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【太宰治】太宰が合コンしてたって!? ー青春五月党についてー

今年生誕110周年を迎えた、あの太宰治が合コンしてたって!?

 6月30日、練馬区立石神井図書館で行われた太宰治生誕110年 パネル展&文学史トーク「太宰と檀と三島由紀夫と練馬・石神井公園」へ行って来ました。当日は二部構成で、まず最初に13時から、練馬区の地域振興を手掛ける任意団体「ちいくタイム練馬」の代表であり、近代日本文学研究家のトモタさんによる文学史トークが。続いて15時から日本史家・作家の葛城明彦さんを案内人に、文学史ウォーク『石神井公園文学散歩』が行われました。
 「太宰には雨がよく似合う」と、どこかで聞いたフレーズを思い出しながら、雨が降ったり止んだりの一日で、残念ながら文学散歩の時間には雨に降られてしまいましたが、現地を訪れないとお伺い出来ない、貴重で面白いお話を聞くことができ、とても有意義な時間を過ごすことができました。今回は、今年生誕110周年を迎えた太宰治が「合コンをしていた」という衝撃のエピソードにフォーカスして紹介していきたいと思います。

男女交歓会「青春五月党」

 太宰が合コンをしたのは、1937年5月9日
 当時の太宰は、前年からのパビナール中毒とそれに伴う東京武蔵野病院への強制入院(1936年10月)、妻・小山初代さんの不倫、初代さんとの群馬県水上温泉での心中未遂と離別(1937年3月)など、心身ともに疲弊するような生活を送っていました。
 しかし、次第に落ち着いてきて、5月になると、友人の檀一雄、伊馬鵜平などと共に、大いに男女交歓しようと発起し、「青春五月党」というグループを作りました。この頃の太宰の様子について、太宰治、山岸外史と並んで「三馬鹿」と呼ばれた檀一雄が、太宰心中の一年後に出版した『小説 太宰治』(六興出版社、1949年)で以下のように書いています。

 船橋の頃の不健康は、失せてしまって、太宰は例のユーモラスでチャーミングな快活を取り戻していた。もっとも、心の楽屋裏の方は、私は知らない。太宰と私と伊馬と発起して、「青春五月党」というのを結成した。
 例のヤケクソからである。私の妹の友人を呼び集めた。女子美術の生徒達である。それから高橋幸雄、堀内剛二、猪口富士男等を呼んできた。
 女達にめいめい弁当を作らせ、桜がちょうど終った頃、大はしゃぎで、石神井の池畔に出掛けていった。

 この時のメンバーは、太宰治、檀一雄、伊馬鵜平、高橋幸雄、堀内剛二、猪口富士男、塩月赳、檀一雄の妹・寿美と女友達の計12人でした。

青春ごがつ党?青春さつき党?

 「青春五月党」の読み方についてですが、5月の開催というところから、太宰がその場のノリで命名したと言われていましたが、唯一「青春五月党」について書かれている檀一雄『小説 太宰治』の本文上でルビは振られておらず、一部の関係者を除いて読み方は定まっていなかったようです。
 しかし、芥川受賞作家である柳美里が18歳の時に旗揚げした演劇ユニット「青春五月党」は、「青春ごがつ党」と読んだため、「ごがつ」と読まれることが多くなりました。柳美里は、壇一雄『小説 太宰治』の「青春五月党」の記述からユニット名を取ったことを明らかにしており、旗揚げ公演作品『水の中の友へ』は、折口信夫による太宰治への追悼文『水中の友』に由来すると思われ、主人公の名前は、太宰治の本名「津島修治」でした。
 その後、太宰研究家として知られる相馬正一が記した『檀一雄 言語芸術に命を賭けた男』(人文書館、2008年)巻末のあとがきに、1968年の夏に相馬正一が檀一雄宅を訪れた帰り、石神井公園をひと廻りして駅まで見送ってくれた際、「この公園が、例の青春五月党(せいしゅんさつきとう)の根拠地ですよ」と話したことをルビ付きで書いたことで、研究者の間で読み方が「さつき」に確定していったそうです。
 それでは、檀一雄『小説 太宰治』の記述を引用しながら、当日の様子を追っていきたいと思います。

石神井公園までハイキング

 素晴らしい五月の太陽だった。もうブヨがうるさくつきまとっていた。荻窪から石神井まで徒歩で抜け、三宝寺池畔の茶店の藤影に、縁台を据えた。

 当時、太宰は荻窪の碧雲荘に住んでいました。おそらくそこに集合して、石神井までハイキングしたのでしょう。
 ちなみに、Google Mapsで「荻窪駅~石神井公園」を調べてみると、4.3km徒歩だと約55分の道のり。そこそこの距離です。

 上の写真が、石神井公園の全体図です。引用文中の「三宝寺池」は、図の右側にある池のことです。
 この三宝寺池は、武蔵野丘陵の地下水が湧き出して池になったもので、1945年に武蔵野鉄道が開通してから、都心から近い行楽地ということで、多くの人が訪れるようになったそうです。吉祥寺の井の頭池、杉並の善福寺池と共に、武蔵野三大湧水地として知られています。家族連れやカップルのデートスポットでもあったようなので、合コンの舞台にはうってつけだったのでしょう。

 そして、葛城明彦さんの案内によると、太宰一行が縁台を据えた場所は、上の写真のこの辺りだそうです。
 引用文中の「茶店」とは、ここにあった「見晴亭」を指し、大正期に建てられたそうです。

 建物を建てる時、柱の水平設置や腐食を防ぐ目的で、柱の下に礎石(そせき)を置きますが、その跡も残っています。

 Google Mapsだと、こんな感じです。
 ちなみに、檀一雄が、玉川上水での太宰心中事件の報に接したのも見晴亭で、真鍋呉夫・高岩震とともに新聞各紙の記事を読んだそうです。その直後、見晴亭に隣接する、滞在していた旅館「武蔵野館」で『さみだれ挽歌』も執筆しました。
 見晴亭は、1993年頃に取り壊されたそうです。

 これは、三宝寺池畔の厳島神社です。元は弁財天祠でしたが、1968年の神仏分離令により現在の名称に改称されたそうです。
 三島由紀夫は、1942~1943年頃の晩秋に檀一雄と三宝寺池を訪れ、この厳島神社付近で酒を飲んだそうです。

合コンは上手くいった?

 さて、三宝寺池畔に陣取りをした太宰一行。果たして合コンは上手くいったのでしょうか?再び檀一雄『小説 太宰治』から引用してみます。

 美人がいた。武田明子という名前だったことまで覚えている。しかし、少女達はみんな、甲斐々々しい背広姿の高橋幸雄に誘われて、ボートの方に降りていった。太宰と私と伊馬鵜平だけが、縁台の上に、置きざりになるのである。
 「もう駄目だね、我々は」と、伊馬。
 「こりゃ、ひでえ。全く駄目だ。もう、こうなったら、立派になる以外はない。髭をはやすさ。やけくそだ。カイゼル髭だ。伊馬君も檀君も、思い思い、立てたほうがいいよ。こりゃ、ひでえ。ワッ」
 と、太宰は例の叫び声をあげながら、酒をあおった。
 「もうこうなったら、坐禅だ。達磨だ。面壁九年だ」
 太宰は縁台の上に、結跏を組んで、また酒をあおるのである。
 「そうだ、檀君。男は、女じゃねえや。ワァひでえ。意味をなさん。ナンセンスだ。自分ながら、驚いたね」

 太宰というと、女性にモテたイメージがあったので、これは、ちょっと意外な展開。
 この時、太宰は28歳。葛城明彦さんは、「当時は20代前半で結婚する人が多かったので、太宰たちは、少しオジサンに見えたのでは?」と話していました。女性5人もいながら、全く相手にされないとは、なんとも寂しい限りです……。
 ちなみに、引用文中の「ボートの方」というのは、「三宝寺池」ではなく、お隣の「石神井池」のことだそう。
 三宝寺池は、太宰一行が訪れる2年前の1935年、氷河期(約2万年前)から残る「ミツシガワ」をはじめとする貴重な植物群落が「国指定特別天然記念物」になりました。その保護を目的として、前年1934年に、三宝寺池からの流れを堰き止め、人口のボート池として「石神井池」がつくられました。

 上の写真が「石神井池」です。

吹っ切れた太宰

 せっかく「青春五月党」を結成し、合コンを開催したのに、女性陣に全く相手にされなかった太宰。てっきり落ち込んでいるのかと思いきや……

 この日の大はしゃぎの太宰を思い出す。私と太宰は、池畔で何枚も写真を撮ってもらって、やがて池をグルリと廻り、いつまでもボートを漕いでいる、高橋や少女達を呼びかえした。

 なんと、大はしゃぎしていたそう。完全に吹っ切れちゃっています。クイクイお酒をあおって、楽しくなっちゃったせいもあるんでしょうか。

 この日撮られた写真が2枚残っているのですが、上の写真はその中の1枚です。

集合写真の撮影場所は?

 上の写真が、現存する写真のもう1枚、集合写真です。
 『石神井公園文学散歩』では、この写真を撮影したと思われる場所も案内してもらいました。

 それが、この場所です。

 Google Mapsで見ると、こんな感じ。
 集合写真の背景に石神井池に浮かぶ「中之島」と思われる場所が写っているため、この中之島北西側で撮影した可能性が高いということでした。葛城明彦さんは、「ほぼ間違いないと思います」と話されていました。
 この中之島は、石神井池をつくった際、アクセントとして掘り残される形で造られた島で、写真右側に写るコンクリートの橋は、石神井池と同じ1934年に架けられたそうです。

太宰・檀・伊馬の帰路

 記念撮影も終了し、女性達と別れた太宰・檀・伊馬の3人は帰路につきます。その時の様子を『小説 太宰治』から引用します。

 やがて、少女達と別れて、荻窪の裏の畑地を、三人で歩いた、モヤモヤと媚(あだ)めいた夕暮れのことを覚えている。
 太宰はもう饒舌(しゃべ)らなかった。私と伊馬の後ろから、とぼとぼついて来たが、折々、ちょうど、かすかに光り始めた星などを、いぶかしそうに仰ぎ見たりしていた。が、私達が振り返って、しばらく待つと、あわてて微笑を浮かべながらやってきて、
 「ナポリを見てから、死ぬ」
 畔の溝を一つ跳びこし、ワハハハと、夕暮に金歯を閃(ひら)めかせながら、意味もなくそう笑った。

 「とぼとぼ」歩いていたということは、やっぱり太宰にとって、この男女交歓会は心残りだったのでしょうか。「あわてて微笑を浮かべ」たのが、無理に元気を振り絞ったようにも感じられます。
 ちなみに、この後に「青春五月党」に関する記述は見当たらないことから、第二回目の合コンは行われなかったようです。
【了】

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【参考文献】
・当日配布レジュメ
 トモタ(小泉友威)『太宰と檀と三島由紀夫と練馬・石神井公園』
 葛城明彦『石神井公園文学散歩』
・檀一雄『小説 太宰治』(岩波現代文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・日本近代文学館『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
 ※太宰の写る2枚の写真を引用しました。
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