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入るを量りて出ずるを制す

    子どものころ、500円を握りしめ、近くのデパートのおもちゃコーナーで150円の遊戯王のパックを買うことが何よりも嬉しかった楽しみだった。レアカードが当たれば大興奮、当たらなくたってパックを買うというその行為自体が私にとって何よりも「贅沢」だった。
 話を変えて小学生の頃、マラソン大会があった。その時期はマラソン練習で休み時間とかに校庭を1周する度にシールがもらえた。そのシールを集めることがとても楽しかった記憶がある。色んな種類のシールがあり、それをたくさん集めるのがとにかく楽しかった。多少の違いはあれ、似たような経験がある人は多いんじゃないだろうか。

 ところで、これらの遊戯王のパックやあのシールはいつから嬉しくなくなったんだろう。
 時を経た現在、昔より買えるようになったものが格段に増えた。様々なモノをより簡単に手に入れられるようになった。買えるモノの量の増加に反比例するように買い物に対する感情を喪失していっていると感じる。あの頃と同じ感情は二度と戻らないと思うとなんだか儚さを覚える。
 小さい頃はちょっとしたことにも大喜びできた。遊びに連れていってもらえればどこでも楽しくて、外で食べるご飯はなんでも美味しくて。成長した今の自分と比べてみると、「あれ?どっちの方が幸せなんだろう?」という気持ちになる。
 
 でも、この買い物に対する気持ちの高揚は今でも感じられるはずである。違うのは、それに必要な金額。150円のパックでは、100均のシールでは足りなくなってしまった。「幸せ」を得るにはお金がかかるのだ。
 そして所持する金額が増えれば増えるほど、幸せの値段も吊り上がってしまいそれは青天井だ。自分の資産に応じた幸せの値段があると、私は思う。

 昔と比べて今の若者はお金を使わない、と言われている。違う、使うだけのお金がないだけだ。あればその分使う。だって幸せを得たいのだから。
 だから、10万と言わず100万、1000万と給付してもらえないものだろうか。そんなことを考えながら、ベッドの上でAmazonを眺めている。

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