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月への同行者

午後3時、彼はなにかの儀式のようにまた募金だけして帰っていった。コンビニで働き始めて約半年、もうこの光景を何十回見ただろう。自動ドアが開くや否や、まっすぐレジに向かい、1000円札を募金箱に入れ、何も買わないまま外に出る。「いらっしゃいませ」と言い終わる頃には、もう店内からいなくなっているのだ。ただ、他の客が、列をつくってレジの順番を待っている時は、律義にも彼はその列に並び、自分の番になるまでは募金をしない。その妙な誠実さはどこからくるものなのかと、気がつけば私は彼の生い立ちを考えることが多くなっていた。

午後3時、彼はいつものようにやってきた。しかし今日はこれまでとは違い、商品をレジに持ってきたのだ。カウンターにコトンと置いたのは2本のレッドブル。私は内心驚いたが、そのことに気づかれないように淡々とバーコードを読み取った。それから会計が終わると彼はお釣りとレシートを受け取るなりレッドブルを持ち素早く店を出た。突然のことに戸惑いながらも不思議な緊張感から解放され、私はフッとため息をつく。その時ふいに、もう1本のレッドブルが置き忘れたままであることに気づいた。私は慌ててそれを手に取り、コンビニの外へ飛び出した。彼は軽トラに乗り込んでドアを閉めようとしているところだった。急いで車に走り寄り、窓をレッドブルでコンコンと叩く。すると彼は窓を開いて、友達に話しかけるようにこう言った。「遠くまで行かない?」


私は今、彼の軽トラに乗っている。「これからどこに行くの?」。彼は答えない。ただ海沿いの道を走り続ける。「ねえ、今楽しい?」。やはり彼は答えない。

夜になり、私たちは知らない町の港にやってきた。2台の車がギリギリ通れる一本道が海に突き出ていて、両サイドにはいくつか船が並んでいる。道の奥には三日月が見え、まるで異世界の入り口のように空に張り付いて輝いている。

「もっと近くで見たいと思わない?」

「え?」

「月に近づくんだ」

「……あ、やっと喋ってくれたね」

「俺、夜になると喋れるんだ」

「なにそれ、おかしいね」

「さあ、月に向かって走るよ」

ブォーーーン

「……ちょっと速くない?」

「そうだろうね、アクセル全開だし」

「でも、この先行き止まりだよ。スピード出し過ぎじゃない?」

「自分の臆病さに向き合うことでたどり着く場所って、どこだか知ってる?」

「え?」

「月だよ、月にたどり着くんだ」

「……よくわからないけど、止まらないと海に落ちるよ」

「ドリームワークスの映画って、三日月に座って釣りをする子どもの映像から始まるよね?もしあの子が俺たちを釣ってくれたら、月までスーって行けると思わない?」

「私の話聞いてる?このままじゃ本当に落ちるよ」

「E.T.の、あの有名なシーン知ってるよね?少年が自転車を漕いで月を横切るシーン」

「カゴに乗せたE.T.の力で空を飛ぶんでしょ?」

「今夜はね、俺が君のE.T.なんだよ。俺の力で君は飛ぶんだ

「何を言ってるの?ほらもうスピード緩めないと危ないよ!」

「空の記憶って見たことある?空にも記憶があってさ、空にいるときだけ見せてくれるんだよ」

「アクセルから足離して!ホントに落ちるよ!」

「かぐや姫って本当にいたんだよ。俺、空に昔の記憶を見せてもらったんだよ」

「ねぇ止めて!お願い!早くブレーキかけて!!」

月の使者が、かぐや姫を連れてゆっくり夜空を登っていくんだ。そして、かぐや姫たちの姿が月に重なると、彼女らは光の中にすうっと消えていったんだ」

「ああああ!!もう落ちちゃう!!」

「……俺が月の使者で、君はかぐや姫、だったらこのあとどうなると思う?」

「え……?」

月に向かって走り出した軽トラ。ついに道の先端までやってきた。時速120km。もう誰にも止めることはできない。まず地面から前輪が離れ、それに続いて後輪も離れる。車体は月に向かって緩やかな弧を描くように進んでいった。


そう、水面に映る三日月の方へ流れるように落ちていったのだ。


私たちは消えていった、ゆらゆら揺れる光の中へ。


小さい頃からお金をもらうことが好きでした