ハラスメントをする加害者の心根には必ず「弱いモノいじめ」の根っこが深く根付いています。

『「きっと悪気があるわけじゃない」「自分が我慢すれば穏便に済む」今、ニュースで取り上げられている様々なハラスメントの問題も、最初はそんなふうに、「自覚のない加害者」と「人知れず耐え忍ぶ被害者」という縮図から始まっているのだと思うのです。そして、加害者に自覚がないからこそ、ハラスメントは必ずやエスカレートする。もしもあのまま彼女と関わり続けていたら、誤解が周囲に広まって、取り返しのつかない風評被害に遭っていたかもしれない。反論こそできなかったけれど、あのとき彼女と距離を置こうと決断できたことが、今の平穏な生活につながっているのだと安堵します。~こうした反論を聞くと、ハラスメントに対する「認知のずれ」を感じてやみません。そもそもハラスメントとは、「本人が意図する、しないにかかわらず、相手が不快に思い、相手が自身の尊厳を傷つけられたと感じるような発言・行動」を指します。「そんなつもりじゃなかった」では済まされないのです。~「自分たちの時代は平気だった」「今の若者は根性が足りない」なんて意見は通用しない。自分たちの時代では平気だったことを、今の若者がハラスメントと感じている。それが全て。もう時代は変わったのです。若者が関心を示すものも変わるし、何を苦痛と感じるかも変わる。そうした訴えを元に、自らの価値観も時代とともにアップデートしていかなければならないのです。~セクシャル・ハラスメントがセクハラと縮められたような略語は、新しい概念を社会に広く認知させることに役立つ反面、言葉ばかりが一人歩きして、認知のずれを引き起こします。社会の中で、いつのまにかハラスメントに対する意識のハードルが下がったことに伴って、犯罪とされるべき事案がハラスメントにすり替わって語られる場面が増えているように感じるのです。上司からの「殺すぞ」などの暴言によるパワハラも、悪質な客から土下座を強要されるようなカスハラも、場合によっては脅迫罪や強要罪に該当します。僕が女性から「抱かれたから本が出せたんでしょ」と言われたセクハラも、あわや侮辱罪として訴えなければいけないほどの大事になっていたかもしれない。メディアの報道によって、暴行までもが「ハラスメント」として印象付けられてしまっては、「暴力を振るってもハラスメントとして反省すればいい」という間違った意識を社会に植え付けかねません。そして、犯罪であれハラスメントであれ、他者の尊厳を損なう行いは許されないということを、誰もが忘れてはならないと思うのです。~社会が植えつけた「男性からの性被害に遭う可能性」に女性たちは無意識に縛られていて、「性被害は自業自得」という暴言が、あろうことか女性から女性に対しても向けられるほど。目を覚ましてください。「女性は男性からの性被害に遭う可能性がある」なんて、冷静に考えればとんでもない理不尽です。悪いのは、加害者。そして「女性が性被害に遭う可能性がある社会」そのものです。』

ハラスメントをする加害者の心根には必ず「弱いモノいじめ」の根っこが深く根付いています。性別や年齢、立場や社会的地位等のあらゆる「差」を見つけては自分が上だと勘違いしているモノが下だと思ったモノに害を加えるのです。これは資本主義という「持てるモノが持たざるモノから搾取する」構造をベースとした、多数決しか最終決定方法が見当たらない民主主義と言うなの多数派工作で成り立っている「今」の社会では無くすことは無理でしょう。「多様化」と言われて久しいですが社会としてアップデートするにはまだまだ時間がかかりそうです。

「抱かれたから本が出せたんでしょ?」僕が女性から受けたセクハラの話
なぜ被害者が責められるのか
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69422

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