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ただ、自分の内に眠る「野生性」を飼いならすことができているかが問題なのだ。

『その違和感の正体を、今ならはっきりと言語化できる。僕は人として誰かと友達になりたかったのであって、誰かの「ゲイの友達」になりたかったわけではないのだ。一部の女性が欲しがる、「ゲイの友達」とは一体何なのか。そして、なぜ彼女たちはゲイと友達になりたがるのか。そのヒントは、様々なメディアにおけるゲイ男性の描写にあるのではないかと思っている。~それでも、バラエティー番組やSNSで注目を集める実在のゲイ像は、オネエ言葉を話したりどこか中性的な魅力を持っていたりと、「性別や世間の常識を超越した存在」として出てくることが多い。それだけを見れば、ゲイは話し上手で、人生に達観しており、的確なアドバイスもくれて、場合によっては美容やファッションにも精通しているような、友達になるには最適な存在なのだと思い込む人が続出しても仕方ない。現にゲイの僕ですら、自分以外のゲイの人と出会うまで、ゲイは毒舌で話し上手な人が多いのだろうと思っていたくらいなのだから。当たり前だが、そんなことはない。異性愛者がそうであるように、ゲイにも口下手な人はたくさんいるし、美容にもファッションにも何の興味を示さない人だって山ほどいる。僕自身も話し好きではあるが、さほど親しくもない人と会話を続けられるほど器用ではないので、オネエ的話術を武器に活躍しているタレントやインフルエンサーの方々を見るたびに、すごいなぁと感嘆している。また、こうした実在するゲイの有名人だけでなく、過去の様々なエンターテイメント作品に登場してきた架空のゲイキャラクターと、そこで描かれる女性キャラクターとの関係性も、「ゲイ友達神話」を広める一因になったのではないだろうか。~こういった作品に出てくるゲイのキャラクターの多くは、女性の話に耳を傾け、女性の側に立ち、時に自分の幸せは後回しにするといった自己犠牲すらいとわない。悪く言えば、女性にとって都合のいい存在に見えるのだ。かつて、「友達になってください」とメッセージを送ってきた彼女が僕に対して求めていたものも、正に「何でも話せて、何でも聞いてくれる」という都合のいい関係性そのものだった。なぜゲイというだけで、女性のケア係にならなければいけないのか。ゲイだから友達になって欲しいと言われることも、ゲイとしての役割を期待されることも、それら全てに僕はウンザリしていた。女性とゲイ男性が仲良くなりやすいという傾向は、たしかにあるかもしれない。実際、僕の親友は大半が女性だ。しかし、彼女たちは決して僕がゲイだから仲良くなったわけではないし、ゲイとしての役割分担を任されることもない。僕は異性愛者の男性と何ら変わりのない、同じ人間なのだ。ただ一つ、僕が彼女たちを性的な目で見ることが決してないという点を除いては。ゲイと友達になりたいと考える女性が、もしメディアにおけるゲイ男性像に感化されていたのであれば、それは虚像に過ぎないのだと声を大にして言いたい。だが、相手から性的な目で見られないという安心感を彼女たちがそこに求めていたとしたら、話は大きく変わってくる。僕は30歳を過ぎてからTwitterでゲイであることを明かし、色々と呟くようになったのだが、ゲイは自分のことを性的な目で見ないから安心して話せるといった意見を女性から何度か受け取った。その意見を聞いて僕が感じたのは、性的な目で見られることに対する脅威に、男女で著しく差があるのではないかという発見だった。ゲイ男性の立場から言わせてもらうと、相手の女性が異性愛者だった場合、必ずしも僕を性的な目で見ない人間とは限らない。実際、異性愛者の女性から恋愛対象として見られ、不安を抱いたことはある。それでも僕は女性と知り合うとき、相手が自分を性的な目で見るかどうかで、安心できる・できないというジャッジを下したことがない。下さずに済んだのだ。なぜなら、僕の目にはそれが脅威として映らなかったから。また、女性同性愛者の友達からは、「女性が好きだと言うと、逆に男性から言い寄られる」という話を幾度となく聞いた。男性同性愛者には「ゲイと友達になりたがる女性」が近づいてくるのに対し、女性同性愛者には「レズビアンとセックスしたがる男性」が近づいてくるのだ。男女の異性愛者がそれぞれ同性愛者に何かを期待し、近づこうとする一例として、一見するとどちらも似た構図に見えるかもしれない。しかし、その発露の仕方や危険性は男性と女性で全く異なる。そう考えると、僕たち男性は一体どれだけ女性にとって脅威をもたらし得る存在なのかと、思いを巡らさずにはいられない。自分自身を性的な目で見ない男性をわざわざ探し出し、ありのままの姿をぶつけようとしてきたあの女性を、今の僕は嫌いだと言えないでいる。数多の映画で、ゲイが女性にとって都合のいいケア係として描かれてきたように、女性もまた男性に都合のいいケア係として扱われてきたのではないか。ゲイキャラクターの自己犠牲がまるで美徳かのように描かれているのも、母親というキャラクターに置き換えれば、何ら珍しくないありふれた物語としてそこら中に転がっている。「ゲイなんですね。友達になってください」と言ってきた彼女が、ゲイである僕に求めてきたものは、僕たち男性が女性に押し付けてきたものから逃げるために必要な何かだったのかもしれない。今、もしもまた同じメッセージを受け取ったら、僕は何と答えるだろうか。一つ言えるとしたら、誰かのケア係としてここに存在しているわけではないということ。僕も、そしてあなたも。』

相手を異性として捉える感情から発露される行動の結果が男性と女性では違うと言うが「相手の意に反する事はしない」という最低限のマナーさえ守れれば実はそれほど難しくはないのだ。ただ、自分の内に眠る「野生性」を飼いならすことができているかが問題なのだ。

女性が「ゲイの友達」をほしがる現象の裏にあるもの
「都合のいい存在」からの開放
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/76862

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