自分史的なクリッピング史料

土曜日には日経、朝日共に書評記事が並び読書にまつわる記事が多い。最近クリッピングしたシリーズの一つに " 言葉のちから ” by 若松英輔がある。多分昨年の春ごろからストックし始めているので、その量は多くはないけど、若松さんの著書も結構読んでいたりする。でも本とは違ってこうした制限範囲内での論考を読めるのも新聞掲載ならではと思いつつ、いつも楽しみにしている。

2024年2月24日 言葉のちから
若松英輔 読むことの深み~ドストエフスキー

冒頭で講演などの質問に対して、何を読むかよりも「読む」とは何かを考え「読む」という行為に対する態度を(自ら)問うこととおっしゃっている。

「読む」を「聞く」に置き換えるとその意味は鮮明となり、どう「聞く」のかという態度を定めることの方が重要であると。相手に真摯に問いに向き合っているということが伝われば応える人も同質の態度になるからと。

「読書」とは真剣に向き合えば著者との無言の対話になることが分かる筈だと次段では説いていて、確かに手に入れるだけで読めるとは限らないとも。自分は積読本が多く、本ややアマゾンでついついこの本を読んでみたいと瞬間思ってしまい瞬殺で購入してしまう。いざ読み始めるとちょっと違和感もあったりして積読本に舞い戻るものも多い。雰囲気というか気分というか、その時の興味・関心・気分によってもその勢いは違い、自ずとブレーキがかかったりする時もしばしばだ。

若松さんがドストエフスキーの作品を手にしたのは17才の頃、アメリカにわたって少々ホームシックになった時に岩波文庫の「罪と罰」上巻を半分ほど読んだとある。その時に相当なショックを受けた。それは恐怖ではなく畏怖であったと記されていて、行き場のない感情に翻弄されているだけだったとも書くくらいだから、若き少年には重すぎたのだろうか。

ここで文庫の巻頭にある訳者の「解題」に記された文字に目を向け、ドストエフスキー伝の作者ストラーホフの「罪と罰」をめぐることばの中に、「大抵の人は健全ではいられないかもしれない、そして読書を中止するかもしれない」(的な)コメントが記されてあったと。

若松さんは、読書には「知識」の準備ではなく、「態度」の準備が必要だということに気づいたと記しておられ、「カラマーゾフの兄弟」のグリゴーリイという登場人物が何かに突き動かされるように神の研究を始めたことを参照して、「そこに書いてあることはほとんどわからなかったが、それだからこそこの本を大切にし愛読した」的なセリフに、物事の正確な意味理解よりも、ほとばしる何かを全身で感じ取っているところに大きな意味があると書かれている。そういった感じは自分ではどうだろうか? 近いと思われるのは遠藤周作の著書だろうか。

若松さんは締めの段落で改めて、読書に必要なのは効率よい「方法」ではなく、真摯な「態度」であると述べられている。「態度」を極める、深めることによって自ずと最適な方法も見出すことができるとも。この逆、即ちどんんなに方法を駆使しても一向に態度は定まらないと。

一冊の本と深く出会う者は、数百冊を読破しても得られないものをそこに見出すと書かれているので、少々耳が痛い点の指摘でもある。確かに頭の記憶に残る読書というのは意外と少ないことには前々から薄々と気づいていて、色んな教訓めいたことを色々な方々がその著書でアドバイスされていたりする。どれもほうほうと聞いて(読んで)みたりする自分は一向に態度が決まってないのかも知れないと自省しつつ・・・。浮気性なんだろうか。ドストエフスキーはその(難読という)評判から未だ読んでいない。読める自信がない、今のところ。そう気分と記したけど、現在「農家はもっと減っていい」という新書(もちろんそれ以外にも乱読)を(昨年に発売後直ちに購入したにも拘わらず)ようやく読み始めた。今読んでみてもその後の顕在化した事実や風潮・空気なんかと比べてみると面白いんだよなぁ。でも古典はもっともっと昔に発刊されているのだろうから、その間の流れは追いつけないけど、きっと流れ的なものを感じることができるはずだと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?