ぼくは彼女の部屋に上がる

 ぼくは彼女の部屋に上がる。ぼくが彼女の実家に行くことが決まって、彼女の弟さんへのプレゼントを買って、手土産として近所の和菓子屋でシベリアを買って、彼女の実家を訪れて、彼女のお母さんの手作りの晩ご飯をいただいた……という話のいよいよ今回は完結編である(そのつもりである)。ぼくが一年以上断り続けてきた彼女の実家への訪問話、最後まで見届けていただければ幸いだ。

 小手家の晩餐会。デザートの柿プリンと、ぼくが持っていったシベリアを全員が食べ終わった。ちなみに、由梨のお父さんとお母さんはシベリアを1個食べたら「残りはあとでいただきますね」と言ったが、由梨の弟の孝彦くんは2個目もその場で食べていた。孝彦くんがぼくのシベリアを気に入ってくれたみたいでうれしい。今度またあのお店でシベリアを買って孝彦くんに買い与えよう。上手くいけば孝彦くんとぼくはシベリアがきっかけでお付き合いすることになるかもしれない(その場合の由梨の処遇は未定)。

 全員で自分の使った食器をキッチンに持っていく。孝彦くんは自分の食器を持っていくと、2階にある自分の部屋に上がっていった(たぶん)。ぼくは晩ご飯をごちそうになったせめてものお礼として「お皿を洗わせてください」と申し出たが、由梨のお母さんからは「あ、食洗機で洗うから大丈夫」と言い返された。食洗機。食器洗い機のことか。ぼくの実家にはそんなものないので、由梨の家とぼくの家の経済格差を突き付けられたようで軽くショックを受ける。金持ちの家に食洗機なるものが置いてある可能性すら思いつかず、「お皿を洗わせてください」なんて申し出た自分が惨めだ。ぼくが一瞬絶句していると、由梨のお母さんが「由梨、(ぼくの下の名前)さんをお部屋に案内したら?」と由梨に声をかけた。由梨がそれに応えてぼくに「部屋来る?」と聞いてくる。ぼくは反射的に「あっ、うん」と答えつつ、その時に由梨のお父さんの表情がちょっと強張ったのを見逃さなかった。

 それはともかくおしっこしたい。由梨のあとについて階段に向かう途中、ぼくが「トイレ借りてもいい?」と言うと、由梨はトイレの部屋にぼくを案内し、「じゃあ部屋で待ってるから」と言って2階に上がっていった。ぼくは「このトイレを普段孝彦くんも使っているのか……ハァハァ……」などと興奮しながら用を足し(非常に変態で申し訳ない)、水を流し、手を洗い、トイレの部屋を出て、一人で階段を上がっていく。きれいな一軒家だなあ。階段の途中の壁に額縁に入った花の絵が飾ってあって、ぼくは小手家の裕福さを実感した。2階に到着。廊下もまたきれいである。ぼくの実家(古いマンション)と全然違う。ドアが開いている部屋があるので覗いたら、学習机の椅子にこちら向きで座っている由梨と目が合った。ぼくが「……ここ?」と聞いたら由梨が「ここ」と答えたので、ぼくは由梨の部屋に入る。

 ぼくの実家のぼくの部屋と比べるまでもなく、広くて清潔な部屋である。照明もだいぶ明るい。それと、なんていうか「柔らかい匂い」がする。柔軟剤の香りというか、サンリオのキャラで例えるならシナモンの匂いというか(ぼくはシナモンの匂いを嗅いだことないが)。部屋の内装自体は「白」と「ベージュ」で落ち着いていた。ぼくは高校生以降に女子の部屋に上がったことがなかったから知らなかったけど、大学生になっても女子の部屋ってもっとピンク色のキラキラしたアイテムで埋め尽くされているものかと思っていた(ひどいジェンダーバイアス)。

 由梨が立ち上がって部屋のドアを閉めようとしたが、ぼくは「いや、開けとこう」と言って扉を開けっぱなしのままにしようとした。もし由梨のお父さんかお母さんが2階に上がってきて、由梨の部屋のドアが閉まっているのを見たら、ぼくはあらぬ疑い(室内で娘に卑猥なことをしているのではないか疑惑)をかけられるのではないかと危惧したのだ。由梨はそんなぼくの想いを忖度してくれず、「(開けっ放しだと)寒いじゃん」と言ってやっぱり部屋のドアを閉めようとした。ぼくは「ダメだよ、怪しまれる」と言って抵抗し、結局、半分だけドアを開けておくことでぼくらは合意した。

 「高級そうな机だなあ」などと思いながら学習机に目をやり、机の上に置いてあるA4の文書を見つける。「ああ、これこの前の合発の……」とぼくは尋ねる。合発というのは合同番組発表会の略で、この前の週、由梨の入っている放送サークルと別の放送サークルが合同で発表会を開催したのだ。そこから由梨にいくつか資料を見せてもらったが、やはり他団体の内部資料を見る時はドキドキする。スパイ行為をしている気分になる。もうすでに終了した発表会の資料だし、別に第三者が読んだところでヤバいようなことは書いていないのだが、逆にぼくが書いた企画書類が外部のひとに読まれたら恥ずかしいのでドキドキする。

 本棚の隣の箪笥の上にリラックマのぬいぐるみが置いてあった。ぼくらが付き合う前に行った池袋のデートでお互いに1個ずつ買ったやつだ。ぼくがリラックマを持ち上げて「飾ってるんだ? これ」と言ったら、由梨はぼくの右半身に自分の体をぶつけて、「ずっと置いてるよ。ずっと見守られてる」と言ってきた。「見守られてる」という言い方に若干の気持ち悪さを感じたが、ついさっき小手家のトイレをお借りしながら「このトイレを普段孝彦くんも使っているのか」と興奮していたぼくに他人の気持ち悪さを非難する資格はないので黙っておいた。ちなみに、ぼくが持っているほうのリラックマは、ぼくの部屋の押し入れにビニール袋に入れられた状態のまま収納されています(買ってから一度しか取り出したことない)。

 由梨が「飲み物持ってくるね。座って待ってて」と言って部屋を出て、1階へ降りて行った。彼女の部屋に一人取り残されてしまった。「座って待ってて」と言われたが、学習机の椅子に座るのは気が引けたし、フローリングの床に直に座るのも億劫だったので、立ったまま由梨の本棚を眺めることにした。由梨が前に何度も話していた『リトル・ニモ』の漫画本を見つける。話を聞いて気になって大田区立図書館や大学図書館でも探してみたが置いていなくて、Google検索してみたら現在絶版になっている希少本だと判明したやつだ。ようやく実物を生で拝めた。ちょっと読んでみたいぞ。でもこれ、古本が7,000円以上で取引されているガチのレア絶版本だしな……勝手に手に取ってぼくの手垢を付けるのはよくない気がする。ぼくが本の背の部分をおそるおそるなぞっていると、由梨がお盆みたいなのにお茶のペットボトルと紙コップ数個とポッキーの袋とカントリーマアムの袋を乗せて戻ってきた。

 ぼくが本棚の前に立っているのを見て、由梨が「気になる本あった?」と聞いてくる。ぼくが「『リトル・ニモ』。ようやく見つけた」と答えると、由梨は本棚からいともたやすく『リトル・ニモ』の漫画本を取り出し、ページを開いて数秒間だけ読んだあと、「はい」と言ってぼくに渡してきた。希少本を軽々しく扱いやがる。『リトル・ニモ』の漫画本を初めて読んでぼくがまず思ったのは「絵が細かい」「文字が小さい」「紙質が高級」程度のことだったが、読み進めているうちに、由梨の作るアニメと共通する雰囲気を感じ取った。ぼくが「由梨のアニメとタッチが似てるね」と言ったら、由梨は「影響は受けてるかもしれない。小学6年生の頃から読んでるから」と応答した。小学6年生の頃かあ。そうだよな、由梨にも小学生の時があったんだよな。ぼくは小学6年生の時の由梨がこの部屋で『リトル・ニモ』を読んでいる姿を想像して、なんだか胸がざわついた。

 由梨がベッドの上に座って、自分の左隣の位置をポンポンと叩き、「ここに座れ」という信号を送ってくる。ぼくは由梨が毎日使っているベッドに自分のお尻を着けるのは気が引けたが、断る理由が思いつかなかったし、ぼく自身立ち続けているのも疲れてきたので、『リトル・ニモ』を手に持ったままベッドに腰を下ろした。ぼくが読み進めている途中、由梨も『リトル・ニモ』のページを覗き込んできた。明らかにぼくの読書の邪魔である。

 もう読むのやめようかなあなどと思っていると、廊下のほうで音がするのが聞こえた。ぼくが由梨に小声で「……来た。誰か来た」と言ったら、由梨は立ち上がって部屋の入口のほうへ向かって、半分だけ開けていたドアを全開にした。由梨のお父さんかお母さんが入ってくるかもしれないと思って、ぼくは立ち上がる。……誰も入ってこないし、ドアの前にも誰もいない。由梨がドアのほうから室内へ戻ってきて、「たぁくんがトイレ入ったみたい」と言ってくる。この時、ぼくは小手家には2階にもトイレがあることを初めて知った。やっぱり小手家は金持ちである。

 由梨が「あっ! たぁくんに魚拓見せてもらおうか!」と声を出す。魚拓──さっき夕食を食べている時に話題に上った、孝彦くんが去年釣りに行って取ったという大きなイワナの魚拓である。ぼくは孝彦くんにご迷惑じゃないだろうかと懸念しつつ、「うん……」と答える。ほどなくして、2階のトイレのドアが開く音と水が流れる音が聞こえた。由梨が廊下へ出て「たぁくん、(ぼくの下の名前)くんに魚拓見せてあげて」と声をかける。孝彦くんが「はぁ?」という言葉を返すのが聞こえる。あー、やっぱりやめたほうがいい。高校生の男子に迂闊に声をかけるのはよくない。姉の彼氏が家に来ていて同じ階にいるというだけでいい気分じゃないだろうに、そいつに自分の趣味の成果を見せろだなんて要求されたらイラ立つに決まっている。ぼくは由梨に小声で「いや、別に大丈夫だから……」と声をかけるが、由梨は聞こえなかったらしく、「魚拓! (ぼくの下の名前)くんに見せてあげて」と再び高2男子に要求している。孝彦くんはぼくに聞き取り不可能な言葉を返すと(ぼくには「ガラン・ガンジャッテ」か「アガン・アングァッテ」と聞こえた)、由梨の部屋の隣の部屋に入ってドアをバタンと閉めた。どうやらここが孝彦くんの部屋らしい。

 ……と、本当はこの続きを書いちゃいたくて仕方ないのだが、ここまででもう4,000字over、これを書いている現在めちゃくちゃ眠いのでまた次回に稿を改めさせてください。冒頭に「いよいよ今回は完結編である(そのつもりである)」と書いておきながら約束を守れずごめんなさい。ぼくは約束を守らない男です。集合時間によく遅刻する男でもあるし、遅刻の連絡をする時に「さっき駅の階段で転んだので遅刻します」というどうしようもない嘘をつく男でもあります。ついでに言うと、彼女の弟が普段使っているのと同じトイレを使って興奮する男でもあるし、その変態性をnoteで全世界にアピールする男でもあります。さらにはその彼女の弟との忘れ得ぬエピソードを次回の更新分で発表する気満々の男でもあります。そういう男はえてして睡魔に弱いものです。全世界のみなさま、おやすみなさい。

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