自由とは周りが全員敵になる危険も甘受しなければならない程覚悟がいるモノなのだ。

『一般にグローバル化とは、人やものの自由な移動、さらには「ボーダーレス」な世界の到来として語られる。しかし、そうした現象の裏側で同時進行しているのは、国家による国境監視の強化である。国境をフィルターにたとえれば、グローバル化は、一面において、フィルターを通過する人やものの大幅な増大を意味する。しかし、その反面、フィルターは、国家が通過させたくない人やものをふるいにかける。2001年9月11日の同時多発テロ事件以降、テロリストであると疑いがかかる個人を世界中で特に警戒するようになったのは周知のことである。一方、私が居住するニュージーランドでは、自然環境を保護するために、動植物などいわゆるバイオハザードの対象となるものが国内に入るのを厳しく制限している。そして、今回、フィルターにかけられているのは感染病ウイルスであり、それに感染している個人である。20世紀末以来論じられてきているグローバル化は、このように「二つの顔」を持つ。「表の顔」が人やものの自由な移動だとすれば、「裏の顔」は移動する人やものの国家による監視の強化である。そう考えれば、世界諸国が鎖国状態にあるのは、グローバル化の「裏の顔」が「表」になったことを意味する。~こうした事情が大きく変化を遂げたのは第一次世界大戦の時代だったことを、20世紀イギリスを代表する歴史家A・J・P・テイラーが『イギリス現代史 1914年−1945年』の開巻冒頭でこう書いている(英文原書より筆者が翻訳)。1914年8月まで、分別があり法を遵守する英国人であれば、郵便局や警察を除いて、国家の存在にほとんど気づくことなく人生を過ごすことができたであろう。どこでも好きなところで、好きなように生活することができたはずである。公式なナンバーや身分証明書も持たなかった。海外旅行したり海外移住したりするに際しても、パスポートも公式な許可書の類も必要なかった。携帯者の身分証明書であると同時に、国家による移動の管理手段でもあるパスポートは、およそ1世紀前に本格的に導入されたものなのである。国境が封鎖される数週間前まで、我々は国際的な移動の自由を享受してきたわけだが、そうした自由は、各人が帰属する国家によって発給されるパスポートによって我々の移動が管理される限りにおいて成立していた。つまり、国際的な移動の自由とは、国家による監視によって保証されるという逆説的な事態なのである。第一次世界大戦当時、パスポートの携帯が義務づけられるに際して、そうした移動の監視はあくまでも一時的な方策とされていたが、その後まもなく恒常化することとなった。今日では、パスポートという手段によって国家が移動を監視することの正当性を疑問視する人はほとんどいないであろう。このように近代パスポートの歴史を振り返ったとき明らかになるのは、人的移動の自由と国家による移動の監視とは切ってもきれない関係にあるということである。~そもそも、移動の自由における「自由」概念とは、17世紀イギリスの政治哲学者トマス・ホッブズのいう古典的な消極的自由である。つまり、物理的拘束が欠如している状態にすぎない。自由をこのような意味で理解する限り、何らかの強制力によって国境を越える移動が阻止されていない限り、たとえ監視下にあっても、移動の自由は存在するとみなされることとなろう。このように、現下のコロナウイルスをめぐる危機のひとつの核心とは、国家が人的移動を、前例のないほどの規模で制約していることである。それは国際的な移動だけでなく、国内移動についても同様である。だからこそ、ロックダウンの状態にある諸国の住民たちはほぼ例外なく、いわば自宅監禁のような状況にあるわけである。ここに明らかなのは、近代国家が、移動の自由を管理する正当な権限を独占するという特徴である。さらに、コロナ危機の結果、世界経済は危機に直面しているが、それは、いうまでもなく、経済活動が正常に運営されるためには人的移動の自由が不可欠の条件だからである。ただし、ここで注目すべきは、その自由がもっぱら国家によって与えられているということなのである。つい先頃まで、グローバル資本主義の時代の到来とともに、近代国民国家は歴史的役目を終え、「ボーダーレス」な時代がやってくると喧伝されてきたが、グローバルな感染病拡大という事態は、それが間違っていることを見事に実証した。グローバル企業も大資本家も、パンデミックの発生以来、鳴りを潜めてしまっている。ウイルス感染に対して対策を講じているのは、国家だけである。~こうした一連の事態は、近代国家こそが、この世における究極的権威であって、いかなる国際的な公的組織も、いかなるグローバルな巨大資本も、国家に比肩することはできないことを如実に示している。~悪魔の力に抗するために、ヨーロッパの絶対君主たちは、神的権威を自らが帯びていると主張した。なぜなら悪魔に打ち勝てるのは神以外ではないからである。こうしていわゆる王権神授説が唱えられ、王権は神に比肩する権威を主張するようになり、そのような権威を背景に、いわゆる魔女狩りが16世紀から17世紀にかけて猖獗を極めることとなった。魔女狩りと近代国家の権威増強のプロセスとは、表裏一体の関係にあったわけである。新型コロナウイルスは、2020年の「悪魔」である。この「悪魔」に取り憑かれた人々は、魔女のように火刑に処されることはなく、国家によって隔離されるにすぎないが、魔女狩りの時代と同様、ある社会では不幸にも差別の対象になっている。魔女狩りが近代国家の成長を助長したという歴史に照らしてみれば、ウイルスとの戦いが、近代国家をさらに強大化する可能性を示唆しているといえよう。当然、国家は、感染病へのより迅速な対応を追求するようになるだろう。迅速な対応は、経済活動の停滞期間を最小化するという意味でも、重要だからである。しかし、その一方で、感染病の蔓延を防止するということが人命の保全という至上課題である限り、国家は人的移動の制限を必要に応じて行う権限を強化することにもなろう。平時から、潜在的な感染ルートについてのデータを収集する必要にせまられることになり、それは監視国家への道を用意することにもなろう。すでにBluetoothを使った人の移動の監視は日本でも論じられているし、ドローンによる監視はヨーロッパ諸国ですでに始まっている。~我々のうち誰一人として、国家が我々の身元を保証してくれなければ、法的に一人の個人として認知されることはない。たとえ我々を命名するのが生物学的な意味における両親であっても、国家が管理する出生証明書や戸籍登録にその名前が記録されなければ、法的な意味で一人の個人ではありえない。その意味で、国家とは、我々すべてにとって「法的な生みの親」のような存在でもあるといえる。~ある個人のアイデンティティ、身元についての情報こそは、ありとあらゆる公共的な活動が信頼のおけるものとなるために必要不可欠な条件である。たとえば、個人の身元が不確かなままでは詐欺が日常的に横行し、ビジネスの円滑な運営を期待することはできない。国家は、個人のアイデンティティ情報を独占的に管理することで、公的な人間活動の基礎となる「信頼」を作り出す。国家がそのような「信頼」を生み出す権威を独占していればこそ、国家が究極の公的権威でありうるわけである。国家が人的移動を監視できるのも、パスポートや各種身元証明書のように個人の真正なアイデンティティを保証する権威を独占しているからである。~世界政府が最終的権威を主張するには、アイデンティティの管理を世界政府レベルで行うことが不可欠であるが、近代国家がその独占権を世界政府に明け渡すことを期待するのは非現実的である。どの国家も、自国民を「資源」として掌握し搾取することで生きているからである。世界政府への道のりは果てしなく遠いというべきであろう。むしろ、我々が目撃しているのは世界政府の出現とは正反対の現実である。パンデミックの脅威に直面して、近代国家は、存立の危機に陥るどころか、グローバル化の裏側で着実に強大化させてきた監視権力を剥き出しにしている。新型コロナウイルスは近代国家という巨大な怪物(リヴァイアサン)を再び覚醒させたのである。』

自由の意味が既に見せかけであり緩やかな監視社会では自ら由ではなく国家が認めた範囲内でのウロツキのみ許されていると誰もが認識しなくてはならなくなるだろう。本来、自ら由である自由とは周りが全員敵になる危険も甘受しなければならない程覚悟がいるモノなのだ。

コロナ危機で、国家の「権威と権力」はさらに強大化する
グローバル化の「裏の顔」があらわに
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/72141


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