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されたくないことを、する勇気

多くの人が、「自分がされていやなことを、人にしてはいけない」と教わったのではないでしょうか。最近、この言葉の呪いについて考えています。

あなたのいやと、わたしのいやは、同じなの?

 冒頭に書いた言葉の真意は、「他人に迷惑をかけないように」ということだと思います。何を当たり前のことをと思うかもしれませんが、この真意と冒頭の言葉が、いまは遠く離れてしまっているように思えるのです。

 「自分がされていやなことを、人にしてはいけない」と「他人に迷惑をかけないように」がイコールで結ばれるには、大きな前提条件があります。それは、「自分がされていやなことと、相手がされていやなことが、同じである」ということ。これも、何を当たり前のことをと思われてしまうかもしれません。でも、よく考えてみたらそんなことあるでしょうか。

うれしいことが違えば、いやなことも違うはず、なのに

 逆に、されてうれしいことについて考えてみましょうか。休日の過ごし方、あなたはどのような過ごし方が好きですか?

理想の休日は人それぞれ

 私は、午前中はだらだらと寝て過ごして、午後はちょっとお出かけする。そんな休日が好みです。一方、妻は休日は家でのんびり過ごしたいタイプです。アウトドアを楽しむという人もいれば、ビデオを観たりゲームをしたりしてインドアを楽しむ人もいるでしょう。平日にできずたまった家事をしたいという人もいるかもしれません。家族で過ごしたい人、恋人と過ごしたい人、休日はひとりにないたい人、本当にそれぞれです。

 休日の過ごし方ひとつを取っても、自分のうれしいと他人のうれしいはこんなに違うのです。だとしたら、されていやなことも違いますよね。それなのに、休日をひとりで過ごしたい人の家に、「せっかくの休日をひとりで過ごすなんてかわいそう」と遊びに押しかけるような人を見かけるのです。

うれしいかいやか、自分を基準に考えて大丈夫?

 押しかけた方は、「休日は友だちとにぎやかに過ごす方がうれしい、ひとりで過ごすのはさびしい」と考えているかもしれません。だとすれば休日に友人が来るのはうれしいことなので、「自分がされていやなこと」はしていません。なんだか、こんな掛け違いを最近よく見るのです。そしてそういう人たちから、「私だったらこういうときはこうしてほしい」「私だったらこういうことはされたくない」と自分を基準にする発言を耳にして、残念な気持ちになるのです。

 そもそも、私たちが子どもだった頃、「こういう風に行動すべき」「こういうことはしてはいけない」と、いい行動と悪い行動が一律に示されていました。周囲には日本人しかおらず背景がほぼ同じ、さらに一億総中流時代には多くの人が同じような物を持ち、同じような生活をしていました。だから、あなたのいやとわたしのいやは、だいたい同じだったのです。違ったとしても、「私が少数派なだけで常識で考えればこれはうれしいこと」と考えるのが自然だったのだと思います。

男子は黒、女子は赤という画一的な感覚は古いのかも

 今は、どうでしょうか。育った国、地域もそれぞれだし、考え方や好みは人それぞれだと認められるようになりました。しばしば話題になるように、性自認でさえも個性として認め合う時代です。そんな時代に、同一の価値観を求めることが正義だとは、どうしても思えないのです。

相手の個性に寄り添う行動がこそ、新マナーなのでは

 人によって、うれしいこともいやなことも違う。だったら、何を基準に行動すればいいのでしょうか。今度も、うれしいを基準にする場合を考えてみましょう。たとえば誕生日プレゼントを選ぶとき、あなたはどのように考えますか?

 私はお酒を飲むのが好きです。趣味は自動車とデジタルガジェット。誕生日プレゼントにひねりの効いたデジタルガジェットをもらうととっても喜びます。誕生日だから飲みに行こうなんて誘いも、大歓迎です。だからと言って、私と同じように喜ぶだろうと誰にも彼にもデジタルガジェットやお酒を送りつけることはありません。当たり前だろって? そうですよね。

 誕生日プレゼントを選ぶときには、相手のことを考えます。どういうもの、ことが好きなのか、最近こだわっていることは何だったか、どういう生活を好む人だったか。それによって、プレゼントを選びます。

私自身は花をもらうのが大嫌いですが、華やかな雰囲気を好む人には花を贈ります

 相手のうれしいを想像するように、相手のいやなことを想像して行動すれば、良かれと思って行なわれる迷惑行為や友人とのすれ違いが減るのではないでしょうか。自分を基準にした「自分がされていやなことを、人にしてはいけない」ではなく、「その人がされていやなことを、その人にしてはいけない」を、新しいマナーとして取り入れていきたいと思っています。

されたくないことをする、勇気を持ちたい

 相手に寄り添う行動を選ぼうとすると、大きな壁が待ち構えています。それが、自分のうれしいと相手のうれしい、自分のいやなことと相手のいやなことが大きくずれている場合です。

 これは実際の私の例なのですが、情報はなるべくデジタルで取り扱い、共有すべき相手と共有できるようオンラインを保ちたいと思っています。写真をプリントすることはありませんし、ビデオをDVDにすることもありません。物理媒体にとらわれた瞬間から、情報は不自由になるからです。そんな考え方なので、写真をプリントして渡されたら「スキャンしないといけない、面倒くさいことしやがって」と感じます。イベントの動画をDVDで共有されたりした日には「取り込むの面倒くせえ」ってなってしまいます。

 しかし、紙を喜ぶ人がいます。物理媒体で「ここにある」と確認したい人もいます。そういう人に対しては、写真をプリントして渡しますし、ビデオはDVDにして届けます。この作業をするときに、ちくちくと心がいたむんです。プリントした写真はどこかになくしてしまうかもしれない、データならクラウドで管理して見たいときに見返せるのに。DVDだと自宅でしか再生できなくなるけど、動画データならスマートフォンで手軽に観られるのに。相手の好みに合わせて、自分の基準とは反対のことをしなければならない、そんなストレスがあります。

勇気を持つ(物理)

 このストレスに負けずに、相手に寄り添って行動するためには、自分がされたくないことをする勇気が必要なんだと思います。自分がされたらとってもいや、でもあの人はこういうやりかたが好き。理性的に行動を選択し、実行する勇気。自分を基準に「されたらいやなこと」を選択する人は、その勇気を持てていない人なのではないか、最近そんな風に考えています。

 どうでしょう。あなたは勇気、持っていますか?

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