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『ちいさなおうち』のバージニア・リー・バートンを語ろう

このノートは、クラブハウスの【深堀り鑑賞会】用に作成したものを一部編集して公開しています。転載はご遠慮ください。引用はご一報ください。また、内容についてのご指摘等は、直接、ご連絡ください。

1.生い立ち


1909年、ボストン西部ニュートン・センターに生まれる。幼称ジニー(Jinnee)。母、Lena Dalkeithは英国出身の詩人でアーティスト。父、Alfred E Burtonは30歳年上。フランス旅行の際にLenaと出会う。先妻に死に別れ二人の息子を連れて1906年に結婚。1902年~1921年は、MITの学生問題担当学部長(Dean)を務める。Virginiaには姉(Christine)と弟(Alexander)

Virginiaが8歳の時に家族はサンディエゴに転居。そこでダンスとアートを習う。1925年に父母は離婚。(母リーナは、MITの元学生だった24歳年下のカール・チェリーと同棲するために夫と子供を捨てて去っていった)Virginiaは別の家に預けられ高校を卒業し、その後、サンフランシスコの美術学校の奨学金を獲得。バレエのレッスンを受けつつ絵の勉強をする。父はボストンに戻る。VirginiaはCalifornia School of Artsで奨学生となる。通学には長距離通勤列車、フェリーとケーブルカーを使用。

1928年にボストンに戻る。バレリーナを目指しニューヨークで舞台ダンサーとなっていた姉とダンスを学んでいたが、骨折した父の面倒を見ることとなり夢を断念。ボストントランススクリプト新聞社に勤務し新聞に人物のスケッチを描く。1930年にボストン美術館学校の土曜日講習(素描)に参加。美術を学んだ。そこで指導者であった彫刻家George Demetrios(古典的な彫刻を手掛けたとされる)と出会い翌年結婚する。ボストン西部郊外のリンカーンに1年ほど住まい長男を出産。そののち、Georgeが父から遺贈されたアトリエのあるフォリーコーブ(Folly Cove)に移る。その後、次男はボストンに近いグロットンで出産。

出版された処女作『いたずら機関車ちゅうちゅう』は1935年の作品(出版は1937年)。この前に出版をしなかった『Jonnifer Lint』は塵についての物語と。自信作ではあったが出版社は評価しなかった。しかし子供に語り聞かせると興味を示さなかった。子どもは極めて率直な批評家だと知り、それからは自分の子どもに何度も何度も語り聞かせながら、その反応を見て文と絵をブラッシュアップすることとなった。『いたずら機関車ちゅうちゅう』は長男アリスティデス(Aristides)、に語りながら作成された本であり、長男(Aris)に捧げられており、出版された年に次男マイケル(Michael)が生まれている。出版物としての二作目は『マイク・マリガンとスチーム・ショベル(1939)』は次男(Mike)に捧げられている。コールデコット賞を受賞した名作『ちいさいおうち(1942)』は第4作目で、夫(George Demetrios、家の中での呼称はDorgie)に捧げられている。

Virginiaの作品は、無生物(例えば、機関車、ケーブルカー、パワーシャベル、家)を擬人化して子供の興味をそそるファンタジーは大切にしながら、ストリーとしては技術進歩と社会の変容、科学史など事実を語るもの。(ノート筆者)

バートンの信念は、絵本というのは子供に恩着せがましく押し付けるものではなく、豊かな知識欲を十分満足させるべきものだということであった。これは絵本作家の使命なのであり、絵本に大事なのは、明確さ、しっかりとしたディーティル、そして絵の中には想像力とファンタジーが必要であり、文のほうには単純かつ重要な事柄がリズミカルに書かれていなければならないと考えていた。

息子が成長したあと、直接の読者を失ったバートンは絵本に対する情熱を失っていった。しかし、晩年の16年をかけて完成された『せいめいのれきし』(Life Story: The Story of Life on Our Early from Its Beginning Up to Now, 1962)は、古生代から始まって、マサチューセッツのバートンの家で終わる、地球の進化の歴史を描いた壮大な構想の絵本で、この本を子供の頃愛読したおかげで、科学の道を進んだという人も少なくはない。ちなみに、息子のAristidesは抽象芸術の彫刻家。Micaelはビジネスマン。

Burtonは絵本の政策においてデザイン、イラスト、書体、スペースまですべてをデザインしている。絵の前書きをしてからストリーを書きそれを書き直して積み上げていくスタイル。きわめて几帳面に詳細を描いている。

彼女が住んだFolly Coveで、近所の人たちの要望でデザイン教室を始めた。参加した主婦たちは、戦時下で物資の不足する家庭に、手作りの美しいものを、完成したデザインをリノリウム版に彫り、染料で染めてテーブルマットやカーテンを作成した。そこから「フォリーコーブ・デザイナーズ(Folly Cove Designers)」というグループを結成(1941)しビジネスを広げる。機械生産の道は選ばず手作りにこだわった。Virginia自身、34作品を作っている。『ロビンフッドの歌(Song of Robin Hood 1947)』は、このフォリーコーブ・デザインの集大成のような精細なイラストが刺繍のように施されている。

2.地図で追ってみると

(1) ボストン(Boston) サンディエゴ(San Diego) サンフランシスコ( San Francisco)ニューヨーク(New York)

図1米国全土

Virginiaは、ボストン近郊で生まれ育った。サンディエゴは西海岸南に位置する都市。母が健康上の理由でサンディエゴに移った(ヴァージニアが8歳くらいの頃とされるので1917年くらい)。そこで、姉クリスティン(Christine)とともに、芸術とダンスを学ぶ。しかし、その後、母は年下の男と駆け落ちをし、両親は離婚する(1925年)。

その後、カルフォルニア大学サンフランシスコ美術校で奨学生として芸術とダンスを学ぶことを続ける。ケーブルカーのメープルの話はそのころの体験に基づくものである。その後、ボストンに戻る(1928年)

図2 米国東海岸北部 ニューヨークとボストン

ニューヨークでダンスをしていたた姉がVirginiaを招いたが、骨折した父親の面倒を見るためにボストンにとどまった。その後、ボストン東北東60キロのFolly Coveに転居してから始めたFolly Cove Designersの仕事が着目を集め、ニューヨークでも展示会が行われた。

図3 ボストンとその近郊

Virginiaが生まれた町、ニュートン・センターはボストンの西側の郊外15キロほどのところに、Georgeと結婚後に暮らしたリンカーンは西北西30キロほどのところにある。

図4 ボストンとケンブリッジ(MIT、ハーバード大とボストン美術館)

ボストンは、古都であり、マサチューセッツ州の州都。チャールズ川を隔てた北側の都市ケンブリッジにハーバード大学と、父親が勤めていたMITがある。

Virginiaがボストンに戻ったとき、姉のChristineは、当時、ニューヨークでダンスの修行中であり、Virginiaにもくるように誘ったが、父が骨折したためボストンに留まることとなる。ボストンでは、Boston Evening Transcript紙の演劇部門の批評欄の挿絵を描いて生計を立てつつ、1930年秋からはBoston Museum Schoolにて学ぶ。翌1931年の春、そこで教えていたGeorge Demetriosと結婚する。 二人は、ボストン西北西30キロほどのリンカーン(Lincoln)にて暮らし、長男アリス(Aristides)が生まれる。

(2) ケープアン(Cape Ann) フォリーコーヴ(Folly Cove)ロックポート(Rockport)

図5 ボストンとグロスター、ロックポート
図6 グロスター、ロックポート界隈

1935年、二人は、Georgeが相続したアトリエのあるFolly Coveに引っ越す。Folly Coveはボストンの北東60キロほどのところ。Cape Ann岬の北部に位置する。Cape Annは当時は、人気のある避暑地であり、芸術家のコミュニティもあったという。南側10キロのところにグロスターの町があり、除雪車ケィティの舞台ともなっている。また、すぐ南東5キロのところに、港湾の町ロックポートがあり、鉄道のターミナル駅がある。ロックポート(岩の港)の名の由来は、かつて、この地で御影石が切りだされ、陸路、海路で運ばれていたためだろう。

図7 Virginiaと家族が暮らしたFolly Cove界隈

Folly Coveは、後のVirginaの創作の場となり、また、Folly Cove Designersの活動の地となる。1935年には、最初の出版作品『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』がでている。

図8 ロックポートの港とロックポート駅

Folly Coveから南東5キロのところにロックポートがあり、長男のArisはそのターミナル駅で汽車を観るのが好きだったという。当時、ロックポートからボストンに汽車が走っていたと思われ、ボストン北駅とその手前にある鉄道用の跳ね橋も、『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』の舞台となっている。

3. 所縁の土地の景色

(1) ボストン(Boston)

写真1 ボストンの街並み

ボストンは、1630年ころから、入植した清教徒が街づくりを始めた。街並みと建造物にはイギリス的な雰囲気が色濃く残る。写真1は、ボストンでもっとも高いジョンハンコックタワーの展望台から、東北方向の景色。チャールズ川のたもとに英国様式の建物が整然と並び、チャールズ川の対岸にケンブリッジ市の東端近くが見えている。

写真2 ボストンのパブリックガーデン

ボストン中心街には、ボストンコモン・パブリックガーデンがあり、市民の憩いの場となっている。

写真3 ボストン・コモンで見かけた灰色リス

緑が多いボストン・ケンブリッジでよくみられるリス。ボストン・コモン公園やハーバードのキャンパスに行けばほぼ確実に見ることができる。

写真4 プルーデンシャル界隈

ボストン中心のオフィス街であり、高級ショッピングモールともなっている地域。この写真の背中側後方には、Boston Symphony Orchestraのホールがあり、さらに、西の方にBoston Fine Art Museumがある。

写真5 ボストンの地下鉄のグリーンライン 市の中央街を出るとトラムとなる

ボストンの地下鉄の歴史も古い。1897年から98年にかけて、このグリーンラインの地下部分が開通した。Virginiaが生まれたのは1909年なので、馴染のあるものだっただろう。

写真6 チャールズ川東方の跳ね橋

ボストンとケンブリッジの市境となるチャールズ川の東端には、ボストン北駅に発着する列車が通過する跳ね橋(写真6の左側中央下の鉄橋)がある。これが、『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』でちゅうちゅうが跳び越える跳ね橋のモデルと考えられる。

図9 『CHOO CHOO』でChoo Chooが跳ね橋を跳び越えるシーン。
写真7 ボストン・クラムチャウダー

ボストン・クラムチャウダーは、ニューイングランドでは食事のスターターとして定番のもの。Virginiaも食べていたことだろう。イタリア人が多かったNew Yorkでは、トマト味のチャウダーがありマンハッタン・クラムチャウダーと呼ばれている。

(2) ボストン美術館(Boston Fine Art Museum)

ボストン・コモン公園から西南西に3キロのところにボストン美術館がある。Virginiaは、新聞社で挿絵の仕事をしながらここの美術学校で学び、そのクラスの教師であったGeorge Demetriosと結婚する。

写真8 ボストン美術館正面玄関(ハンチントン通り側)
写真9 ボストン美術館内
写真10 ボストン美術館日本文化展示部屋
写真11 ボストン美術館の天心園(岡倉天心にちなんだ日本庭園)

ボストン美術館は、日本文化に造詣の深いフェロノサが岡倉天心を呼び日本コレクションを充実させ、ここが、近代日本絵画のゆりかごともいえる役割を担った。

(3) ケンブリッジ(Cambridge)

ケンブリッジは、チャールズ川を隔てたボストンの北側に位置し、ハーバード大学、MIT、タフツ大学など大学の街ともなっている。ハーバード大の創設は1636年で、まだ、英国の植民地時代。コロニアル様式の建物が特徴となっている。

写真12 ハーバード大学の寄宿舎(ハウス)の一つ。
写真13 ハーバード大学のキャンパスは緑が多い。卒業式の準備が行われていた。

MITの創設は1865年。ヴァージニアの父が学生問題担当の学長をしていたのは1902-1921年である。

写真14 MITのメインビルディング
写真15 MITのメインビルディングのファサード

ケンブリッジで滞在したAirbnbのホストは、部屋をビクトリア調で美しく整えていた。このような部屋は、多くの米国人の憧れとなっている。Virginiaのの住まいがどういう風だったかはわからないが、整然としたアトリエは、モダンというよりはクラシカルな様相なので、ビクトリア調の雰囲気があったのかもしれない。

写真16 ビクトリア調の住居

(4) 初期の入植者(清教徒)たち


英国から迫害を逃れて、最初の清教徒たちが米国に渡ったのは1620年と言われる。メイフラワー号が付いたところは、ボストンの南方64キロの海岸にあるプリマス湾。明治村のようなプリマス・プランテーションがあり、当時の暮らしを再現して見せている。

写真17 メイフラワー号のレプリカ(プリマス・プランテーション)
写真18 プリマス・プランテーション

英国とは独立前に何度も戦いがあった。いざ、戦闘となれば即座にミニッツマンとよばれた民兵が駆け付けた。ボストンの西北西30キロに位置するコンコルドにはその像がある。コンコルドからボストンの方向である南東6キロのところに、VirginiaとGeorgeが結婚した当初住んでいたリンカーン(Lincorn)がある。緑の美しい郊外である。

写真19 コンコルドにあるミニッツマンの銅像


(5) グロスター(Gloucester)


Virginiaと夫Georgeがボストンから移り住んだFolly Coveがある町Gloucesterはボストンから東北東60キロのところにある。Cape Ann岬の突端Rockportの隣に位置する。南にはボストン湾に面する魚港が、北はIpswitch湾に面し、Folly Coveがある。

写真20 Gloucester市庁舎

Gloucester市のセンター街は、南の漁港にちかいメインストリートで、そのすぐ北側に瀟洒な市庁舎がある。市庁舎のすぐ東側に、ケープ・アン美術館がある。『マイク・マリガンとスチームショベル』の最後の場面で、市庁舎建設のために穴を掘り、出られなくなったが、市庁舎のスチームボイラーとして働くこととなっているが、そのイメージがここから来ているのかもしれない。

図10 『マイク・マリガンとスチームショベル』最後の頁
写真21 ケープ・アン美術館 (Cape Ann Museum)

ケープ・アン美術館は、この近傍の歴史やそこで活躍する作家の作品の展示などを行っている。二階には一室がFolly Cove Designersの常設展示がある。

写真22 メインストリートのレストラン(Passport)の光景

美術館の受付の担当者のおすすめで入ったレストラン。メインストリートに面した明るいお店。食事の終わったテーブルを丁寧に消毒している様は、料理だけでなく客にたいする真面目さが伝わるものだった。

写真23 ロブスターロールとコールスロー

ニューイングランドの定番メニューで、特にランチメニューとして人気のあるロブスターロールとコールスローの組み合わせ。隣接するRockportではロブスターの漁がおこなわれている。

(6) Folly CoveとHalibut Point国立公園


長男が生まれて間もなく、夫が相続したアトリエのあったFolly Coveに移り住み、ここで、その後の創作活動を続けている。また、長男がバイオリンを教わるお返しにデザインを教えることとなったが、それが、後のFolly Cove Designersにつながっている。

図11 "Big Machines: The Story of Virginia Lee Burtonから。Folly Coveの景色

Big Machines:The Story of Virginia Lee Burtonの中に、Folly Coveでは、彼女が皆にマジカルだと呼ばれていたとのページがある。この絵で描かれている入り江が下の写真。『ちいさいおうち』の家が左に描かれている。

写真24 Folly Coveの入り江
写真25 入り江のすぐ上に立つ家
写真26 入り江に面したレストラン(Lobster Pool)

この界隈は岩の地形で砂浜はない。青空に海の深い青色が美しいところ。

写真27 Folly Coveの家並み

海岸線からはすぐに小高い丘へと続く。Virginiaの家は、もともとは、この道路沿いにあったものを丘の上の方に移築したとのこと。このエピソードが『ちいさいおうち』につながっている。

写真28 Folly Coveに近いハリバット・ポイント(Hulibat Point)州立公園観光案内所の建物

Folly Coveのすぐ近くには、かつての石切り場であったところに湖がでて美しい風景となっているハリバット・ポイント州立公園がある。石は花崗岩であり、かつての火山活動でできた地層である。豊かな生態系と変化に富む地質が、『せいめいのれきし』につながる一つの背景なのかもしれない。

写真29 かつての花崗岩の石切り場跡の湖
写真30 湖対岸から観光案内所建物を見る
写真31 湖の外側は外海。花崗岩の海岸線


(7) ロックポート(Rockport)

写真32 ロックポートの街の図

Cape Ann岬の東の突端に位置するロックポート(岩の港)は、かつては、切りだされた石を陸路、海路で運ぶ拠点だったところ。Virginiaが居た頃は、まだ、そのころの賑わいが残っていたのかもしれないが、今は、静かな漁港となっている。

写真33 ロックポート港
写真34 ロックポート港 ヨットの係留場ともなっている
写真35 ここはロブスター捕獲用の漁具

この界隈から、メイン州に連なる海岸線はロブスターの漁場となっている。ロブスターは、このかご状の漁具をしかけて捕獲する。

写真36 ロックポートの街並み

港近くがメインストリートとなり、瀟洒な商店街が連なる。

写真37 ロックポート駅にある地図

港から少し上がったところに鉄道の駅がある。かつては、ボストンとの間を結ぶ主要な交通手段であり、切りだした石を陸路で運ぶ拠点でもあっただろう。Virginiaの子ども、Arisは機関車が大好きで、ここに来ると一日中過ごしたという。これが『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』(1935)の背景となる。

写真38 1938年ころのロックポート駅
写真39 現在のロックポート駅
写真40 ロックポート駅

ボストン方面と書かれているが、現在、直通の列車はなく、二回乗り換える必要がある。車なら1時間もかからないが、列車だと2~3時間かかる。


(8) 『ちいさいおうち』のモデル


『ちいさいおうち』(1942)は、Folly Coveで道路に面していた家を丘の上の方に移築したエピソードがもととなっている。なお、1967年の「ナショナル・オブザーバー」紙に、18世紀の農家がマンハッタンの14番通りの西側から71番通りの東側に家を移築された話が紹介されているが、その時に、『ちいさいおうち』の話が現実となったと報道されている。

このFolly Coveの家とそのたたずまい、四季の変化は、『せいめいのれきし』の第5幕のテーマとなっている。

写真41 Folly Coveで移設途中のBurtonの家
写真42 移転後の家(冬)
図12 『せいめいのれきし』の第5幕第3場
写真43 Virginiaらの家(春か夏?)
図13『せいめいのれきし』第5幕第2場
写真44 ヒツジにミルクを与えるVirginia

『せいめいのれきし』にでてくるヒツジは、実際に、Virginia家族が飼っていたヒツジがモデルとなっている。

写真45 Virginiaが晩年を過ごしたハッチ

Virginiaは晩年は海に近いハッチに暮らしていた。いまは取り壊されている。

写真46 『ちいさいおうち』のあと、ニューヨークで実際に行われた家の移築を紹介した記事。左下に『ちいさいおうち』の該当ページが紹介されている。

4.  Cape Ann美術館

グロスター市庁舎のすぐそばにCape Ann美術館がある。ここは、この界隈の芸術や文化を展示し、講演会や制作体験などができる施設となっている。この二階の一角には、Folly Cove Designersの部屋が常設されており、そこにはVirginiaの絵本も展示されている。

写真47 Cape Ann美術館の入り口


写真48 美術館の展示室の一つ 
写真49 美術館の階段のある吹き抜けに掲げられた彫刻

写真49の彫刻は、Walker Hancock(1901-1998)によっる作品。”Pensilvania Railroad War Memorial" Hancockは、Verginiaの夫George、Paul Manship(1885-1966)とともにFolly Coveにアトリエをもった彫刻家の一人であり、皆、1930年代の米国を代表する芸術家となっていた。

Folly Cove Designersの部屋

写真50 美術館2階の奥に常設されたFolly Cove Desingersの部屋
写真51 Folly Cove Designersの部屋で資料が置かれたテーブルにはVirginiaの作品が並んでいる。
写真52 美術館の1Fには制作体験ができる部屋がある
写真53 美術館の資料室も充実している


5.Folly Cove Designers


Folly Cove Designersは、1938年に、知人Aino ClarkeがVirginiaの長男にヴァイオリンを教える代わりにVirginiaにデザインを教えてほしいと頼んだことがきっかえとなっている。当時、1930年代の経済恐慌の中で人々の生活は厳しかった。そのような中で、美術の素養をもたない田舎の女性たちが、Virginiaの指導のもと、1941年にFolly Cove Designersというグループを発足させる。ほとんどは既婚女性でこの地で子供を育てていた。版画は家でできることから、家族の面倒を見ながらできる仕事であった。当時、クラフト・アートが再興していて、特に、ニューイングランドでは州政府の支援もあって強いムーブメントとなっていたという。

Folly Coveにはフィンランド人の子孫が多く居たという。フィンランド・デザインとFolly Cove Designの共通性は、ここにあるのかもしれない。

Virginiaは、身の回りにあるものを題材として選び、しっかりとしたスケッチをもとに模様を作成し、それをリノリウム板に彫りこみ、彩色し、生地にプリントした。女性たちは、リノリウム板に飛び乗って圧力をかけて染色していた。作品は、衣服、テーブルクロス、壁掛け、他多岐にわたる。Virginiaの夫、Georgeは、Folly Coveにおいても人気のある教師で、Virginiaが出材を教える中、Georgeは描画を教えていたという。二人は、グループのリーダーであり、その哲学と理論がこのグループを成功させたものされる。Virginiaは、デザインのコピーはぜったにさせず、自然の中から自分たちで考えて作ることを求めた。

Virginiaはデザインを6つの基本的なタイプに分けている。水平、垂直、一面に、サークル、徐々に変化、そして正三角形・四角形、円である。このカテゴリーの中で、皆は、自身で自然のモチーフを選び、2つのモチーフにし、さらに5つに展開するというようなやり方をしている。Virginiaは、Design and How!という本を書こうとしていたが未完に終わっている。

1940年に、Folly Coveのスタジオで最初の展示会を行っている。1941年にFolly Cove Designersとしてプロフェッショナルな組織づくりを行った。

ある雑誌において、Virginiaは以下のように述べている。

「機械の時代(Machine Age)となって、デザイナーとクラフト職人は分かれてしまった。デザイナーはホワイトカラーとなり、クラフト職人は機械の優れたものというようなかんじになってしまった。だから、産業的な仕事だと、みんな版を押したようなおなじものになってします。だから、個性というものがなくなってしまう。・・・われわれは、単に描くことを習ったのではなく、それをリノリウム版に彫りこみ、それから先も自分たちでやった。だれも、手足にインクが付くかもしれないなどとは恐れなかった。だれも、クラフト職人であって同時にデザイナーとなることを恐れはしなかった。」

彼女たちの作品は、ニューヨークでも展示される機会を得て、それを契機に、大手デパートの一つ、Lord and Taylorsが部分版権を得て商業化された。その仕事ぶりは、『ライフ(”Life”)』に「ヤンキーのプリント、全国的評価を得る」との見出しで取り上げられ、米国で一躍有名となった。

大手デパートのMacy’sからは、商業的に生産を行えば大きな利益がきたいでき、今乗っているフォードではなくロールスロイスに乗れるようになるともいわれたが、Virginiaは自分はフォードが好きだと答えたという。

Virginiaは、Presidentと呼ばれることは嫌がったが、事実上の代表だった。彼女が1968年に死んだ後1969年にグループは解散したが、それまでに、総勢43名のデザイナーが活躍した。

写真54 Folly Cove Designersの作業場

写真54は、Folly Cove Designersの作業場として使われた家だが、何かに似ていないだろうか?そう、『ちいさいおうち』の家にそっくりなのである。Filly Cove Designersが活動を始めたのは1941年だが、デザイン教室は、1938年以降にはここで行われていたのかもしれない。ちなみに、『ちいさいおうち』の出版は1942年である。

画像14 バートンのスケッチブックに最初に書かれた 『ちいさいおうち』
画像14 ”The Little House"表紙 家の姿がFolly Cove DesignersのStudioとよく似ている


写真55 Cape Ann美術館が出しているFolly Cove Designersの紹介本。

Cape Ann美術館が”The Folly Cove Designers”という本を出している。表紙に使われている絵は『うわさ話(Gossips)』である。

写真56 Cape Ann美術館の中の展示品
写真57 Cape Ann美術館内の展示品2
写真58 写真59の展示品スカートの裾の部分
写真59 デザイナーたちの制作過程を模様にした作品
写真60 木板の上に版画用のリノリウム板がついている
写真61 プリント用の工具
写真62 自らの作品を着ているデザイナーたち。
写真63 制作中の様子1
写真64 制作中の様子2


写真63-64は、制作中の様子である。描いた絵をリノリウムの板に掘り、その裏に木板をプレス機で貼り付け、リノリウム版に染料を塗った後、生地に転写するために板の上で跳びはねて生地にプレスし、転写後に板を外している。作業をしているのは、Virginiaの息子Arisにヴァイオリンを教えたAino Clarke。ヴァイオリンを教える代わりに頼んだのがDesignを教わることだった。

ちなみに、Aino(1914-1995)は、フィンランド系の血筋。グロスターの高校を出ている。Cape Ann交響楽団でヴァイオリンを弾き、ボストン美術館の売店で仕事をしていた。

版画作品は、通常は、プレス機で紙に転写する。Folly Cove Designersの作品は、衣服を型染めするようなものがあったため、プレス機でなく、板を生地に乗せて、それを踏んで押さえて転写する方法をとったのかもしれない。

写真65 新聞記事 身の回りにあるのものをデザインに使ったことが見出しとなっている。
写真66 大手デパートLord and Taylorsの広告記事に乗った作品

6.Folly Cove DesignとVirginiaの作品


Folly Cove Designは、Virginiaの作品の多くに表れているが、それが、もっとも完成された形となっているのが『ロビンフッドの歌(Song of Robin Hood)』である。表紙から裏表紙に至るすべてのページに精緻なデザインが施されている。この絵本は、コールデコット名誉賞(1948)を受賞している。 

写真67 『ロビンフッドの歌』の表紙

s

写真68 『ロビンフッドの歌』の表紙の裏
写真69 内表紙の二枚目には、絵が版画でつくられていることを示す絵が描かれている。
写真70 写真79の部分の拡大。
写真71 35ページの絵 水に映る絵がさざ波で揺れている様も詳細に描いている


最初の曲



写真72 楽譜と絵、詩が書かれている。リズミカルに韻を踏んでいる。




図14 『せいめいのれきし』にもFolly Cove Designが使われている。

7.Virginiaと家族


Virginiaの夫Georgeは彫刻家。長男Aristides(Aris)と次男Michael(Mike)がいる。Virginiaは、皆からはJinneeと呼ばれていた。Virginiaは、骨折した父の面倒を見るようになって、舞台でダンスをする夢はあきらめたが、皆の前で踊って見せおり、その姿は飛んでいるようだったという。ダンスの素養が、人や動物の動きを絵としてあらわすときに生きたのだろうと言われる。Virginiaは、絵本やFolly Cove Designersとして制作した作品だけでなく、レリーフ(彫刻)も作成している。これらの製作には、夫Georgeが助言や指導をしていた。

Arisは、抽象芸術の彫刻家で、都市のモニュメントの制作や、都市環境設計などに携わった。ハーバード大学を卒業している。Mikeは、実業家となり海外のテーマパークなどにかかわった。

写真73 Virginiaと夫のGeorge、息子たちのArisとMike,そして、甥のコスタ・マルコス
写真74 壁に描いた絵を子どもたちに見せて語るVirginia
写真75 アトリエで制作中のVirginia
写真76 Virginiaが制作したレリーフ


図15  "Big Machines: The Story of Virginia Lee Burton"の中の1ページ

図15の見開きページには、「Virginiaを知っているものは皆、Virginiaが飛べることを知っていた」と書かれている。

写真77:ダンスをするVirginia
写真78 Virginiaの夫Georgeが制作した”ジニー天国へ行く”

1969年ころの作品とされる。多才ではあったが、バレーダンサーとして舞台に立つ夢はかなわなかったVirginiaを、夫Georgeが、ダンサーとして天国に送り出した作品であろう。

(以上)

8. 主要参考文献

① 『ヴァージニア・リー・バートン(『ちいさいおうち』の作者の素顔)』、バーバラ・エルマン作、宮城正枝訳、岩波書店(2004)

② 『ヴァージニア・リー・バートンのちいさいおうちー時代を超えて生き続けるメッセージ』公益財団法人ギャラリーエークワッド 2018)

③ Cape Ann Museum、2020・2021 News and Report

④ ”The Folly Cove Designers 1941-1969", Cape Ann Museum (1996)

⑤ ”Song of Robin Hood", Selected and Edited by Anne Malcolmson, Music Arranged by Grace Castagnetta, Designed and Illustrated by Virginia Lee Burton, Published by Houghton Mifflin Co. (1947) Copyright renewed 1975

⑥ "Virginia Lee Burton" Wikipedia 

⑦『はじめて学ぶ英米絵本史』、桂宥子(2011)ミネルヴァ書房
⑧ "Choo Choo" The Story of a Little Engine Who Ran Away by Virginia Lee Burton, Sandpiper Houghton Mifflin Books 裏表紙から
⑨ 「ヴァージニア・リー・バートン『ちいさいおうち』の作者の素顔」美谷島いく子、『幼児の教育』巻105(8)、16-19, 2006-08
⑩ ”Life Story”、Virginia Lee Burton, (1862)
⑪ "Big Machines: The Story of Virginia Lee Burton", wrote by Sherri Duskey Rinker, illustrated by John Rocco, HOUGHTON MIFFLIN (2017)


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