見出し画像

クラシック音楽(6) フランツ・リスト (1811-1886)

“クラシック音楽”を少しずつ知るマガジン


フランツ・リスト (1811-1886)

フランツ・リスト

フランツ・リスト(ドイツ語: Franz Liszt)(1811年10月22日 - 1886年7月31日)は、ハンガリー王国出身で、現在のドイツやオーストリアなどヨーロッパ各地で活動したピアニスト、作曲家。自身の生誕地であるハンガリー王国(当時はオーストリア帝国支配下)を祖国と呼び、ハンガリー人としてのアイデンティティを抱いていたことから、「ハンガリー」の音楽家として認識されています。その一方で生涯ハンガリー語を習得することはなく、両親の血統、母語、音楽家としての活動名義(フランツ・リスト)、最も長い活動地のいずれも「ドイツ」に属し、当時の中東欧に多数存在したドイツ植民の系統でもあります。このような複雑な出自や、ハンガリー音楽を正確に把握していたとは言い難い作品歴から、非音楽大国系の民族運動としての国民楽派に含めることは殆どなく、多くはドイツロマン派の中に位置づけています。ピアニストとしては演奏活動のみならず、教育活動においてもピアニズムの発展に貢献をしました。また、作曲家としては新ドイツ楽派の旗手、および交響詩の創始者として知られます。ハンス・フォン・ビューローをはじめとする多くの弟子を育成しました。

交響詩

交響詩(Symphonic poem)は、管弦楽によって演奏される標題音楽のうち、作曲家によって交響詩と名付けられたもの。音詩(tone poem)や交響幻想曲(symphonic fantasy)などと名付けられた楽曲も、交響詩として扱われることが多い。楽曲の形式は全く自由であり原則として単一楽章で切れ目なく演奏されます。中には多楽章制の交響詩も存在しています。また、標題つきの交響曲の一部には、交響詩と名付けても差し支えないようなものがあります。文学的、絵画的な内容と結びつけられることが多くロマン派を特徴づける管弦楽曲の形態です。


生涯

オーストリア帝国領内ハンガリー王国ショプロン県ドボルヤーン(現在のオーストリア共和国ブルゲンラント州ライディング)において、ハンガリーの貴族エステルハージ家に仕えていたオーストリア系ハンガリー人(ドイツ系)の父アーダム・リストと、オーストリア人(南ドイツ人)の母アンナの間に生まれる。ドイツ人ヴァイオリン奏者フランツ・リストを叔父に、同じくドイツ人刑法学者フランツ・フォン・リストを従弟に持つのはこのゲルマン系の家系のため(リスト自身も最終的にはドイツに定住した)。

家庭内においてはドイツ語が使われていたこと、またドイツ語およびドイツ系住民が主流の地域に生まれたため、彼の母語はドイツ語でした。しかし、後にパリに本拠地を移して教育を受けたため、後半生はフランス語のほうを多く使っていました。このほか数ヶ国語に通じながら、ハンガリー人を自認していた彼が生涯ハンガリー語だけは覚えなかったことを不可解とする向きもあるが、時代背景的に生地・血統共に生粋のハンガリー人でさえドイツ語しか話せない者も珍しくありませんでした。そのため、国民国家の価値観が定着した現代の感覚でこれを疑問視することは適切ではない。歌曲は大部分がドイツ語で書かれています。
家名の本来の綴りはドイツ系固有の List で、Liszt はそれをハンガリー語化した綴りハンガリー名はリスト・フェレンツ(Liszt Ferencz; 現代ハンガリー語の表記ではLiszt Ferenc)で、彼自身はこのハンガリー名を家族に宛てた手紙で使っていたことがあります。リストのハンガリーのパスポートではファーストネームの綴りがFerenczとなっていたのにも拘らず今日ではFerencと綴られるが、これは1922年のハンガリー語の正書法改革で苗字を除く全ての語中のczがcに変更されたため。1859年から1867年までの公式の氏名はフランツ・リッター・フォン・リスト (Franz Ritter von Liszt)でしたが、これは1859年に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世によりリッター(騎士)の位を授けられたためであり、リスト自身は公の場でこのように名乗ったことは一度もありませんでした。この称号は、カロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタインと結婚する際、カロリーネを身分的特権の喪失から守るために必要でしたが、カロリーネとの結婚が婚姻無効に至った後、1867年にリストはこの称号を自身よりも年少の叔父のエードゥアルトに譲っています。
父親の手引きにより幼少時から音楽に才能を現し、10歳になる前にすでに公開演奏会を行っていたリストは、1822年にウィーンに移住し、ウィーン音楽院でカール・ツェルニーおよびアントニオ・サリエリに師事します。1823年にはパリへ行き、パリ音楽院へ入学しようとしましたが、当時の規定により外国人であるという理由で入学を拒否されました。そのため、リストは、フェルディナンド・パエールとアントン・ライヒャに師事しました。ルイジ・ケルビーニとパエールの手助けにより、翌年にはオペラ『ドン・サンシュ、または愛の館』を書き上げて上演しましたが、わずか4回のみに終わりました。

1823年4月13日(12歳)にウィーンでコンサートを開いたとき、そこで老ベートーヴェンに会うことができ、賞賛されています。その時の石版画が1873年、リストの芸術家生活50周年の祝典が行われた際、ブダペストで発表されています(ただし無署名)。

1827年(15歳)には父アーダムが死去し、わずか15歳にしてピアノ教師として家計を支えました。教え子であったカロリーヌ・ドゥ・サン=クリック伯爵令嬢との恋愛が、身分違いを理由に破局となりmす。生涯に渡るカトリック信仰も深め、思想的にはサン=シモン主義、後にはフェリシテ・ドゥ・ラムネーの自由主義的カトリシズムへと接近していきました。

1831年(20歳)ニコロ・パガニーニの演奏を聴いて感銘を受け、自らも超絶技巧を目指しました。同時代の人間である、エクトル・ベルリオーズ、フレデリック・ショパン、ロベルト・シューマンらと親交が深く、また音楽的にも大いに影響を受けました。1838年(27歳)のドナウ川の氾濫のときにチャリティー・コンサートを行い、ブダペストに多額の災害救助金を寄付しています。

ピアニストとしては当時のアイドル的存在でもあり、女性ファンの失神が続出したとの逸話があります。また多くの女性と恋愛関係を結びました。特に、マリー・ダグー伯爵夫人(後にダニエル・ステルンのペンネームで作家としても活動した)と恋に落ち、1835年(24歳)にスイスへ逃避行の後、約10年間の同棲生活を送りまました。2人の間には3人の子供が産まれ、その内の1人が、後に指揮者ハンス・フォン・ビューローの、さらにリヒャルト・ワーグナーの妻になるコジマ

1844年(33歳)3児をもうけたもののマリーと別れる

1847年(36歳) 演奏旅行の途次であるキエフ(現在のウクライナ)で、当地の大地主であったカロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と恋に落ち、同棲します。彼女とは正式の結婚を望みましたが、カトリックでは離婚が禁止されている上に、複雑な財産相続の問題も絡み、認められませんでした。

1848年(37歳) 以前から、リストとヴァイマール(「ワイマール」とも。ドイツ・テューリンゲン州の都市)宮廷の間には緩やかな関係があってリストは客演楽長の地位でしたが、1848年からは、常任のヴァイマール宮廷楽長に就任しました。カロリーネの助言もあって、リストはヴァイマールで作曲に専念しました。以後も機会があれば、コンサートでピアノを弾くことはありましたが、これを機にリストは、ヴィルトゥオーゾ・ピアニストとしてのキャリアを終え、指揮活動と作曲に専念するようになりました。リストが最も多産で活発な音楽活動を行ったのが、このヴァイマール時代でした。リストはこの地で、多数の自作を含めて、当時の先進的な音楽を多く演奏・初演しました。しかし保守的だったヴァイマールの市民に最後までリストは受け入れられませんでした。リストが指揮するコンサートはガラガラでした。ヴァイマール宮廷のオーケストラの規模は貧弱で、オーケストラの団員はリストの在任中40名を越えたことは1度もなく、1851年の段階ではオーケストラ団員35名、合唱団員29名、バレエ団員7名という少なさで、その給料の低さもひどいものでした。リストはヨアヒムをコンサートマスターとして招聘したり、オーケストラ団員を増員するなど改革に努力しましたが、保守的だったヨアヒムは結局リストの先進性を受け入れることができず、コンサートマスターを辞任するなどトラブルは絶えず、結果は実りませんでした。それにもかかわらず、リストはこの地でワーグナーの歌劇『タンホイザー』のヴァイマール初演(1849年2月中旬)、歌劇『さまよえるオランダ人』のヴァイマール初演、歌劇『ローエングリン』の世界初演(1850年8月28日)、シューマンの劇音楽『マンフレッド』の世界初演(1852年)、歌劇『ゲノヴェーヴァ』(1855年)、ベルリオーズの歌劇『ベンヴェヌート・チェルリーニ』、劇的交響曲『ロメオとジュリエット』、マイアベーアやヴェルディの歌劇など多くの大規模作品を演奏しています。特に『ローエングリン』の世界初演はエポック・メイキング的な演奏会であり、その初演は、『タンホイザー』のヴァイマール初演の時ほどの成功を勝ち取ることはできなかったにしても、これ以降、ヴァイマールは当時の最先端の音楽の中心と目されるようになりました。一方でリストはこれ以外にも保守的な歌劇も多く指揮した他、客演指揮者による歌劇の演奏も多く行われたため、ヴァイマールでは歌劇の演奏は非常に活発でした。また、当時の最新の音楽が演奏されたこともあって、新しい音楽に敏感な音楽家がヴァイマール詣でをするようになったほど。

一方、リストがカロリーネと愛人関係にあることは保守派に攻撃の口実を与える不利な材料となりました。カロリーネも市民から快く思われておらず、街中で市民から侮蔑の言葉を浴びせられることもありました。離婚問題に絡んだ政治的な策謀もからまって、カロリーネの社交パーティーにも宮廷の官吏は寄り付かないようになっていました。

1958年(47歳) 弟子のペーター・コルネ―リウスによる歌劇『バグダッドの理髪師』で聴衆から激しいブーイングを受け、これによりリストは翌年には音楽長の職を辞すことにします。カール・アレクザンダー大公は友人でもあるリストに翻意するように説得を試みましたが、リストの意思は固く復職することはありませんでした。離婚問題を打開するため、カロリーネは現夫との結婚の無効を求め、同時にリストとの結婚をローマ法王ピウス9世に許可してもらうためローマに1人で出かけていきました。それが1860年5月(リスト48歳)のこと。その後しばらくリストはヴァイマールのアルテンブルク荘で1人で自由な生活を送っていましたが、結局カロリーネを追いかけてリストは翌年の8月17日(49歳)にヴァイマールを後にしました。途中、ベルリン、パリを経由し、10月21日にローマに到着、以降はローマに定住するようになりました。

1861年(50歳) ローマに移住した後、1865年(54歳)に僧籍に入ります。それ以降『2つの伝説』などのように、キリスト教に題材を求めた作品が増えていきます。さらに1870年代になると、作品からは次第に調性感が希薄になっていき、1877年の『エステ荘の噴水』は20世紀の印象主義音楽に影響を与え、ドビュッシーの『水の反映』に色濃く残っています。同時にラヴェルの『水の戯れ』も刺激を受けて書かれたものであると考えられています。『エステ荘の噴水』の作曲時、エステ荘にたくさんある糸杉をみた印象をカロリーネ宛ての手紙に書いています。

「この3日というもの、私はずっと糸杉の木々の下で過ごしたのである!それは一種の強迫観念であり、私は他に何も―教会についてすら―考えられなかったのだ。これらの古木の幹は私につきまとい、私はその枝が歌い、泣くのが聞こえ、その変わらぬ葉が重くのしかかっていた!」(カロリーネ宛て手紙1877年9月23日付)。

そして、1885年(74歳)に『無調のバガテル』で無調を宣言するも、シェーンベルクらの十二音技法へとつながってゆく無調とは違い、メシアンの移調の限られた旋法と同様の旋法が用いられた作品です。この作品は長い間存在が知られていませんでしたが、1956年に発見されました。

リストは晩年、虚血性心疾患・慢性気管支炎・鬱病・白内障に苦しみました。また、弟子のフェリックス・ワインガルトナーは、リストを「確実にアルコール依存症」と証言していました。晩年の簡潔な作品には、病気による苦悩の表れとも言うべきものが数多く存在しています。

1886年(74歳)、バイロイト音楽祭でワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を見た後に慢性気道閉塞と心筋梗塞で亡くなり、娘コジマの希望によりバイロイトの墓地に埋葬されました(ただしカロリーネは、バイロイトがルター派の土地であることを理由に強く反対しました)。第二次世界大戦前は、立派な廟が建てられていましたが、空襲によりヴァーンフリート館(ワーグナー邸)の一部などともに崩壊されました。戦後しばらくは一枚の石板が置かれているのみでしたが、1978年に再建されました。


代表曲

『前奏曲』

Les Préludes(レ・プレリュード))S.97は、1854年(43歳)に作曲された交響詩。13曲あるリストの交響詩の代表作。「人生は死への前奏曲」という考え(アルフォンス・ド・ラマルティーヌの詩による)に基づき、リストの人生観が歌い上げられています。


ハンガリー幻想曲

(独:Fantasie über ungarische Volksmelodien)S.123。ピアノと管弦楽のための作品。正式な名称は『ハンガリー民謡旋律にもとづく幻想曲』。演奏時間は約15分。


ラ・カンパネッラ

『ラ・カンパネラ』(La Campanella) ピアノ曲。ニコロ・パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番第3楽章のロンド『ラ・カンパネラ』の主題を編曲して書かれました。名前の Campanella は、イタリア語で「鐘」という意味。リストが「ラ・カンパネラ」を扱った作品は4曲存在します。最も有名なのが、『パガニーニによる大練習曲』第3番。


エステ荘の噴水

リストの代表作の一つに数えられ、晩年の作品中ではとりわけ演奏機会が多い。巧みなアルペジオで水の流れを描写し、華麗な曲調が晩年の作品の中では異例とみなされることが多いが、他の作品と同様に宗教的な要素も含んでいまし。ラヴェルの『水の戯れ』やドビュッシーの『水の反映』がこの曲に直接的に触発されて作曲されたという点で、フランス印象主義音楽に多大な影響を与えた作品とされています。後年ブゾーニが聞いたところによると、この曲を聴いたドビュッシーはそのあまりに印象主義的な響きに顔色を失ったという。曲の半ばに「私が差し出した水は人の中で湧き出でる泉となり、永遠の生命となるであろう」というヨハネ福音書からの引用が掲げられています。



参照





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?