自由について考えて今日も縛られて生きて行く

 うちには7歳くらいの猫がいる、血統書何て言う物ご立派な物はないし何なら姉が拾ってきた野良猫だ。目が見えない頃に親の反対を押し切り大喧嘩を繰り広げ「私が育てる」と言い放ち1週間くらいで見捨てた姉の猫が元気に今日も家の中をのそのそと歩いている。餌が欲しい時は鳴き、寂しい時に鳴き、弄って鬱陶しいと感じられた時に鳴き、のほほんと育てて6~7歳で何と大台の10kgを超え持ち上げるのもかなりしんどいデブ猫になっている。そんな彼は自由に生きている、日中は寝て過ごしお腹がすけばご飯を食べてまた眠る。社畜なら憧れてしまいそうな気ままな生活だけど彼もまた自由とは遠い生活なんだと最近思ってきた。

飼い主に縛られる

 先ほど言った通り自由ではない、私達家族が彼を縛っているのだ。元々野良猫だから外で生活するのが当たり前だったのを無理やり家の中という檻に入れ育てているのと変わりない。でも愛情が無いわけじゃない、可愛いと思うし餌も水もしっかり与えてトレイの掃除も欠かさない。でもその愛情が素直に彼に伝わっているかと聞かれれば答えられないだろう。なんせ人間の言葉を話さないから、意思疎通が出来ない故に彼らが何と言っているのか分からない。もしかしたら外に出たいと言っているかもしれない、この狭い檻の中から出してくれと言っているのかもしれない。一方的な愛情の矢印を彼を縛り付けているのかもしれないと考えてしまう、これも実際ただの妄想や創造の一片に過ぎないのは自分が一番わかっているが脳裏に偶に過り記憶の隙間に隠れている。

 だが、もう彼を外に出すことは出来ないのだ。7年間も檻の中で雨風にさらされずに過ごしてしまった彼は自然を忘れているだろう。ふかふかのベットは無い、温かい毛布も無い、餌も鳴いても出てこない。それを理解する前に死んでしまいそうで縛り付けて置く他ないのだ。残酷だけど、見殺しは出来ない。

時間という束縛

 人間も常に縛られている物がある、時計の針は止まってはくれない、落ちる砂は上には上がってはくれない、指定された時間通りにベルはなる。時に永遠に縛られている、死ぬまでそれは続くだろう。刻まれていく1秒1分1時間は決して戻ってこないからそれを無駄にしない為、生きている。馬鹿みたいに思うが1日を24時間にするという決まりを設けてしまった瞬間から縛られている気がしてならない。仕事の時間、遊ぶ時間、寝る時間、趣味の時間、家族との時間、様々あり何処にどれだけ時間を割くのかそれも人それぞれだが24時間という数字は変らずそのままであり人生の縛りのように存在し続けているようだ。

 でも時間は大切な物でもある、「これ~~時までにやっておいて」や「ごめん!~時から予定入っちゃって」と表現する際に使える。もし時間が存在しなければ「これすぐにやっておいて」とか「ごめん!この後に予定入っちゃった」と明確に伝えられないし曖昧な指定で良く分からない。結局縛りは縛りだが有効的に使える物なのだ。

自由とは

 猫もしかり人間もしかり時間は無限じゃない、若くて体が頭で考えた通りに動くのも時間が経てば衰え頭で考えてから動かすのに時間がかかる。歳を取ってからでも有意義に時間を使える人もいれば寝たきりになり動きたくても動けない人もいる、そんな数多の人の人生の時計は年月を経て形も見た目も変わってくるものだと思う。自由に動ける今を大事に縛られ続ける明日を見据えて今日も自分は文字を打ち込んでいく、ぶっちゃけ結論を言えば楽しければ時間の縛りは関係ないのかもしれないよね。

きっとそんなもんだろう、人生って。

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