ぼくは大学4年生になる

 新年度が始まった。大学4年生である。自分が4年生になったなんて信じられないし、まったくうれしくない。変な言い方になるが、自分には「大学2年生」が向いている。放送研究会に現役部員として所属していて、上には先輩がいて、下には後輩がいて、バリバリに台本を書いたり脚本を書いたり編集したりしているあの感じ。忙しすぎて睡眠時間少なすぎて錯乱しそうになることもあったが、2年生の時の一年間はぼくの黄金期だった。

 ぼくは一生「大学2年生」のままでいたかった……と思ったが、そうなるとぼくは深田(放送研究会の後輩)(ぼくの二個下の爽やかイケメン)に出会えなかったわけで、それはそれで困りますな。ぼくは本当に深田が大好きなのである。この前も深田の夢を見た。春休み明け、9号館の前で深田とたまたま顔を合わせた日の夜のことである。夢の内容はよく覚えていないが、ぼくのことをめっちゃ気遣ってくれるような内容だったと思う。いまのぼくは深田なしでは生きられない。深田のほうもぼくなしでは生きられない感じだったらいいんだけどな。

 ……あの、ぼく怖いこと言ってます? 大丈夫です? みなさん引いちゃったりしてます? ……ただまあ、他人にどう思われるかを気にしているようだったら、ぼくはこんなnoteをやってません。だって、前回のnoteなんて「彼女の弟とその友人(高校生)がうちの大学を見学したいっていうから案内してあげた」というだけの話で6,600字だもの。どう考えても異常である。常軌を逸している。書くほうも書くほうだが読むほうも読むほ……なんて言ったら罰が当たるので言いませんけど、まあ、自分でも自分の長文癖にはホトホト愛想が尽きております。

 ぼくのnoteがいつも長文になるのには理由がある。それは、ぼくが「大きいこと」よりも「小さいこと」に気を取られるからだ。ぼくはいつもnoteに日記めいたものを書く時、あらかじめ長文を書こうとは思っていない。1,000文字以内で収めようとさえ思っている。だが、実際に書き始めてみると、「大したことではないけどそういえばこの時にこういう出来事があったな」などと思い出して、ついつい細かい話や小さな感想を書いてしまう。それでぼくのnoteは毎回長文になってしまうのだ。

 先日、香川(学科の友人)と一緒に学校帰りに紀伊國屋書店新宿本店へ行って、ぼくは『大江健三郎 柄谷行人 全対話』という本を買った。去年の暮れに大学図書館でたまたま手に取って、借りて読んでみたけどだいぶ歯ごたえのある内容で、返却期限までに1/3しか読み終わらなくて、これはぜひ手元に置いておきたいぞと思っていた本である。

 タイトルから察しがつくように、この本は大江健三郎(小説家)と柄谷行人(批評家)の組み合わせで行われたすべての対談を収録した本だ。まあ、すべての対談といっても計3回だけなんだけど。この本が出たのは2018年。まだ二人とも生きていたのに「全対話」と銘打って出版したところがすごいと思う。もう二人は二度と対談しないという見通しでもあったのだろうか? ……まあ、仮に4回目の対談があったとしたら『続・全対話』とかいうタイトルで続編を出版すればいいだけか。講談社の魂胆はお見通しだ!

 さて、この『大江健三郎 柄谷行人 全対話』では、中野重治という作家をめぐって二人が対話を重ねている箇所がある。ぼくは一応文学部生だが、中野重治という人物の存在をこの本で初めて知った(文学部は文学部でも哲学科なのだからしょうがないと言い訳させてくれ)。明治35年に生まれ、戦前・戦中・戦後にかけて小説や詩や評論を発表したひとらしい。

 ぼくがどうしてここで中野重治に注目しているのかというと、中野重治について、大江健三郎と柄谷行人が「ちょっとの違い」に固執した人物だったと評しているからだ。実際、中野重治は「ちょっとの違い、それが困る」というエッセイを1971年に発表していたりする。この「ちょっとの違い」へのこだわりというのは、完璧主義だとか、「神は細部に宿る」だとかいう話とは違う(と大江健三郎と柄谷行人は対談の中で説明する)。

大江 そういうのが中野さんのやり方で、独特な細部の観察が少しずつ論理を展開していく、作品を展開していくんですね。そうやって、ついにはきわめて大きなものを組み立てていく。

『大江健三郎 柄谷行人 全対話』講談社,p.20

柄谷 たとえば、細部といっても、病気の比喩で言うと、兆候のようなものですね。それは単に全体のなかの細部ではなくて、むしろ全体-細部そのものの狂いを示しているような細部です。その細部は、何か別のものを意味しているわけです。中野さんはそこをパッとつかんでしまう人ですね。

『大江健三郎 柄谷行人 全対話』講談社,p.22

 中野重治が「大きな違い」でなく「小さな違い」を気にした作家だった、という大江健三郎と柄谷行人の対談を読んで、別にぼくは自分と中野重治の共通性を意識したわけではない。ましてや、「ぼくは中野重治の生まれ変わりなのかも」などと思ったりもしていない。中野重治が細部の観察から作品を構築していったという話と、ぼくがnoteでいつも長文を書いてしまうという話は別の話のような気がするし。

 むしろぼくがうれしかったのは、中野重治をめぐる話の流れで、大江健三郎が「僕は小説家で、つまり細部の人間」と言っていることだ。ぼくは小説家ではないが劇作家ではある。脚本から細部を省けば尺を短くできるが、その分、作品から個性が失われていくことを知っている。言い換えるなら、物語の要約文(あらすじ)からは漏れてしまう「場面」にこそ、その作品の価値や値打ちや持ち味はあると思うのだ。

 大江健三郎の短編「無垢の歌、経験の歌」で言ったら、主人公の息子がFMラジオから大音量でブルックナーの交響曲第8番ハ短調を流していたとか、砧ファミリーパークで母親を転倒させて脳震盪を起こさせてしまったとかいう場面である。物語を200字(あるいは400字)以内に要約せよ、という課題が出たら明らかに省かれる箇所だ。しかし誤解を恐れず言うなら、「無垢の歌、経験の歌」はこういう細部の場面こそが面白い。「主人公が高校生の息子の反抗的な態度に動揺するが、そのあと結局安心する」なんてあらすじだけだったらクソ面白くもなんともない。

 というわけで、根っからの劇作家であるぼくが細部を気にしてしまうのは当然のことだし、日記代わりのnoteに細かいエピソードをついつい書いてしまうのも仕方がないことなのです(開き直り)。読者のみなさんには、ぼくのnoteがいつも長文なのは職業病なのだとご理解いただきたい。「ぼくのnoteはいつも長文である」という記事が長文になっているのも持病のせいだとご理解いただきたい。今日のこの記事を「ぼくのnoteがいつも長文なのは細かい逸話を記述しているためであり、細部に価値を見出すという劇作家の性質ゆえである」と要約することは可能だけど、それだったらクソつまらないですもんね。じゃあこの3,000字弱いっちゃってる記事が面白いかっていったらそれは別問題ですけど。

 紀伊國屋書店新宿本店で香川から「何買ったの?」と聞かれて、ぼくが『大江健三郎 柄谷行人 全対話』を見せたら、香川は「今日はちゃんとした本買ってるじゃん」と言ってきた。香川は普段ぼくが芸能関係や演芸関係の本ばかり買っていると思い込んでいるのだ。いや、実際、そういう本を買うことは多いんですけどね。それを知っているからこその香川の一言ではあるんですけどね。でも、ぼくにもちょっとばかりはアカデミックな一面があったりするのだ。その証拠に……と言ってはなんだが、ぼくが大学生活最後の年、4年生になって最初に買った本は『大江健三郎 柄谷行人 全対話』だった(まだ読み終わってないけど)。

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