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家具だけじゃない「チャールズ&レイ・イームズ」

『建築と家具のデザイン』マガジン

デザインがメインの #しじみnote ですが、建築と家具に関する記事はこちらのマガジンにまとめていきます。


チャールズ・イームズ

チャールズ・イームズ
source: The Marginalian.org

チャールズ・オーモンド・イームズ・ジュニア(Charles Eames, 1907– 1978)は、アメリカ合衆国のデザイナー、建築家、映画製作者。配偶者のレイ・カイザー・イームズと共同で、建築、家具デザイン、工業デザイン、製造、写真芸術の分野で画期的な貢献をした人物です。

来歴

1907年:チャールズ・イームズは、アメリカ合衆国ミズーリ州セントルイスに1男第5子として生まれる。
1919年(12歳):父が他界。母と姉と共に二人の叔母の家に移り住む。その頃から写真を趣味にしていた父親の遺した機材を使い写真撮影を始める。
1921年(14歳):高校へ通いながら放課後や週末にレイクリード・スチール社で製図工見習いとして勤め、設計や製図を身につける。
1925年から1928年(18歳–21歳)の間、奨学金を受け、セントルイス・ワシントン大学建築学科へ通う。チャールズは、研究課題として建築家のフランク・ロイド・ライトを取り上げることを教授らに提案し、モダニズム建築に過度に熱をあげ過ぎたため、退学となってしまう。その理由としてある教授は「彼の物の見方はモダンすぎる。」というコメントをレポートに残しています。ワシントン大学在学中、彼は最初の妻、キャサリン・ウォーマンと出会い、1929年(22歳)に結婚。ヨーロッパ旅行へ行き、モダニズム建築に触れる。その後、娘ルーシアをもうける。

アメリカへ戻るも、世界恐慌のため、仕事はほとんどなく、チャールズ・グレイ、その後にはウォルター・ポーリーとパートナーを組み、1930年(23歳)セント・ルイスで建築設計事務所を開設。その間に設計した聖メリーズ教会(St. Mary's Church, Helena, Arkansas, 1934)が「アーキテクチュアル・フォーラム」に取り上げられ、それを見たフィンランドの建築家・都市計画家、エリエル・サーリネン(1873–1950)が手紙を送ったことでサーリネンとイームズの交流が始まりました。

聖メリーズ教会(St. Mary's Church, Helena, Arkansas, 1934)
By Valis55 - Own work, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=47986319

チャールズに大きな影響を与えたサーリネン(後にその息子でエーロ・サーリネンとはパートナーとなり親友となる)に招待され、チャールズは1936年(29歳)、イームズは妻子と共にミシガンへ引っ越し、「クランブルック美術学院」に奨学生として入学。後年には同校でインダストリアルデザイン学科長として教壇に立つ。イームズの入学申請当時、同校の建築・都市計画コースでは、新入学生は前もって設計課題の決定と、そのための情報収集を行っておくことを必須としており、チャールズはセントルイスのウォーターフロントを取り扱っていました。

1940年(33歳)、イームズは、エーロ・サーリネンとともに、ニューヨーク近代美術館開催の「オーガニック家具デザイン」コンペに応募します。成型合板を使った椅子、棚、机を出品し6部門中2部門で優賞した。彼らの作品は、フィンランドの建築家、都市計画家、デザイナーのアルヴァ・アアルト(Alva Aalto, 1898–1976)の開発した木材成型の新技術を見事に利用し、3次元の立体曲線によって背面と座面、肘掛けを継ぎ目なしで繋いだ物でした。

1941年(34歳)、妻のキャサリンと離婚。クランブルック美術学院に勤務する同僚であり、カリフォルニア州サクラメント出身のレイ・カイザー(Ray  Kaiser)と結婚。同年、クランブルックの教職を辞し、その後の生涯にわたる活動拠点となるロサンゼルスへ移ります。アメリカの老舗映画スタジオ、MGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)の美術部に勤めながら、合板を使った家具の大量生産に向けた製作に取り組み始めます。その後もイームズは合板の成型装置を発明するなど成型合板の技術を発展させ、多くの製品を開発しました。その作品は、椅子をはじめとする家具にとどまらず、彫刻作品骨折時に使う添え木担架飛行機の部品にまでおよび、中でも脚用の添え木「レッグ・スプリント」(Leg splint)は海軍で採用され、第2次世界大戦終了までの間にのべ15万本以上も製造されました。「レッグ・スプリント」はイームズの手がけた最初の大量生産品でした。

「レッグ・スプリント」(Leg splint)
source: eames.com

積層合板を使った製品の大量生産の実現に努める一方で、1942年(35歳)
からはジョン・エテンザ(John Entenza)が中心となりロサンゼルスで発行されていた雑誌『アーツ&アーキテクチャー(arts & architecture)』の編集に加わります。

アーツ&アーキテクチャー(arts & architecture)(1945-1949)
画像引用:Amazon.co.jp

1949年(42歳)には、『アーツ&アーキテクチャー』の企画であるケース・スタディ・ハウス(実験的住宅建築プログラム)に参加し、自邸であるNo.8を手掛けています。

ケース・スタディ・ハウスNo.8 イームズ邸
ercwttmn - https://www.flickr.com/photos/ricoslounge/32764430/, CC 表示 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1634635による

太平洋を見下ろす崖の上に建てられたイームズ邸は、建築費を抑えるため、鉄骨から内装材に至る部材の全てがアメリカ国内で流通していた既製品によって構成されており、工業化時代の新しい建築のあり方を示すものとして、例示的な存在となっています。

ピエール・コーニッグ設計 ケース・スタディ・ハウスNo.21 ベイリー邸
Ilpo's Sojourn - Flickr, CC 表示 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3607894による
ピエール・コーニッグ設計 ケース・スタディ・ハウスNo.23 リサーチハウス
Allan Ferguson - Flickr, CC 表示 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3677454による

1978年8月21日(71歳)、チャールズ・イームズ氏は、故郷セントルイスへの帰省中、心臓発作で死去。妻レイ・イームズが息を引き取ったのは10年後、奇しくもチャールズと同じ日付、1988年8月21日。

レイ・イームズ

レイ・イームズ
By unknown - Original publication: unknownImmediate source: https://www.renzoebox.com/blogs/renzoeblog/ray-eames-defined-modern-design, Fair use, https://en.wikipedia.org/w/index.php?curid=64489938

レイ=バーニス・アレクサンドラ・カイザー・イームズ(旧姓カイザー、1912–1988)は、アメリカのアーティスト、デザイナーです。

レイは、カリフォルニア州 サクラメントでアレクサンダーとエドナ・バー・カイザーとの間に生まれ、モーリスという兄がいました。母エドナは聖公会であり、父アレクサンダーはユダヤ人として育つも信仰は持たず、レイとモーリスは米国聖公会員(Episcopalian)として育つ。レイは、レイレイ(Ray Ray(と家族に呼ばれていました。父親は、1920年までサクラメントにあるボードビル劇場、エンプレスシアター(現在のクレストシアター )を管理し、その後保険のセールスマンになり、後にダウンタウンにオフィスを所有し、家族の生活を支えました。

レイの一家は、幼少期の大半をアパートで過ごし、その後、町外れのバンガローに引っ越しました。両親は彼女に喜びをもたらすものを大切にするよう教え、それが後に家具デザイン玩具の発明につながりました。レイの両親はまた、自然を楽しむことの大切さも彼女に教えました。

1931年2月(18歳)、レイはサクラメント高校を卒業。

1933年(21歳)、レイはニューヨーク州ミルブルックのメイ・フレンド・ベネット女子大学(美術の教師はルー・ダブル)を卒業し、ニューヨークに移り、ダブルの師であるハンス・ホフマン(Hans Hofmann)に抽象表現主義絵画を学びます。

1930年代、レイは絵画を中心とした芸術活動を行います。1936年(34歳)、レイはアメリカ抽象芸術家グループ(AAA)の創設メンバーとなり、1937年(25歳)にマンハッタンのリバーサイド美術館で開催された最初の展覧会に絵画を出展しました。抽象表現主義の重要人物であったリー・クラスナー(Lee Krasner)メルセデス・マター(Mercedes Matter,)と親交があり、当時のニューヨークのアートシーンの中心人物でした。レイは、ホイットニー美術館のパーマネント・コレクションに絵画を収蔵しています。この時期の彼女の芸術は失われてしまったため、残念ながらほとんど残っていません。

レイは、病弱な母親の世話をするためにホフマン工房を離れて故郷に戻るまで、ニューヨークで一人暮らしをしていました。母、エドナは1940年に死去しまています。

1940年9月(27歳)、レイはカリフォルニアに移り住み、家を建てる(設計)ことを思いつきました。友人の建築家ベン・ボールドウィンは、ミシガン州ブルームフィールドヒルズにあるクランブルック美術学院で学ぶのがいいと彼女に勧めました。そこでレイは、絵画だけでなく、様々な芸術を学びました。

レイはクランブルック美術学院で、夫となるチャールズ・イームズと出会います。チャールズ・イームズは当時結婚していて、一人の子供がいましたが、最初の妻とはまもなく離婚しました。チャールズとレイは1941年に結婚し、レイはカイザーからイームズに改名しました。

カリフォルニア州ロサンゼルスに定住したレイとチャールズ・イームズは、デザインと建築の分野で大きな成功を収め、賞賛されるキャリアを歩み始めました。

レイ・イームズは、チャールズ・イームズより評価される機会がすくないため、その業績に対して過小評価されています。そんなレイ・イームズについて詳しく記事になっているものがニューヨーク・タイムズにあります。別の機会にこちらの記事を中心にしてレイ・イームズにより焦点を当てた記事を書きます。


イームズ・オフィス

レイとチャールズ・イームズ
画像引用:vitra.

レイとチャールズ・イームズのイームズ・オフィス(The Eames Office)は、概して主に家具として記憶されています。しかし、レイとチャールズのデザイン哲学はもっと全体的なもので、家具に限定されるものではありませんでした。イームズ夫妻は映画製作者、情報デザイナー、デザイン理論家でもありました。 ニューヨーク・タイムズ紙は2015年に「1950年代半ばまでに、イームズ夫妻はイームズ家具メーカーのハーマンミラーと同様にアメリカのコンピュータ会社IBMにとって欠かせない存在になっていた」と書いています(※1)。 レイとチャールズはデザインを「生きる術」として信じ、その信念をすべての行動に適用していました。

イームズ夫妻は週に6~7日、1日に約13時間勤務し、協力者のチームの仕事を指揮していました。 長年にわたり、そのスタッフには多くの著名なデザイナーがいました。グレゴリー・アイン(Gregory Ain、第二次世界大戦中、イームズのチーフエンジニアを務めた)、ドン・アルビンソン(Don Albinson)、ハリー・ベルトイア(Harry Bertoia)、アネット・デル・ゾッポ(Annette Del Zoppo)、ピーター・ジョン・ピアース(Peter Jon Pearce)、デボラ・サスマン(Deborah Sussman)などです。イームズオフィスで新しいアイデアを導入する前に、チャールズとレイはそのアイデアの必要性と制約をストイックに幅広く検討しました。

プライウッド(合板)の初期利用

イームズ夫妻は、合板を使って機能的な家具を作るという最初の試みに加え、第二次世界大戦中に負傷した兵士のためのレッグスプリント(上述)も開発しています。これは、第二次世界大戦中、戦闘地域の医官から救急搬送用の副木の改良の必要性が報告されたことに対応するものでした。イームズ夫妻は、副木を樹脂接着剤で接着し、熱と圧力を加えることで複合曲線に成形して作りました。 この合板の導入により、血液循環の障害により壊疽を引き起こすという副作用のある金属製のスプリントから置き換えることができるようになりました。

家具デザイン

イームズの子供用スタッキングチェア、オークランド・ミュージアム・オブ・カリフォルニアで展示、2018年
By &lt;a href=&quot;//commons.wikimedia.org/wiki/User:Cullen328&quot; title=&quot;User:Cullen328&quot;&gt;Cullen328&lt;/a&gt; - &lt;span class=&quot;int-own-work&quot; lang=&quot;en&quot;&gt;Own work&lt;/span&gt;, <a href="https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0" title="Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0">CC BY-SA 3.0</a>, <a href="https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=79404215">Link</a>

イームズ製品は、1950年代までワシントン大通りで製造されていました。 そこで生まれた多くの重要なデザインの中には、成形合板のDCW(Dining Chair Wood)DCM(Dining Chair Metal with a plywood seat)(1945)Eames Lounge Chair(1956)Aluminum Groupの家具(1958)、チャールズの友人で映画監督のビリー・ワイルダーのためにデザインしたEames Chaise(1968)、Aluminum Corporation of Americaで初期の太陽エネルギー実験として行った Solar Do-Nothing Machine(1957)や数々の玩具があります。

DCW(Dining Chair Wood)
source: vitra.
DCM(Dining Chair Metal with a plywood seat)(1945)
source: hermanmiller.com
Eames Lounge Chair(1956)& Ottoman
画像引用:FLYMEe
Eames Aluminum Group Chairs
画像引用:HermanMiller
Eames Chaise
画像引用:HermanMiller
Solar Do-Nothing Machine (1957)
soure: Eames office

ハーマンミラーは1958年、イームズデザインの大量生産のための金型と資源をミシガン州ゼーランドにある本社に正式に移設しました。ハーマンミラーは、ヨーロッパのヴィトラ(Vitra)社とともに、現在もイームズの家具や製品を製造する唯一のライセンスメーカーです。

イームズ夫妻は、初期の成形合板の作品と同様に、グラスファイバーなどの大量生産される素材などの先駆的な技術を導入しています。当初からイームズオフィスの家具は、通常チャールズ・イームズによるものと記載されていました。1948年と1952年のハーマンミラーの綴じ込みカタログには、チャールズの名前だけが掲載されています。しかし、レイは多くのプロジェクトに深く関わり、夫と対等のパートナーであったことが明らかになっています。チャールズは一貫して、レイが自分と対等であることを主張していました。

2005年8月、マハラム社(maharam)からイームズデザインのファブリック、シーシングス(Sea things, 1947年)パターンとドットパターンが復刻されました。

シーシングス(Sea things, 1947年)
source:  pintarest
Dot Pattern by Charles and Ray Eames , 1947
source: maharam

ドットパターンは1947年にThe Museum of Modern Art(MoMA)の「プリントファブリックのためのコンテスト」で考案されたものです。このファブリックはレイが単独でデザインしたものです。1979年、王立英国建築家協会より、チャールズとレイにロイヤルゴールドメダルが授与されました。チャールズの死後、二人は最後の作品となる「イームズソファ」を制作していましたが、1984年にレイの努力により生産が開始されました。

イームズソファ(Eames Sofa)
source: HermanMiller

映画

チャールズとレイは、写真と演劇にそれぞれ興味を持っており、125本の短編映画を制作しています。最初の作品である未完成の『旅する少年』(Traveling Boy、1950年)から、最も有名な『パワーズ・オブ・テン(Powers of Ten )』(1977年に再公開))
9分ほど)、そして1982年の最後の作品まで、彼らの映画作品はアイデアの出口、実験と教育のための手段でした。夫妻は、旅先で玩具や文化財を収集するなど、自分たちの興味を記録するためにしばしば短編映画を制作していました。ある作品『ブラックトップ(Blacktop)』は、駐車場の舗装の上を石鹸の泡と水が移動する様子を撮影したもので、普段はありふれた題材が視覚的に詩的に変化したものとなっています。物理学者フィリップ・モリソン(Philip Morrison)のナレーションによる「パワーズ・オブ・テン」は、地球から宇宙の果てまでズームアップし、さらに炭素原子の核までミクロにズームアップして、桁違いの大きさをドラマチックに表現しています。この「Powers of Ten ショット」は、ハリウッドで賞賛された撮影技法として参照されています。

建築

チャールズ・イームズは、1936年から1938年までワシントン大学に在籍し、フランク・ロイド・ライトの実践に忠実であったため、「モダンすぎる」と批判され、建築学科を退学させられています。チャールズ・イームズは建築の免許を持たずにアーカンソー州に2つの教会を、セントルイスに3つの住宅を建設しました。その後、ミシガン州に移り、クランブルック・アカデミー・オブ・アート(Cranbrook Academy of Art)に入学しています。

ロサンゼルスに到着して3年後、チャールズとレイは、戦時中や工業用の材料を利用した経済的な価格のモダン住宅の例を紹介することを期待して、『アート&アーキテクチャ』誌が主催する住宅プログラム、ケーススタディハウスプログラムに参加するよう依頼されました。雑誌「Arts & Architecture」の編集者であるジョン・エテンザは、チャールズとレイの考え方や設計手法の重要性を認識し、同時に夫妻と親交を深めました。1945年、チャールズとエーロ・サーリネンは、チャールズとレイの住居となるケーススタディハウスNo.8と、ジョン・エンテンザの住居となるケーススタディハウスNo.9の設計を依頼します。この2つの住宅は、他のケーススタディハウスとともに、サンタモニカの北に位置するパシフィック・パリセーズ地区の太平洋を見下ろす5エーカーの土地に建設されることになりました。

パシフィック・パリセーズ地区の位置

共有することになった。戦後の資材配給制のため、イームズハウスの最初の草案のために注文した資材は、在庫切れになっていました。チャールズとレイは、草原でピクニックをしたり、矢を射たり、家族や友人、同僚と交流したりして、昼夜を問わず、現地のパシフィック・パリセーズ地区で過ごしました。そして、ユーカリの木立、広大な土地、遮るもののない海の眺望への愛着と理解を深めていきました。そして、最初の草案だったブリッジハウス(the Bridge House)を建てないことを決断し、その代わりに材料を組み替えて、丘の中腹に建つ2棟の別棟を建設しました。エーロ・サーリネン氏は、このイームズハウスの第2案に参加しておらず、チャールズとレイの完全なコラボレーションでしたた。1949年2月から12月にかけて、ようやく資材が搬入され、家が建てられました。イームズ夫妻は、クリスマスイブにこの家に移り住み、その後の生涯をこの家で過ごしました。この住宅は、現代建築の金字塔となっています。

The Eames House
source: AD
The Eames House
source: AD

イームズオフィスは他にもいくつかの建築を設計したが、その多くは実現されませんでした。


まとめ

Eames Lounge (670) and Ottoman (671) 1956
By The original uploader was Sonett72 at English Wikipedia. - Transferred from en.wikipedia to Commons., Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1860020

イームズ夫妻は、デザインをスタイルや機能として限定することになく、プロセスとして捉えていました。言い換えれば、「問題を解決するための試行錯誤そのものと解決を導く解を含めて、デザインである」ということを意味しています。最後にチャールズ・イームズの言葉を紹介し、その哲学や姿勢の一端をお見せしたいと思います。

Beyond the age of information is the age of choices.
(情報の時代の向こうには、選択の時代がある。)

チャールズ・イームズ
出典:TED

Design is not just for designers anymore, It's a process. It's not style. All that great thinking needs to really get about solving pretty key problems.
(デザインすることは単にデザイナーだけのものではない。それはプロセスであり、スタイルではない。すべての偉大な思考は、まさしく鍵となる問題を解くことに使われなくてはいけない。)

これはイームズ夫妻の言葉ではなく、彼らの孫のDemetrios Eamesの言葉
出典:TED



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参照

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9



https://www.nytimes.com/2020/05/15/arts/ray-charles-eames-artists.html


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