじまり

キャリア教育という用語は、1999年の中央教育審議会答申「初等中等教育と高等教育の接続の改善について」で初めて登場したとされています。

その後、ニート・フリーター問題の顕在化によって、早い段階から職業観や勤労観を培う必要性が指摘され、2003年に「若者自立・挑戦プラン」が取りまとめられました。

雇用問題を背景として、学校教育にキャリア教育が浸透していくわけですが、2011年の中央教育審議会答申「今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方」によって具体的な導入が決定されました。

キャリア教育の二面性

キャリア教育における「人格の完成」と「勤労を重んじる」こととの関係性について、前田信彦さん(2022)は、両者は切り離されたまま、職業・キャリア教育政策に反映されていると指摘しています。

とある中学校の先生は、現在の職場体験(中学2年生)について、「活動(作業)することに重きが置かれ過ぎているのかもしれない」と言われていました。それはいわゆる「這い回る経験主義」と揶揄されるような、活動という手段が目的化してしまうことへの危惧であり、従来の職業準備教育を乗り越えたいという要求とも捉えられます。

従来のキャリア教育が職業教育主義に偏っているという批判は兼ねてからありました。そのオルタナティブとしてライフキャリア教育が考えられます。ライフキャリア教育は、仕事だけでなく、結婚、転勤、出産・育児など、生涯のあらゆるステージを「キャリア」ととらえ、豊かにしていく考え方です。

ライフキャリア教育の可能性

ライフキャリア教育と言えば、島根県益田市が先行事例実践地の1つでしょう。変化に臆することなく自分の人生を能動的に生きていくことができる力を育むことをライフキャリア教育と定義し、一般社団法人 豊かな暮らしラボラトリーさんが事業を推進しています。

ライフキャリア教育についても憂慮しておきたいのは、個人主義になり過ぎないかという批判です。自分らしく生きるという命題は、自分の好きなまま生きるというわけではなく、他者との関係性を前提としています。

僕はとある中学校の授業にて、「自分らしく生きることと社会に参加することは、自由と束縛の関係にあり、相反するものではないか」と中学生から問いが投げられました。彼らの中には、自分が社会化していく過程で、自己が失われていくイメージがあったのかもしれません。

たしかに、高度成長期の工業化社会においては、教育や就業は金太郎あめ的で、個人の自由よりも社会からの要請、すなわち外発的な要因で自己形成を進めてきたきらいもあります。そこから(戦後の反省もあってか)個人主義が加速した結果、教育の現場でも「あなたのやりたいことは何?」というように、個人に焦点が置かれるようになりました。この点において、個人と社会は内発ー外発の関係で背反するものとして捉えられても仕方ない気もします。

キーワードは「現代の公共」

では、この対立構造から止揚することはできないのでしょうか。再び、前田信彦さん(2022)によると、ライフキャリア教育の公共性への可能性を提案されています。内発的に他者とつながり、そのつながりから自分が大切にしたい集団の範囲が広がれば、それは社会善に寄与します。

山岸俊男(1999)によると、かつての日本にあった集団主義的な安心社会は、日本人の個人主義精神のインセンティブによって保たれていたとしています。村八分になりたくないという思いが、集団としての一体感を担保していました。それは外発的動機づけであり、内発的に他者とつながる社会像とはやや異なるようにも思えます。そして、その安心社会は解体されつつあります。

個人の公共性の獲得という点において、人とのつながりは重要なファクターですが、現代社会における人とのつながりは希薄化していると言われて久しいです。ここに、社会関係資本(=人とのつながり)について探究を進める意義があると思います。

探究は続く――

参考文献


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