ぼくと彼女は出久根育展へ行く

 ぼくと彼女は『出久根育展』へ行く。ぼくと彼女は二人で吉祥寺にいることが多い。ぼくも彼女もJR中央線沿線の大学に通っていて、由梨の大学は吉祥寺の近くにあるからだ。ただ、大学の長期休業期間に入ると、ぼくらが吉祥寺にいることは少なくなる。ぼくは東京都大田区、彼女は神奈川県横浜市に住んでいるので、それぞれの自宅から離れた吉祥寺までわざわざ一緒に行くことはどうしても少なくなるわけですね。

 とはいえ、吉祥寺は魅力的な街である。ぼくと由梨にとって吉祥寺は「学校帰りに落ち合う場所」というイメージが付いちゃっているけど、別に長期休業期間にわざわざ訪れたっていいはずだ。というわけで、ぼくと由梨はこの春休み期間中にも3回は吉祥寺に行っている。そのうちの2回、ぼくらはコピス吉祥寺7階の武蔵野市立吉祥寺美術館へ行って、『出久根育展 チェコからの風 静寂のあと、光のあさ』を見てきた。

 吉祥寺美術館はぼくらが初めて一緒に行った美術館だ。一昨年の6月に正式に交際を始めたあとすぐ、由梨から「吉祥寺にも美術館があるんだよ」と教えられ、武蔵野市民のひとが描いた絵画の展覧会に連れて行かれた。想像とは違ってこじんまりとした「美術館」だったが、一応、これがぼくにとっての美術館デビューである。それ以来、ぼくらは企画が替わる度に吉祥寺美術館へ行っている。商業ビルの7階にあるギャラリー的な美術館なので、吉祥寺に来たついでにふらっと寄るにはちょうどいいのだ。普段は入場無料だし、企画展だって300円だし。

 由梨はずっと大学の放送サークルでアニメを作ってきたひとで、東欧のアニメや漫画にも詳しかったりする。しかし、ぼくのほうはそんな奥深い世界には縁がない。恥ずかしながら、今回の展覧会に行くまで「出久根育」というひとの存在さえ知らなかった。『出久根育展』のチラシを見たところで、「出久根育」のどこまでが名字でどこからが下の名前なのかも分からなかったし、男性なのか女性なのかも、存命の人物なのか19世紀ぐらいの人物なのかも分からなかった(失礼)

 出久根育(でくね・いく)はチェコを拠点に活動している日本人の絵本作家で、岩波少年文庫から出ている『グリム童話集』やチェコの童話集の挿絵なんかも描いているひとだ。言われてみれば、なんとなく絵に見覚えがあるような気もする。ちなみに出久根育は女性で、存命人物である。

 3月の初め。JR京浜東北線蒲田駅のホーム(大宮方面)で由梨と待ち合わせ。神田駅でJR中央線に乗り換えて吉祥寺駅へ向かう。ぼくらは『出久根育展』には開幕当初(2月の初め)にも行ったが、由梨が「ねえ、もう一回行ってもいい? やっぱり図録を買おうと思う」と言ったので、閉幕日ギリギリに改めてもう一度行くことになったのだった。まあ、気に入った展覧会にまた行きたくなる気持ちは分かるし、気に入った展覧会の図録を買いたくなる気持ちも分かる。ぼくは「うん、買いに行こう。『本は借金してでも買え』って言うしね」と言って、その提案に乗った。っていうか、ぼくに最初から拒否権なんてないんですけどね……

 JR吉祥寺駅到着。人混みをかき分け、コピス吉祥寺7階・武蔵野市立吉祥寺美術館の『出久根育展』へ行く。前回行ってから1か月弱しか経っていないので、さすがに見覚えのある絵ばかりだ。なお、展示室内は撮影不可でしたが、ロビーに展示されている絵は撮影可でした。

『チェコの十二ヵ月 おとぎの国に暮らす』(2017年)より
『ぼくのサビンカ』(2023年)より
『ぼくのサビンカ』(2023年)より

 展示室の中でぼくがいちばん気に入ったのは、岩波少年文庫の『火の鳥ときつねのリシカ チェコの昔話』の挿絵かな。森の中を歩いている少年の背中を描いたやつ。単純にぼくは男子が好きなのでね。あとは、この展覧会のために描き下ろされた新作『わたしはしっているの』もよかった。オオカミとかウサギとかシカとかチョウが森の中で女の子と戯れている様子を描いた絵画だ。画像はこちらで見れます。

 『わたしはしっているの』を二人で眺めながら、ぼくが由梨に「ここに描かれている動物の中でぼくは右上のシカが好きだな。由梨はどれが好き?」と聞いたら、由梨は「うーん……どれか一個だけ選ぶならフクロウかな」と答えた。左上に描かれてあるやつである。……いや、フクロウを選ぶのは反則だろう! フクロウはこの絵の中でキャラが立ちすぎている。ぼくが「それは反則」とツッコむと、由梨は「反則ってなに? この中から選んだんだから反則なんてないでしょ」と笑いながら反論してきたが、まあ、ぼくはいまだに由梨の回答は反則だと思っています。

 『出久根育展』で由梨はどの作品も熱心に鑑賞していたが、ぼくが見た感じ、展示室の出口の近くに展示されていた『こどもべやのよる』の挿絵を特に熱心に鑑賞していた。『こどもべやのよる』は2024年2月9日に刊行された絵本で、ぼくらが『出久根育展』に一回目に行った時にはまだ発売されていなかった絵本だ。ぼくが由梨に「この絵、好き?」と聞いたら、由梨はぼくの目を見つめて「好き。写実主義と印象主義のバランスが素晴らしい」というようなことを言った。話が専門的でぼくにはよく分からなかったが、とりあえず、由梨が『こどもべやのよる』の絵が好きだということは分かった。

 それから約2週間後。石川町のカプリチョーザ横浜元町店で由梨と晩ご飯を食べる。ホワイトデーを迎えたので、ぼくはバレンタインのお返しとして由梨にチョコレートを渡した。メリーチョコレートが去年に続いてムーミンとのコラボ商品を出したので、今年もそれを購入したのだ。ただ、今年は蒲田の店舗ではポーチタイプのやつが見当たらなかったので、缶の箱のやつを購入した。ムーミンのキャラクターが缶の蓋に集結している。これはこれでお洒落でかわいいぞ。ぼくからムーミンのチョコを渡されて由梨は喜んでいたが、ぼくはこの日、実はもう一つサプライズを用意していた。

 ぼくは緊張しながら「……あのさ、出久根育の『こどもべやのよる』……絵本、もう買った?」と由梨に尋ねる。由梨はキョトンとした顔で「『こどもべやのよる』? 買ってないけど」と答える。よかった。ぼくはリュックサックの中から有隣堂の袋を取り出し、「これもホワイトデーのお返しで……」と言いながら由梨に袋ごと手渡した。由梨は「えっ」と言って袋を開け、中から絵本を取り出し、それが『こどもべやのよる』であることを確かめると、目を見開いて「ありがとう!」と大喜びした。まるでアカデミー賞でも受賞したかのようなリアクションだ。明らかにさっきムーミンのチョコをもらった時よりも喜んでいる。

 由梨から「えっ、どうしたの? 買ったの?」と聞かれたが、逆にそれ以外にどんな選択肢があるというのだろう。ぼくは「当たり前だろ。ただ、蒲田の有隣堂には置いてなかったら取り寄せてもらって、今日までに間に合うかどうかドキドキした。由梨がもうすでに買っていたらどうしようかとも思ったし……」と説明したが、由梨はそんなぼくの話には耳を傾けず、『こどもべやのよる』のページをペラペラめくって絵を眺めている。子どもか。目の前のおもちゃに夢中になって周りが見えなくなっている子どもなのか。ぼくが「……ねえ、話聞いてる?」と聞いたら、由梨は「聞いてるよ! 蒲田の有隣堂で買ったんでしょ。ありがとう!」と笑顔で応えた。だいぶ内容を端折ってやがる。まあ、喜んでくれたならいいけどさ。

 『こどもべやのよる』。菊判変・上製。40頁。1,320円(税込)。万年金欠学生のぼくにとって、決して安い買い物ではない。由梨がムーミンのチョコレートよりもこちらのほうに喜んでいたことを考えると、ぼくのホワイトデーの贈り物はこの絵本一冊で十分だったような気もしてくる。ただまあ、そんなケチくさいことを今さら言ってもしょうがありません。ぼくは2024年のホワイトデー(から数日後)に彼女に「喜び」と「大喜び」を与えた男として歴史に埋もれていくこととしよう。

 それにしても、まさか由梨が『こどもべやのよる』をもらってあそこまで大喜びするとは想定していなかった。そりゃ、それなりに喜んでくれるだろうとは思っていたけどさ。あの成人女性は『こどもべやのよる』のいったいどこに、出久根育の絵本のいったいどこにそこまで惹かれているのだろう。今度、改めて由梨に魅力を尋ねてみようかな? ぼくは最近、少しだけ絵本に興味を持ちつつある。

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