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「なんでミスをしたのか」から得られる学びの副作用

メンバーのミスや失敗が起こったとき、自分はそのミスや失敗に対して腹を立てない代わりに「なんでそのミスをしたのか」と質問する人は多いのではないだろうか。

気持ちはよくわかる。厳密には「過去のある時点において、どうしていたら失敗しえなかったのか」をシミュレーションすることで学ぶことが失敗を繰り返さない唯一の方法だと信じているのだと思う。

この考え方は近代科学思想によるものだと思う。近代科学思想は、結果から原因を探して、より良い結果を求める意味ではとても良いアプローチだと広く知られている。

事実、私は会社でよくミスをしたときに、同じような質問を徹底的にされてきた。その質問は合理的であり、質問に対して抵抗する言葉をもっていなかった。

しかし、だ。

本当に、必ずしもすべての結果に対して原因があるのだろうか?

たとえば、複合要因のような、原因が複数形で結果を生むものは、それぞれの影響の割合を頑張って計算すれば頑張れば解き明かせかもしれない。

過去のある時点に戻って、失敗から学ぶことが次の現実に役立ち、未来のある時点での成功を約束する。そしてそれこそが「学び」なのだと私は信じ続けていた。自分の失敗のパターンを知って対策し続けることで、ミスを減らす。

でも、ミスを避けよう避けようと生き続けてきて、もしも原因のない結果にぶち当たってしまったら、その人はその結果をどう受け止めるのだろうか?
それでもなお、原因を自分の過去のある時点から探してしまうのではないか。

学びそのものは否定したいわけではないし、学べることもたくさんある。
だけど、学びを強要する時代じゃないと思う。
失敗を繰り返すのは、人間として自然なこと。そんなことよりも思いもしない結果を追い求めて歩くことも試していきたい。

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