ぼくは彼女を地元に案内する

 ぼくは彼女を地元に案内する。先月末のある平日のことである。ぼくと由梨は東京国立近代美術館の『中平卓馬展』(正確には『中平卓馬 火―氾濫』)へ行くことになっていた。JR蒲田駅のホームで待ち合わせ、途中で乗り換える新橋駅の周辺でお昼ご飯を食べるか、もしくは、展覧会を見たあとに有楽町あたりで遅めのお昼ご飯を食べようということになっていた。ぼくとしては「遅めのお昼ご飯」のほうになるだろうなと予想していた。

 もちろん、ぼくはこの日も集合時間に遅刻した。ぼくには「少しだけ遅刻する」という悪い癖があるのである。家を出る前に「ごめん、10分ぐらい遅刻しそう」と由梨にLINEし、高校入学時から使っている自転車を猛スピードで走らせ、蒲田駅西口の駐輪場に自転車を停めた。早足で階段を上り、中央改札の自動改札機に向かって直進している時、何者かから背中を叩かれ、「(ぼくの下の名前)くん!」と声をかけられた。びっくりしながら振り返って見てみると、その声の主は由梨だった。

 ……あれ? ホームで集合じゃなかったの……? ぼくが「えっ、なんで改札出てるの?」と尋ねたら、由梨は「LINE見てない?」と聞き返してきた。その場でスマホを確認すると、ぼくが自転車を猛スピードで走らせていたまさにその時、たしかに由梨はぼくに「じゃあ中央改札の外で待ってる。蒲田でランチにしよう」と送ってきていたのだった。ぼくがそんなメッセージに気付けるはずがない。ぼくは目の前の由梨に向かって「……そうなんだ……」と答えつつ、内心、困ったことになったなと動揺していた。

 ぼくは由梨と一緒にいるところを知り合いに見られたくない。もしぼくがノンケなら「どうだこの彼女、日本一かわいいだろ!」と周囲に見せびらかすところだが、あいにくぼくはゲイだ。ノンケを演じている姿を知り合いに見られるのは心苦しい。そういうわけで、ぼくは、ぼくの地元の蒲田では由梨とほとんど会うことがないのだ(蒲田は由梨にとっても定期圏内であるにもかかわらず)。

 もちろん、付き合って1年8か月も経つので、さすがに蒲田で会ったことがないわけではない。これまでに2回、学校帰りに蒲田のお店で一緒に晩ご飯を食べさせられたことがある。ぼくが「蒲田は治安悪いから……」「蒲田は居酒屋しかないから由梨に向いてないよ!」(※由梨はお酒が飲めません)と抵抗したのに、由梨は「いいよ、いいよ。行こう!」と言って蒲田駅で強引に電車を降りてしまったのだ。その時のぼくは、仕方がないので、coco壱番屋蒲田駅東口店とバーミヤン蒲田駅東口店に由梨を連れて行った。一度に両方訪れたわけじゃないですよ? それぞれの日に1店舗ずつです。

 みなさんお気付きだろうが、この2店舗には共通点がある。それは、どちらのお店も「蒲田駅の東口側にある」ということだ。蒲田は西口より東口のほうが治安が悪い。「※個人の主観です」と書きたいところだが、西口より東口のほうがチンピラと警官の小競り合いを見れる確率が高いのは客観的事実だ(物議を醸す発言)(小競り合いは西口でも見れます)。

 それでもぼくが由梨を東口側の飲食店に案内したのは、東口側がぼくの自宅の反対側だからである。西口より東口に行ったほうが知り合いに遭遇する確率は低いはず。それに、西口より東口に行ったほうが「蒲田って落ち着かない街だな。もう蒲田には行きたくないな」と由梨に思ってもらえるはず。そう考えて、ぼくは由梨を東口の飲食店に連れて行ったのだ。いや、実際には東口側にも落ち着く場所やお店はあるんですけどね。でも、例えば歓迎(ホアンヨン)本店になんか連れて行っちゃったら、由梨は「蒲田って意外といい街だな」などと思ってしまう可能性がある。だからぼくは歓迎(ホアンヨン)本店には絶対に由梨を連れて行かない。そもそも歓迎(ホアンヨン)本店なら知り合いが来ている可能性があるし、お店のひともぼくの顔を覚えているかもしれないし。その場合、歓迎(ホアンヨン)本店自体がもはや「知り合いの店」となる(拡大解釈)。

 ……えっと、何の話をしてましたっけ。ぼくが10分遅刻した話でしたね。ぼくは一応「有楽町のほうが良いお店あるよ!」とか「新橋のフォルクス行こうよ!」などと抵抗してみたが、由梨は「蒲田でいいよ。蒲田がいい」とわがままを言ってきた。結局ぼくは、自分の遅刻癖のせいで由梨を10分待たせたという負い目もあって、蒲田でお昼ご飯を食べることで合意した。でもなあ、昼の蒲田を由梨と歩くのは初めてなんだよなあ。夜より昼のほうが知り合いに遭遇しやすい気がする。不安だよう。

 ぼくがいつものように東口側に向かおうとすると、由梨はぼくの右腕を掴んで、「ねえ、今日はこっち行ってみようよ」と西口側を指す。困った。ぼくは「いや……西口には本当に居酒屋しかないから……それに、今日は案内したい店があるんだよ。東口行こう」と言って押し切った。ぼくは「蒲田」では妥協できても「蒲田駅東口側」では妥協できないのだ。

 由梨は訝しげな表情になり、「案内したい店があるの? 蒲田でのランチを提案したのはわたしなのに」とツッコんできたが、ぼくは「いや、どうせ蒲田で食べるなら案内したい店ってこと。実は前から連れて行きたかった。由梨、今日は蒲田ランチを提案してくれてありがとう」と返答して華麗に誤魔化した。由梨はまったく納得していないようだったが、「案内したい店」の行方が気になったらしく、それ以上は追及してこなかった。

 もちろん言うまでもないが、ぼくに「案内したい店」はない。うーん、どこへ行こう。またcoco壱番屋蒲田駅東口店に連れて行くか。ペラペラ雑談しながらも、ぼくは周囲に知り合いがいないか警戒する。駅前の信号を渡って左側に向かおうとしたら、由梨が「こっち? バーミヤンじゃないよね?」と聞いてきた。いや、coco壱番屋です。由梨は呆れた顔で「本当はないんでしょ? 『案内したい店』なんて」と言ったあと、「ねえ、やっぱり西口に行ってみたい」と言い出した。ぼくは「ううん、本当にある! 『案内したい店』が東口にある! ほら、すぐそこ!」と言って、適当な方向に指をさす。由梨は苦笑いしながら小刻みにうなずくと、「分かったよ。じゃあ連れてって。ついていくから」と言った。

 困ったぞ。仕方ないのでふらふら歩く。たしかに蒲田はぼくの地元だが、ぼくは女子が入っても問題なさそうな蒲田のレストランには詳しくない。ぼくが行くことがある蒲田の飲食店といえば、チェーンのファーストフード店、チェーンの居酒屋、個人経営の居酒屋ぐらいだ。どこかにランチに適したお店はないかなあ。しばらく歩き、京急EXインの路地を曲がると、フレッシュネスバーガーの看板が目に飛び込んできた。あっ、そうだよね、ここにあったよね。ぼくが由梨に「フレッシュネスバーガーはどう?」と言ったら、由梨は「いいけど、本当に『案内したい店』?」と意地悪な顔で聞いてくる。ぼくはこの時、由梨に対して「……ん……」という一音を返すことしかできなかった。

 まあでも、フレッシュネスバーガーでお昼っていいよな。よし、と思ってぼくらがフレッシュネスバーガーに近付くと、今度はぼくの目に「おさかなイタリアン」と書かれた看板が飛び込んできた。「おさかな」。ぼくは由梨の弟の孝彦くん(高校2年生)のことが好きだ。由梨から写真を見せられた瞬間、一目惚れした。孝彦くんは釣りが趣味である。釣ったお魚を自分でさばいたりもする。そんなわけで、ぼくは「おさかな」という単語を見聞きすると孝彦くんを連想し、これまであんまり好きじゃなかった魚料理も興味を持って食べるようになった。ぼくは単純な人間である。

 ぼくは「おさかなイタリアン」の看板の前で立ち止まった。そして、フレッシュネスバーガーに入ろうとする由梨のかばんを引っ張って、「『おさかなイタリアン』だって」とつぶやいた。「ねえ、『おさかなイタリアン』。『おさかな』って、たぁくん(孝彦くんの愛称)だから……」。由梨はなんとなくぼくの言いたいことを察したようで、「うん? よさそうだね。こっちにしようか」と言ってきた。はい、そうしましょうか。ごめんなさいフレッシュネスバーガーさん、貴店には後日お伺いします。

 その「おさかなイタリアン」のお店は地下1階にあった。階段を降りながら、由梨が悪魔の笑みを浮かべて「ここが『案内したい店』なんだよね?」とイジってくる。性格が悪すぎるぞ! この時、ぼくは思わず笑いながら、「うん、そう! 気付いてくれてありがとう」と返答した。

 なんかお洒落なお店。こんなお店が蒲田にあったなんて。蒲田にこんなお洒落なレストランはもったいない(暴言)。料理の値段が高かったらどうしようと思ったが、ランチのメニューはいずれも1,000円程度だったので助かった(それでも学食と比べたら2倍だが)。由梨は半スパゲッティと半ライスのランチセット、ぼくはせっかくなのでしらすのスパゲッティを注文した。「おさかなレストラン」なんだから、やっぱりお魚を食べなくちゃね。サラダとドリンクも安かったので追加で頼んだ。まあ、本当はいらなかったんだけど、由梨が頼んだのでぼくも合わせたって感じですね。ぼくが由梨に「野菜を頼んだぼく偉いでしょ?」と言ったら、由梨は「『偉い』って何?」と冷ややかにツッコんできた。あの冷たい視線をぼくは一生忘れません。

 食事中はいつものように色んなことをしゃべり合って、ぼくらはランチタイムを楽しんだ。性的指向が合致していないのにぼくらの関係が長続きしている最大の理由はこれだと思う。なぜだかよく分からないけど、ぼくらは本当に会話がよく弾むのだ。ぼくは由梨には内面的なことも話しやすい。それはきっと由梨も同じなんじゃないかな。この日、具体的に何を話したのかは記しませんけどね。個人情報だし、そもそもだいぶ忘れちゃってるので。

 二人とも楽しい気分で「おさかなイタリアン」のお店を出た。由梨が「美味しかったあ。また来よう!」などと言って、ぼくに体当たりしてくる。やめろ。ぼくの地元でぼくにいちゃつくな。由梨が「ねえ、今日はもう蒲田にしようよ? 中平卓馬(東京国立近代美術館『中平卓馬展』)はやめて蒲田で遊ぼう」と言ってきた。普段のぼくなら予定変更の提案には抵抗するところだが、この時はだいぶ開放的な気分になっていたので、「そうだね。そうするか」と応じてしまった。実際には蒲田に「遊ぶ」場所なんてないし、東京国立近代美術館に行くのをやめて蒲田で遊ぼうとするのは人間としていかがなものかと思いますけどね。

 なぜかもう4,600文字超えているのでいい加減まとめに入ります。結局この日、ぼくらは「おさかなレストラン」を出たあと、京急蒲田方面の商店街をぶらついて、おかしのまちおかやドン・キホーテに寄って、またJR蒲田駅方面へ戻って、「天然たい焼き」を買って(実は初めて買った)、大田区民ホール・アプリコのあたりを歩きながら「天然たい焼き」を食べた。

 大田区立蒲田駅前図書館へ寄ったあと、グランデュオ蒲田(JR蒲田駅の駅ビル)に入った。由梨が「いつも(ぼくの下の名前)くんが行っている有隣堂へ行ってみたい」と言うので、ぼくは「有隣堂なんてどこも一緒だろ」と言いつつ連れて行った。さらにそのあと、グランデュオ蒲田の屋上遊園地「かまたえん」へ向かう。小学生の時以来の「かまたえん」である(もしかして幼稚園の時以来か?)。由梨が「観覧車に乗りたい」と言い出した。必死の抵抗もむなしく、ぼくは観覧車に乗せられる。観覧車が頂上に近付いた時、由梨が「(ぼくの下の名前)くんのおうちはどの辺?」と自然な感じで聞いてきたので、ぼくはつい、「ん? どっちだ……あっちのほう」と言って自宅の方角を指してしまった。ヤバい。由梨は「ふーん」と言いながらぼくが指さした先を眺めている。ヤバい。後日、由梨が住所を特定して、ぼくの自宅の前に立っていたらどうしよう。ぼくが由梨に「……来ないでよ?」と言ったら、由梨はニヤけながら「逆に、連れて行こうとか思わないんだ?」と言い返してきた。ぼくがとりあえず「言っていい冗談と悪い冗談がある」とツッコんだら、由梨は「そういう意味じゃなくて」などと言っていたが、どういう意味にせよ、ぼくは自宅に由梨を連れて行くつもりはありません!

 観覧車を降りて、アナログなアーケードゲームに興じたあと(ぼくは由梨に写真をパシャパシャ撮られた)、広場の椅子に座る。由梨が持ってきてくれたバイト先のパン屋さんのクリームパンを食べながら(さっきから色々食べすぎである)、ぼくは周囲に知り合いがいないか気にする。由梨が「ここ、すごくいい場所なんだけど、冬は寒いから春にまた来たいね」と言ってきたので、ぼくは「おお……」という肯定でも否定でもない言葉で誤魔化す。そのあと結局、ぼくは由梨を西口側へ連れて行った。由梨にとっては初めての蒲田駅西口である。

 由梨が目を見開いて「西口のほうが華やかじゃん!」と言ってくる。ぼくは「……そうかな?」ととぼけて誤魔化そうとしたが、由梨は「ねえ、どうして西口には行かないようにしてたの?」とぼくの右腕を殴ってきた。ぼくが「暴力反対」と言っても由梨はぼくの右腕を殴り続けてきて(実際には殴るふり程度だが)、ぼくとしては非常に困らされた。

 西口は西口でも日本工学院方面のほうがまだ知り合いに会う確率は低いと思ったので、ぼくはそちらへ由梨を誘導する。さて、どこへ行くべきか。ドン・キホーテは京急蒲田駅店のほうにさっき行ったしな、と思っていたら、由梨が「カラオケ行こうよ」と提案してきた。カラオケの看板が目に入ったのだろう。ぼくは「カラオケならこっちのお店のほうが綺麗だよ」と言って、カラオケ館蒲田西口店へ由梨を案内した。念のため言っておくが、「綺麗」というのは「蒲田の中では比較的綺麗」という意味にすぎない。

 そこで2時間ぐらい歌ったあと、まだ夕食には早かったので、ぼくはサンライズアーケード(JR蒲田駅西口のアーケード商店街)に由梨を案内した(蒲田にはもうそれぐらいしか案内する場所ありません!)。知り合いに遭遇するリスクという観点ではぼくが絶対に行ってはいけない場所だが、なんとなく今日のぼくは知り合いに会わないで済む気がしたのである。ここまで会わずに済んでいるし、なんだかんだで平日の午後だし。

 商店街を歩いているだけなのに、由梨はなぜか楽しそうにしていた。ぼくにとってはただの日常生活エリアにすぎないが、由梨にとってはこの雑然とした感じが新鮮なのだろう(?)。結局、サンライズアーケードの奥のほうまで歩く。知り合いにはすれ違わなかった。100円ショップのセリアが入っている建物を指さして、ぼくは由梨に「ここはぼくが高校生の時まで映画館だったんだよ」と教えた。いまでも「蒲田宝塚・テアトル蒲田」という看板だけは残っている。由梨は「へえ、蒲田に映画館があったんだ。よく行ってた?」と聞いてきた。正直、ぼくはそんなに行ってなかった。観たい映画はあんまりやってなかったし。でも、小学生の時には友達と一緒に保護者同伴で『映画ドラえもん』や『劇場版ポケットモンスター』を観に行ったりしていたな。うん、いい思い出だ。

 建物に入ってセリアを訪れ、由梨がクリップを買うのに付き合う(ぼくは何も買いませんでした)。セリアを出たら、もう夕食時に突入していた。由梨が「夜も蒲田で食べたい」と言うので、ぼくは「餃子のお店でも大丈夫? にんにくの匂いついちゃうけど」と確認した上で、你好(ニイハオ)蒲田駅西口店(たぶん正式名称は違う)へ由梨を連れて行くことにした。「蒲田といえば羽根付き餃子と黒湯」という話は以前にもしたことがあったので、由梨は「餃子ね! 名物だって言ってたね、そういえば」と思い出して大きくうなずいていた。

 はい、6,784文字。もう本当にキリがないので、今度こそまとめに入ります。你好(ニイハオ)蒲田駅西口店(たぶん正式名称は違う)は蒲田のお店の割には女性も訪れやすい雰囲気なので、由梨も落ち着けているようだった(変な感想)。料理が来るのを待っている時、由梨がぼくに「蒲田楽しい」と言ってきたので、ぼくはびっくりして、「本当に? 楽しいところなんてなかったと思うけど」と返した。だって、ここまでで楽しい要素は本当にゼロのはずである。どう考えても蒲田より東京国立近代美術館『中平卓馬展』のほうが価値があるはずだ。由梨は「そんなことないよ。全部楽しい。観覧車も楽しかったし、クリップも買えたし」と言ってきたが、クリップを買うことを「楽しい」と感じるのは変態だと思うし、それって「蒲田」の感想じゃなくて「セリア」の感想だと思います。

 你好(ニイハオ)蒲田駅西口店(たぶん正式名称は違う)を出る。ごちそうさまでした。由梨がぼくと腕を組もうとしてきたので丁重にお断りし、ぼくはJR蒲田駅へ由梨を連れて行く。本日はこれにて解散だ。でも由梨はまだ帰りたくないらしく、「あっちのほう(環八方面)も気になる」とか「自転車はどこに停めているの?(=駐輪場に連れて行け)」と言ってきた。さらに、ドン・キホーテ横のゲームセンターを見つけて、「ゲームセンター入ろう! ゲーセン!」とけしかけてきた。うーん。結局、ぼくらはゲームセンターに入って、クレーンゲームに時間を要したのち(ちいかわのサブキャラ取れましたよ!)、プリクラで記念写真を撮った。

 プリクラの落書きでは、ぼくは日付だけ書いて、あとは由梨に任せた。由梨はアニメーターだけあって、こういうのをパパッと仕上げるのが上手いんだよな。ただ、由梨がぼくらの名前を書いたあと、その脇にハートマークを描き足しているのを見て、内心引いてしまったのはここだけの秘密です。やっぱり、永遠に慣れませんね。「ノンケの彼氏」として扱われるのは。

 ゲームセンターの階段を降りている時、由梨がぼくに体を寄せてきたので、ぼくは「これはヤバいぞ」と直感した。この感じだと、由梨は「帰りたくない」とか「今夜は泊まりたい」などと言い出しかねない。ぼくは由梨に「由梨さん、改札までお見送りするね。今日もパンありがとう。明日もバイト頑張って」と冷静に告げて、完全に解散風を吹かす。由梨は「うん」と言いながらも涙目になっていた。なんだかかわいそう。ぼくは「……大丈夫だよ? 日曜日にまた会える。だから涙を拭いてください」と言ってハンカチを出す。そうしたら、由梨は「泣いてないよ」と笑いながら言った。その顔が健気で少しキュンとしたので、前後に誰もいないのを確かめた上で、ぼくは由梨に0.75秒間だけキスしてあげる。すると由梨は驚いた顔になって、「なに? びっくりした!」と言ってなぜかぼくを叱ってきた。理不尽だ。

 由梨が「駐輪場までついていく」と言ってきたが、ぼくはそれは丁重にお断りし、逆に由梨をJR蒲田駅の中央改札までお見送りして、この日は解散となった。そのあとすぐ、電車に乗った由梨からプリクラの画像がLINEで送られてきた。どう考えても、由梨は目を巨大化させないほうがかわいいよな。

 結局、この日のぼくは知り合いに誰にも会わなかった。まあ、さっきも書いたように、大学生にとっては春休み期間中でも、世間的にはただの平日の午後ですからね。ぼくの地元の友人にしても、蒲田は「生活」の場であって「遊び」の場ではないだろうし。どうせ誰にも会わないで済むならビクビクする必要なんてなかったな。

 それにしても、なぜぼくは由梨と一緒にいるところを知り合いに見られるのをこんなにも怖れているのだろう。「ノンケの彼氏」を演じているところを見せるのは相手を騙している感じがするから、それで罪悪感を抱くのが嫌だからなのだろうと漠然と思い込んできたが、もしかしたら真相は違うかもしれない。もしかしたら、ぼくは「孤独な自分」を自覚したくないだけなのかもしれない。ぼくは友人・知人に性的指向をカミングアウトしていない。ぼくがゲイであることを知っているのは、初体験の相手の上野くんだけだ(学部の後輩の早瀬にはバイセクシュアルだと嘘をついている)。ぼくにとって「ノンケを演じている自分」を見られることは「ゲイであることを隠している自分」を自覚することと一体で、その度に「ぼくは誰にも自分の正体を理解してもらえていない人間なのだな」と孤独を感じる羽目になる。ぼくはそれが不快なのだ。だから彼女と一緒にいるところを知り合いに見られたくないのだ。きっと。

 ただ、この日、蒲田の街を案内してみて、由梨と蒲田で会うのは悪いことではないかもしれないと思った。だって、由梨は楽しそうにしていたんだもの。ぼくは根っからのエンターテイナー気質なので、他人を楽しませるのが好きなのだ(このnoteが誰の楽しみにもなっていない件は別として)。蒲田の何が由梨をそんなに楽しませたのかは分からないが(異国趣味・エキゾチシズムみたいなことか?)、蒲田だったらぼくは案内できる場所やお店がまだまだある。由梨がどうしてもまた蒲田に来たいって言ったら、その時はわがままを聞いて差し上げよう。もちろん、知り合いに遭遇しないように警戒しながらですけどね!

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