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シギョマツトーク_1 トークイベント 菅亮平×李豪哲「空間と時間の表層」を聞いて

2月3日20時開催のオンラインで行われたトークイベント、【トークイベント 菅亮平×李豪哲「空間と時間の表層」】を聞いて、シギョとマツヤが話した内容をざっくばらんに記していこうと思います。


メモ 1

Void 
「In the walls」何もない空っぽの展示室
いろんなところにある展示室の壁の写真を撮って、それを立体情報として読み込ませたものを壁に投影?している
ボルヘス「帝国の地図」
壁を大地に見立てる 1分の1の地図というテーゼ
座標 どこにあなたがいるか、どこに私がいるか
ルイスキャロル

メモ 2

似たものを並べて、身体性をもつ行為の寓意性によって生み出されたものについて考えている
個別性、固有性を排してわかりやすくしている
差別、ナショナリズム
個別具体性を忘れているということを思い出し続けなければならない
座標 空間的、時間的規定
外から自分を規定する、ということ

メモ 3

一回性 パフォーマンスにすることの意義
立ち会ったという事実そのもの
日付を刻印すること 作品と作者の結びつき デートペインティング--カーラ
ドメスティックなんだけどアートとしての実感がある
強い物質性 工芸性
地図がある種の複製性を持っている

メモ 4

「座標」「身体性」
印刷の技術
瞬間的に、李さんの寓意性を排したい
ハンマーという素材が好き
存在論的なテーゼ
1mの違いなんて気づかないから適当にしてもいい
→そんなのは分からないやつの考えだ
「割る」という瞬間的行為が付与されたときに、その作品は完成している
「記号」「瞬間性」

メモ 5

抽象化のプロセスが大事
何を残して何を削るか
正しい抽象化の仕方はない
気をつければいけないこと、作法など
いっぱいあるのが大事
一定数量があることが大事
「現実と表象」
「行為と対象」

記号が持っている暴力性
全く違ったものを全く違うものに置き換えるということには暴力性が伴う
アートは虚構性を含んで物語を作っていくもの


感想 1

シギョ
李さんが陶芸を主題にした作品を作っていたのはなんとなくわかるけど、菅先生がペインティングから現代美術に進んだ過程がちょっと分からんかった。
良い作品ってなんだろう。
菅先生は、何かこういうものをした、実験したという形だったけど…
李さんは、そういう作品作りを通して、「自身をより追求」するためにやっているのではないかという気がした。
ボールを投げているとして、どこに投げているんだろうという気持ちになったし、両方ともどの方向に投げているのかなって感じた。

マツヤ
アート作品に限らず、今のボールの例えで言えば、どこが出発点で、それがどの方向に向かって進んでいくかというのは想像することができるとおもう。けど、それがどの地点に落下するかということや、誰に何秒くらいそのボールが飛んでいるという事象を観測されているのかということを、リアルタイムで把握することはできないんじゃないかと思う。
やっていく中で見つけていくものだから、さっきのトークイベントを通して全てを把握しようというのが少しい難しいっていうのはそうだね。
確実的な部分(自分がボールを投げたという事実と、どこに向かって投げたかというその方向の最初の部分)と不確実な部分(どこに落ちるかと、誰に観測されるか、他にどんな影響を受けるか)という二つの事象を間歇的に繰り返すのがアートワークだと思ってて、ここでの確実的な部分っていうのは自分が他者と話したり、ポートフォリオを作っていたり、夜寝る前に自分の作品について考えることで、なんとなくだけど執着地点を絞っていくんじゃないかなって思った。

シギョ
アートというものが格式高いような気がするし、なんだか独りよがりなような気がする。

マツヤ
確かに、言ってることはわかる。二人の作品はテキストや、こういうトークイベントみたいな作品の補完行為ありきのような気はするね。

シギョ
見て、すぐ大体言いたいことがわかる作品の方がいいんじゃないかなって気がする。

マツヤ
浅く広く、狭く深く、みたいな?

シギョ
そうかも。
菅先生の作品は軽く見えるけど、深めの”色”が大体を覆っているような気がする。

マツヤ
最後の方で記号の暴力性という言葉で、李さんの問題意識を喋っていたけど、ここは自分もなんとなくわかる。
マツヤとシギョは好みがだいぶ違うような気がするね。

シギョ
自然な喜び、ざらざら感が出たから嬉しい、みたいな
二人の作品についてだけど、見る分には楽しいんだけど、自分で作るならちょっと難しそうだなって感じたし、ちょっと楽しさが分からないかも。

マツヤ
個人的に、二人のアートワークをゲームに例えるなら、ロジックを組み立てるパズルゲームに近い気がする。テトリスとか。俺もこれに近いかも

シギョ
自分はそれで言った音ゲーかな。リアルタイムでノーツを消している、その場の感覚や瞬間的なエクスタシーを感じる感じかな

マツヤ
やってる時が楽しいの?それともフルコンボだドンになったら楽しいの?

シギョ
いや、やってる時かな。情熱的な印象派だと思う。
スーラみたいな点描が法とかはマツヤとか二人に近いけど、そうとは違う感じで、より感覚的なのかな。そんな気がする。


感想 2

シギョ
いつもの会話でもそうだけど、「理解したい」で話すことはないし、どっちかというと「感じたい」からで話している気がする。
ちゃんと理解したいと思って描くなら自分のやつみたいに中途半端な感じには書かないような気がする。
俺も理解するということはわかるけど、楽しいとは思わないかな。

マツヤ
個人的にはその作品ないし、会話から、その人の真意や意図を汲み取っていく、その過程自体を楽しんでいる節はあるし、往々にしてそういう行為にはいろんな手続きを踏まなきゃいけないような気がするから、ある意味で冗長な感じがするのはわかるんだけど、無為にしてるわけじゃないと思うんだよなぁ。

マツヤ
もし無作為に日本中から人を一つの部屋に集めた時、何対何の割合でマツヤに似た人とシギョに似た人が集まると思う?

シギョ
そりゃあ、俺に似た人の方が多いんじゃないかな


感想 3

シギョ
李さんのしてるパフォーマンスはなんか良い気がしたな。
コンセプトを意識してやってるところ、俳優として成り切ってるところとか、自分でルールを縛ってそれに従っているところとか。

マツヤ
「オブジェクトに対する身体的行為の介入」って言葉で表せれる気がする。
パフォーマンスもそうだけど、どの表現形態を選択するかということで、表したい意味や意図が通じやすいことや通じにくいことなど、いろんなことが考えられる気がするよね。

シギョ
作品作るのって難しいな

マツヤ
確かに、むずいな


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