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《週末アート》 ダンテと神曲

《週末アート》マガジン

いつもはデザインについて書いていますが、週末はアートの話。


ダンテと神曲

ダンテは1200年(13世紀)から1300年代(14世紀)に生きたイタリア都市国家フィレンツェ出身の詩人、哲学者、政治家。しかしフィレンツェは追放されて以来足を踏み入れていない。以降はヴェローナで生涯を過ごしています。

ダンテといえば、ベアトリーチェであり、地獄。地獄の描写は漫画の『ワンピース』の監獄でもなんでもとにかくこの神曲がベースになっています。

それからこの『神曲』というタイトルですが、もともとダンテがつけたタイトルは「喜劇」だけでした。神曲と翻訳したのは森鴎外でした。

ざっとしるならこのブログ。もうちょっとだけ知るなら阿刀田 高さんの『やさしいダンテ<神曲>』。もっと知りたいときは本書をおすすめします。映画でなんとなく知るにはダン・ブラウン原作の『インフェルノ』がおすすめです。


ダンテ・アリギエーリ

サンドロ・ボッティチェッリによる肖像画
これくらいしかダンテの顔をうかがえるものはないみたい。
サンドロ・ボッティチェッリ - telegraphhttp://www.pileface.com/sollers/article.php3?id_article=312, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=122900による

名前:ダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri)
誕生:1265年(フィレンツェ共和国 フィレンツェ)
死去:1321年9月14日(教皇領 ラヴェンナ)
死没年:56歳

ダンテ・アリギエーリは、イタリア都市国家フィレンツェ出身の詩人、哲学者、政治家政界を追放され放浪生活を送り文筆活動を続けました

ダンテの代表作は古代ローマの詩人ウェルギリウスと共に地獄(Inferno)、煉獄(Purgatorio)、天国(Paradiso)を旅するテルツァ・リーマで構成される叙事詩『神曲(La Divina Commedia)』であり、他に詩文集『新生(La Vita Nuova)』があります。大きな影響を与えたとされるルネサンス文化の先駆者と位置付けられています。


ダンテの生涯

1265年に、イタリアの中部地域にあるトスカーナ地方のフィレンツェの町で金融業を営む教皇派(ゲルフ)の小貴族の父アリギエーロ・ディ・ベッリンチョーネ(Alaghiero(Alighieroとも) di Bellincione)とその妻ベッラ(Bella)の息子として生まれました。

フィレンツェの場所


ダンテの先祖には神聖ローマ皇帝であったコンラート3世に仕え、第2回十字軍に参加して1148年にイスラム教徒と戦い、戦死した曽々祖父カッチャグイーダ(Cacciaguida)(1091年 - 1148年頃)がいることは『神曲』天国篇第15歌の第133行から第135行に記されています。

「 マリア——唱名の聲高きを開きて——我を加へ給へり、汝等の昔の授洗所にて我は基督教徒となり、カッチアグイーダとなりたりき」

—『神曲』天国篇第15歌 第133行から第135行(山川丙三郎訳『神曲 天堂』より)


ダンテは生後、聖ジョヴァンニ洗礼堂で洗礼を受け「永続する者」の意味を持つドゥランテ・アリギエーリ(Durante Alighieri)と名付けられました。なお「ダンテ(Dante)」は、ドゥランテの慣習的短縮形です。

聖ジョヴァンニ洗礼堂
サン・ジョヴァンニ洗礼堂 (Battistero di San Giovanni) は、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂付属の洗礼堂。大聖堂の正面玄関に向き合って立っている八角形の建築物で、ロマネスク様式の最も重要な集中形式の教会建築のひとつである。アーヘンの宮廷礼拝堂を想起させるが、祭室と壁内通路以外には付室を持たない非常に単純な形式の八角堂である。
CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=54546


ダンテの正確な誕生日は明らかではないが、『神曲』天国篇第22歌の第109行から第117行の中にその手掛かりがあります。

「 わがかの金牛に續く天宮を見てその内に入りしごとく早くは汝豈指を火に入れて引かんや
あゝ榮光の星よ、大いなる力滿つる光よ、我は汝等よりわがすべての才(そはいかなるものなりとも)の出づるを認む
我はじめてトスカーナの空氣を吸ひし時、一切の滅ぶる生命の父なる者、汝等と共に出で汝等とともに隠れにき」

—『神曲』天国篇第22歌 第109行から第117行(山川丙三郎訳『神曲 天堂』より)

この記述によると、ダンテがトスカーナに生を享けたのは、全ての生命の父たる太陽が黄道十二宮の金牛宮に続く双児宮のもとに懸っていた間ということが分かります。すなわち、双児宮のダンテの誕生日は、1265年の5月半ばから6月半ばにかけての間と考えられます。

少年時代

少年時代のダンテについての確たる記録は乏しく、どのような成長過程を送ってきたかは定かではありません。

ダンテが最も敬愛する師として『神曲』に登場させているのは、『宝典』を著したイタリアの哲学者で有力な政治家のブルネット・ラティーニBrunetto Latini)です。ダンテはおそらく18歳の頃にラティーニから修辞学や論理学などを学んだとされており、『神曲』地獄篇第15歌で、男色の咎ゆえに炎熱地獄に配しながらも「人間が生きる道」を教えてくれた旧師に対する敬慕を忘れていない

また、ダンテは古代ローマの詩人ウェルギリウスマルクス・アンナエウス・ルカヌス、ホラティウス、オウィディウスから文体の探求の過程によりラテン文学の教養を身に付けマルクス・トゥッリウス・キケロルキウス・アンナエウス・セネカからは倫理学(行動の規範となる物事の道徳的な評価を検討する哲学の一分野)を学びました。

そしてダンテはフィレンツェの詩人でダンテの友人であったグイド・カヴァルカンティ(Guido Cavalcanti, 1258年頃 - 1300年8月29日)から大きな感化を受け、「清新体」と呼ばれる詩風を創り上げました。

グイド・カヴァルカンティ
Cavalcanti, Guido - Available in the BEIC digital library and uploaded in partnership with BEIC Foundation., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=89124804による

清新体(Dolce Stil Novo, ドルチェ・スティル・ノーヴォ):
13世紀イタリアの重要な文学運動のこと。シチリアやトスカーナの詩に影響を受け、「愛(Amore)」をメインテーマとしました。「精神の気高さ(Gentilezza)」と「愛」は確かにこの時代の主要作品のトポス(topos:詩学において特定の連想ないし情念を喚起する機能をもつテーマや概念、定型的表現)でした。最初に「清新体」という言葉を使ったのはダンテ・アリギエーリ(『神曲』煉獄篇第24歌)。ダンテは煉獄に着いた時、13世紀のイタリアの詩人ボナジェンタ・オルビッチアーニ(Bonagiunta Orbicciani)と出会います。ボナジェンタはダンテに、ダンテとグイド・グイニツェッリ(Guido Guinizelli)、グイド・カヴァルカンティ(Guido Cavalcanti)が「新体(stil novo)」という新しいジャンルを創ったと語ります。

ダンテは修道院が経営するラテン語学校やラティーニから学んだ後にボローニャ大学に入学し、哲学や法律学、修辞学、天文学などを研究しました。

カヴァルカンティともボローニャ大学で知り合い、カヴァルカンティにより詩作する意欲をもらったとされています。


ベアトリーチェ (Beatrice Portinari)

ベアトリーチェ
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ - https://sites.google.com/view/startpagina-onderwerpen/startpagina/startpagina-script, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6078047による

ダンテを代表する最初の詩文作品、『新生』によれば、1274年5月1日に催された春の祭りカレンディマッジョ(Calendimaggio)の中で、ダンテは同い年の少女ベアトリーチェ・ポルティナーリ(Beatrice Portinari)に出会い、魂を奪われるかのような感動を覚えました。この時、ダンテは9歳。

それから9年の時を経て、共に18歳になったダンテとベアトリーチェは、サンタ・トリニタ橋のたもとで再会。その時ベアトリーチェは会釈してすれ違ったのみで、一言の会話も交してません。

しかし以来ダンテはベアトリーチェに熱病に冒されたように恋焦がれました。しかしこの恋心を他人に悟られないように、別の二人の女性に宛てて「とりとめのない詩数篇」を作ります。その結果、ダンテの周囲には色々な風説が流れ、感情を害したベアトリーチェは挨拶すら拒むようになりました。こうしてダンテは、深い失望のうちに時を過ごすことになります。1285年頃(20歳)に、ダンテは許婚のジェンマ・ドナーティ(Gemma Donati)と結婚しました。

二人の間にさしたる交流もないまま、ベアトリーチェもある銀行家に嫁ぎ、数人の子供をもうけて1290年に24歳で病死しました。彼女の死を知ったダンテは狂乱状態に陥り、キケロボエティウスなどの古典を読み耽って心の痛手を癒そうとしました。そして生涯をかけてベアトリーチェを詩の中に永遠の存在として賛美していくことを誓い、生前の彼女のことをうたった詩をまとめて『新生』を著しました。その後、生涯をかけて『神曲』三篇を執筆し、この中でベアトリーチェを天国に坐して主人公ダンテを助ける永遠の淑女として描いています。


フィレンツェ追放

13世紀当時の北部イタリアは、ローマ教皇庁の勢力と神聖ローマ帝国の勢力が対立し、各自治都市はグェルフィ党(教皇派)ギベリーニ党(皇帝派)に分かれて、反目しあっていました。

フィレンツェはグェルフィ党に属しており、ダンテもグェルフィ党員としてフィレンツェの市政に参画していくようになっていました。

1289年(24歳)には、カンパルディーノの合戦にて両党の軍勢が覇権を争い、血みどろの戦いを繰り広げました。この時ダンテもグェルフィ党の騎兵隊の一員として参加しています。その体験は『神曲』地獄篇第22歌の中に生かされており、凄まじい戦闘の光景が地獄の鬼と重ねられています。

グェルフィ党はこの合戦で辛くも勝利をおさめましたが、内部対立から真っ二つに割れてしまいます。教皇派の中でも、フィレンツェの自立政策を掲げる富裕市民層から成る「白党」と、教皇に強く結びつこうとする封建貴族支持の「黒党」に分裂、両党派が対立していました。

小貴族の家柄であるダンテは白党に所属し、のちに百人委員会などの要職に就くようになりました。当初市政の政権を握ったのは白党で、1300年には白党の最高行政機関プリオラートを構成する三人の統領(プリオーレ)が選出され、ダンテもこの一人に任命されました。

しかし、同時に黒党と白党の対立が激化して、その翌年、1301年(36歳)には黒党が政変を起こして実権を握り、フィレンツェは黒党の勢力下となりました。当時ダンテは教皇庁へ特使として派遣され、フィレンツェ市外にいましたが、黒党の天下となったフィレンツェでは白党勢力に対する弾圧が始まり、幹部が追放されました。ダンテも欠席裁判で教皇への叛逆や公金横領の罪に問われ、市外追放と罰金の刑を宣告されました。ダンテはこの判決を不服として出頭命令に応じず、罰金を支払わなかったため、黒党から永久追放の宣告を受け、再びフィレンツェに足を踏み入れれば焚刑に処されることになりました。

こうしてダンテの長年にわたる流浪の生活が始まりました。以来、ダンテは二度と故郷フィレンツェに足を踏み入れることはありませんでした。

政争に敗れてフィレンツェを追放されたダンテは、北イタリアの各都市を流浪し、政局の転変を画していました。その中で方針の違いから白党の同志とも袂を分かち、「一人一党」を掲げます。この体験はダンテにとって非常に辛いものであり、『神曲』中にも、「他人のパンのいかに苦いかを知るだろう」、と予言の形をとって記されています。ダンテの執筆活動はこの時から本格的に始まり、『神曲』『饗宴』、『俗語論』、『帝政論』などを著していきました。


神曲

ダンテが『神曲』三篇の執筆を始めたのは1307年頃(42歳)で、各都市の間を孤独に流浪していた時期です。『神曲』においては、ベアトリーチェに対する神格化とすら言えるほどの崇敬な賛美と、自分を追放した黒党および腐敗したフィレンツェへの痛罵、そして理想の帝政理念、「三位一体」の神学までもが込められており、ダンテ自身の波乱に満ちた人生の過程と精神的成長をあらわしていています。

とくにダンテが幼少期に出会い、その後24歳にして夭逝したベアトリーチェを、『新生』につづいて『神曲』の中に更なる賛美をこめて永遠の淑女としてとどめたことから、ベアトリーチェの存在は文学史上に永遠に残ることになりました。(たとえばヘッセの『デミアン』にも登場します。)

『神曲』は地獄篇、煉獄篇と順次完成し、天国篇を書き始めたのは書簡から1316年頃(51歳)と推定されています。『神曲』が完成したのは死の直前1321年(56歳)。ダンテは1318年頃(53歳)からラヴェンナの領主のもとに身を寄せ、ようやく安住の地を得えました。

ラヴェンナの場所

ダンテはラヴェンナに子供を呼び寄せて暮らすようになり、そこで生涯をかけた『神曲』の執筆にとりかかります。そして1321年(56歳)に『神曲』の全篇を完成させましたが、その直後、外交使節として派遣されたヴェネツィアへの長旅の途上で罹患したマラリア(マラリア原虫をもった蚊(ハマダラカ属)に刺されることで感染する病気です。 世界中の熱帯・亜熱帯地域で流行しており、結核、エイズと並ぶ世界の3大感染症のひとつ)がもとで、1321年9月13日から14日にかけての夜中に亡くなりました。

客死したダンテの墓は今もラヴェンナにあり、サン・フランチェスコ聖堂の近くに小さな霊廟が造られています。フィレンツェは数世紀に渡り、ラヴェンナにダンテの遺骨の返還を要求していますが、ラヴェンナはこれに応じていません。

ダンテの墓(it:Tomba di Dante)
ThePhotografer - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=117765280による


死後

ダンテの名声は、生前は亡命地であるラヴェンナのみにとどまるものでした。しかし死後徐々にイタリア各地へと広がり、1340年(死後19年)には『神曲』の最初の注釈書が著され、1350年頃(死後約30年)にはかつてダンテを追放したフィレンツェにおいても受け入れられるようになっていいきました。

ジョヴァンニ・ボッカッチョ(Giovanni Boccaccio)はダンテの最初の賛美者の一人として知られており、1373年にはフィレンツェ市の招きに応じて世界初のダンテに関する講演会を行うなど、ダンテの再評価と普及に大きな役割を果たしました。

ジョヴァンニ・ボッカッチョ
パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=42588


しかしルネサンス期が終わって以降、イタリアにおいてダンテは久しく忘れ去られていました。イタリアのロマン主義詩人、貴族、劇作家であるヴィットーリオ・アルフィエーリ(Vittorio Alfieri/1749-1803)によれば、イタリアで『神曲』を読んだことのある人は30名もいないとしています。

フランソワ=グザヴィエ・ファーブル - High Museum of Art, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=141163による

フランスの小説家スタンダールによると1800年ごろ、ダンテは軽蔑されていたとまで記しているくらいです。

ゲーテもダンテ作品に親しんではいたものの、『イタリア紀行』においてダンテに言及することはほぼありませんでした。彼はダンテを偉大と認めつつも「ダンテの不快な、しばしば嫌悪すべき偉大さ」(*1)と否定的な評価をしばしば下しています。フランスの古典主義の作家や批評家はダンテをほぼ黙殺しており、批評家サント-ブーヴや画家のドラクロワらのロマン主義の時代にようやく復権した。

イタリアでは統一運動とナショナリズムの高揚によって、ようやくダンテは注目されるようになり、1865年に行われた国主催のダンテ記念祭によって、現在のようなイタリア国民の最大の精神的代表者としての地位を得ることになりました。


ダンテの著作

『新生』La Vita Nuova 1293年頃(28歳)

ソネット25篇、カンツォーネ5篇、バッラータ1篇の合計31篇の詩(数え方には異同あり)から成る詩文集。ベアトリーチェの夭逝という悲報を聞いて惑乱したダンテが、生前のベアトリーチェを賛美した詩などをまとめたもの。


『神曲』La Divina Commedia 1307年頃 - 1321年(42-56歳)

神曲の初版(1472年4月11日発行)
JoJan - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4134944による

代表作の叙事詩。地獄篇、煉獄篇、天国篇の三部構成から成る。作者のダンテ自身は、生身のまま彼岸の世界を遍歴し、地獄・煉獄・天国の三界を巡るという内容。


『饗宴』Il Convivio 1304年 - 1307年(39-42歳)

序章と14篇のカンツォーネおよび注釈から成る全15巻の大作として構想されたが、第4巻で中断しています。ダンテの倫理観が込められた「知識の饗宴」は、当時の百科全書として編まれたとされています。


『俗語論』De Vulgari Eloquentia 1304年 - 1307年(39-42歳)

ダンテの母語イタリア語について考察したラテン語論文。言語問題を取り上げ、規範的な「文語」と流動的な「俗語」を区別した。イタリア語の方言の中から文語の高みにまで達しうるものを捜し求め、トスカナ地方の方言をその候補とする。

『帝政論』De Monarchia 1310年 - 1313年?(45-48歳?)

全3巻。ダンテ自身の政治理念をあらわしたもので、皇帝の正義や宗教的権威の分離などについて説く。


神曲

ボッティチェッリの 地獄の図 c. 1490年
サンドロ・ボッティチェッリ - en.wikipedia からコモンズに移動されました。http://www.shef.ac.uk/english/modules/lit367/site/, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=506616による

『神曲』(しんきょく、伊: La Divina Commedia)は、13世紀から14世紀にかけてのイタリアの詩人・政治家、ダンテ・アリギエーリの代表作です。

地獄篇、煉獄篇、天国篇の3部から構成されており、全14,233行の韻文による長編叙事詩。聖なる数「3」を基調とした極めて均整のとれた構成から、しばしばゴシック様式の大聖堂にたとえられます。

イタリア文学最大の古典とされ、世界文学史上でも極めて重きをなしている。当時の作品としては珍しく、ラテン語ではなくトスカーナ方言で書かれていることが特徴のひとつです。

題名『神曲』の由来

題名に La Divina が付け加えられた最初の版の表紙 (1555年)
Fivedit - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=41984345による

原題はイタリア語で“La Divina Commedia”であり、「神聖(なる)喜劇」(英訳は“Divine Comedy”)を意味しています。ただし、ダンテ自身は、単に「喜劇(Commedia)」とのみ題しています。「喜劇」は「悲劇」(Tragedia)の対義語であり、本作は悲劇ではないから喜劇であるという理屈であるそうです。

出版史上では、『神曲』の最初期の写本には、「ダンテ」「三行韻詩」などの題がつけられていた。15世紀から16世紀頃には、ダンテの詩が活版印刷で出版されるようになり、1555年刊行のヴェネツィア版より美称である「Divina」が付された「神聖喜劇」の題名が定着しました。

神曲の初版(1472年4月11日発行)
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邦題の「神曲」は、森鷗外訳の代表作であるアンデルセンの『即興詩人』の中で用いられました。その一章「神曲、吾友なる貴公子」において『神曲』の魅力が語られ、上田敏や正宗白鳥ら同時代の文人を魅了し、翻訳紹介の試みが始まりました。

上記が日本における最初期の『神曲』紹介であり、ダンテ作品の受容はここから始まったとも言える。故に、今日でもほぼ全ての訳題が『神聖喜劇』ではなく、『神曲』で統一されています。


『神曲』の成立

ダンテが『神曲』を世に出した背景には、当時のイタリアにおける政争自身のフィレンツェ追放、そして永遠の淑女ベアトリーチェへの愛の存在があります。また、ダンテは、ヴェローナのパトロンであるカングランデ1世(Cangrande I della Scala)への書簡で、人生における道徳的原則を明らかにすることが『神曲』を執筆した目的であると記しています。

カングランデ1世
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『神曲』地獄篇は、1304年(39歳)から1308年頃(43歳)に執筆されたと考えられています。1319年(54歳)には、地獄篇煉獄篇は既に多くの人に読まれており、ダンテは名声を得ていました。

天国篇は1316年頃(51歳)から死の直前、1321年(56歳)にかけて完成させています。『神曲』は、当時の知識人の共通語であったラテン語ではなく、トスカーナ方言で執筆されたことも、多くの人に読まれた理由でした

ベアトリーチェ

『神曲』では、実在の人物の名前が多々登場します。ウェルギリウスに地獄界の教導を請い、煉獄山の頂上でダンテを迎えるベアトリーチェは、ダンテが幼少のころ出会い、心惹かれた少女の名です。しかし、のちにベアトリーチェは24歳で夭逝(ようせい)してしまいます。ダンテは、それを知り、ひどく嘆き悲しみ、彼女のことをうたった詩文『新生』をまとめました。

『神曲』に登場するベアトリーチェに関しては、実在した女性ベアトリーチェをモデルにしたという実在論と、「永遠の淑女」「久遠の女性」としてキリスト教神学を象徴させたとする象徴論が対立しています。実在のモデルを取る説では、フィレンツェの名門フォルコ・ポルティナーリの娘として生れ、のちに銀行家シモーネ・デ・バルティの妻となったベアトリーチェ(ビーチェ)を核として、ダンテがその詩の中で「永遠の淑女」として象徴化していったと見ています。

非実在の立場を取る神学の象徴説では、ダンテとベアトリーチェが出会ったのは、ともに9歳の時で、そして再会したのは9年の時を経て、2人が18歳になった時であるというように、三位一体を象徴する聖なる数「3」の倍数が何度も現われていることから、ベアトリーチェもまた神学の象徴であり、ダンテは見神の体験を寓意的に「永遠の淑女」として象徴化したという説を取っています。

いずれにせよ、ベアトリーチェは、愛を象徴する存在として神聖化され、神学の象徴ともあると考えられています。地獄と煉獄を案内するウェルギリウスも実在した古代ローマの詩人であり、神曲の中では「理性と哲学」の象徴とされています。


フィレンツェの政争

ダンテが『神曲』を執筆するきっかけの1つには、当時のイタリアでのグェルフィ党(教皇派)ギベリーニ党(皇帝派)の対立、および党派抗争を制したグエルフィ党内部での「白党」「黒党」による政争があります。

ダンテは、グェルフィ党の白党に所属しており、フィレンツェ市政の重鎮に就いていましたが、この政争に敗れてフィレンツェを追放されることになります。

『神曲』には、ここかしこにダンテが経験した政治的不義に対する憤りが現れており自分を追放したフィレンツェへの怒りと痛罵も込められています。また、ダンテを陥れた人物は、たとえ至尊の教皇であろうと地獄界に堕とし、そこで罰せられ苦しむ様子も描かれています。

ほかにも、ダンテは、自由に有名無名の実在した人物を登場させ、地獄や煉獄、天国に配置しており、これによって生まれるリアリティが『神曲』を成功させた理由の1つであると考えられています。


『神曲』の構成

『神曲』は、

  • 地獄篇 (Inferno)

  • 煉獄編 (Purgatorio)

  • 天獄編(Paradiso)

の三部から構成されており、各篇はそれぞれ34歌、33歌、33歌の計100歌から構成されています。

このうち地獄篇の最初の第一歌は、これから歌う三界全体の構想をあらわした、いわば総序となっているので、各篇は3の倍数である33歌から構成されていることになります。

また詩行全体にわたって、三行を一連とする「三行韻詩」あるいは「三韻句法」(テルツァ・リーマ)の詩型が用いられています。各行は11音節から成り、3行が一まとまりとなって、三行連句の脚韻が aba bcb cdc と次々に韻を踏んでいって鎖状に連なるという押韻形式となっています。

各歌の末尾のみ3+1行で、xyx yzy z という韻によって締めくくられています。したがって、各歌は3n+1行から成っています。このように、『神曲』は細部から全体の構成まで作品の隅々において、聖なる数「3」が貫かれており、幾何学的構成美を見せています。ダンテはローマカトリックの教義、「三位一体」についての神学を文学的表現として昇華しようと企図(きと)していました。すなわち、聖数「3」と完全数「10」を基調として、1,3,9(32),10(32+1),100(102,33×3+1) の数字を『神曲』全体に行き渡らせることで「三位一体」を作品全体で体現しました。

なお、地獄、煉獄、天国の各篇とも、最終歌の末節は星(stella)という言葉で結ばれています。また地獄篇はキリスト教新約聖書外典である「ペトロの黙示録」で語られている世界観を踏襲しています。


あらすじ

ユリウス暦1300年の聖金曜日(復活祭前の金曜日)、暗い森の中に迷い込んだダンテは、そこで古代ローマの詩人ウェルギリウスと出会い、彼に導かれて地獄、煉獄、天国とを遍歴して回ります。

ウェルギリウスは、地獄の九圏を通ってダンテを案内し、地球の中心部、魔王ルチーフェロ(ルシフェル)の幽閉されている領域まで至ります。そして、地球の対蹠点(たいせきてん:地球上のある地点から見みて地球の中心を通とおって反対側にある地点)に抜けて煉獄山にたどり着きます。

ダンテは、煉獄山を登るにつれて罪が清められていき、煉獄の山頂でウェルギリウスと別れることになります。そして、ダンテは、そこで再会した永遠の淑女ベアトリーチェの導きで天界へと昇天し、各遊星の天を巡って至高天(エンピレオ)へと昇りつめ、見神(けんしん:霊感によって神の本体を感知すること)の域に達します。


地獄篇 Inferno

地獄篇の冒頭。気が付くと深い森の中におり、恐怖にかられるダンテ。ギュスターヴ・ドレ(Paul Gustave Doré, 1832年1月6日 - 1883年1月23日/フランスのイラストレーター、画家、版画家、挿絵画家、彫刻家) による挿絵
ウォルター・クレイン - https://archive.org/details/dantesinferno00dantuoft/page/n33, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=19049による

西暦(ユリウス暦)1300年の聖金曜日(復活祭直前の金曜日)、人生の半ばにして暗い森に迷い込んだダンテは、地獄に入ります。作者であり主人公でもあるダンテは、私淑(ししゅく:敬慕する人に直接教えを受けることはできないが、ひそかに尊敬し、模範として学ぶこと)する詩人ウェルギリウスに案内され、地獄の門をくぐって地獄の底にまで降り、死後の罰を受ける罪人たちの間を遍歴していきます。

ウェルギリウスは、キリスト以前に生れたため、キリスト教の恩寵を受けることがなく、ホメロスら古代の大詩人とともに未洗礼者の置かれる辺獄(リンボ)にいました。しかし、ある日、地獄に迷いこんだダンテの身を案じたベアトリーチェの頼みにより、ダンテの先導者としての役目を引き受けて、辺獄を出たのでした。

『神曲』において、地獄の世界は、漏斗状の大穴をなして地球の中心にまで達し、最上部の第一圏から最下部の第九圏までの九つの圏から構成されています。

かつて最も光輝はなはだしい天使であったルシファーが神に叛逆し、地上に堕とされてできたのが地獄の大穴です。地球の対蹠点では、魔王が墜落した衝撃により、煉獄山が持ち上がっています。地獄は、アリストテレスの『倫理学』でいう三つの邪悪、「放縦」「悪意」「獣性」を基本として、それぞれ更に細分化され、「邪淫」「貪欲」「暴力」「欺瞞」などの罪に応じて、亡者が各圏に振り分けられています。地獄の階層を下に行くに従って罪は重くなり、中ほどにあるディーテの市(ディーテはプルートーの別名)を境として、地獄は、比較的軽い罪と重罪の領域に分けられています。

『神曲』の地獄において最も重い罪とされる悪行は「裏切り」で、地獄の最下層コキュートス(Cocytus: 嘆きの川)には裏切者が永遠に氷漬けとなっています。

氷漬けにされた亡者たちを見おろすウェルギリウスとダンテ(第三十二歌)
ギュスターヴ・ドレ - 投稿者自身による著作物 scan (HP Photosmart C5280) of page 37, Bildlexikon der Kunst: 6. Engel, Dämonen und phantastische Wesen, Berlin, Parthas, 2003, ISBN 3936324042 / ISBN 9783936324044, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3636956による

数ある罪の中で、「裏切り」が特別に重い罪とされているのは、ダンテ自身がフィレンツェにおける政争の渦中で体験した、政治的不義に対する怒りが込められているためです。

地獄界は、まず「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」と銘された地獄の門を抜けると、地獄の前庭とでも言うべきところに、罪も誉もなく人生を無為に生きた者が、地獄の中に入ることも許されず留め置かれています。その先にはアケローン川(Acheron:ギリシア北西部のイピロス地方を流れる川/ダンテの『神曲』“地獄篇”において、アケローン川は地獄前域で地獄との境界をなしている)が流れており、冥府の渡し守カロンの舟で渡ることになっています。

冥界の渡し守カロンが死者の霊を舟に乗せてゆく。地獄篇の挿絵より。
パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=79450
地獄の渡し守カロン、ギュスターヴ・ドレ『神曲』挿画より
ギュスターヴ・ドレ - http://home.t-online.de/home/Dr.Papke/bibo1199.htm, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=55205による


地獄界の階層構造は、以下のようになっている。

地獄界の構造

ボッティチェッリの 地獄の図 c. 1490年
サンドロ・ボッティチェッリ - en.wikipedia からコモンズに移動されました。http://www.shef.ac.uk/english/modules/lit367/site/, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=506616による
  • 地獄の門 :「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」の銘が記されている。

  • 地獄前域:無為に生きて善も悪もなさなかった亡者は、地獄にも天国にも入ることを許されず、ここで蜂や虻に刺され。

  • アケローン川:冥府の渡し守カロンが亡者を櫂で追いやり、舟に乗せて地獄へと連行していく。

  • 第一圏 辺獄(リンボ):洗礼を受けなかった者が、呵責こそないが希望もないまま永遠に時を過ごす。

  • 地獄の入口では、冥府の裁判官ミーノス(Mīnōs)が死者の行くべき地獄を割り当てている。

  • 第二圏 愛欲者の地獄肉欲に溺れた者が、荒れ狂う暴風に吹き流される。

  • 第三圏 貪食者の地獄大食の罪を犯した者が、ケルベロスに引き裂かれて泥濘にのたうち回る。

  • 冥府の神プルートーの咆哮。「パペ・サタン・パペ・サタン・アレッペ!」

  • 第四圏 貪欲者の地獄吝嗇と浪費の悪徳を積んだ者が、重い金貨の袋を転がしつつ互いに罵る。

  • 第五圏 憤怒者の地獄怒りに我を忘れた者が、血の色をしたスティージュの沼で互いに責め苛む。

  • ディーテの市:堕落した天使と重罪人が容れられる、永劫の炎に赤熱した環状の城塞。ここより下の地獄圏はこの内部にある。

  • 第六圏 異端者の地獄:あらゆる宗派の異端の教主と門徒が、火焔の墓孔に葬られている。

  • 二人の詩人はミノタウロスケンタウロスに出会い、半人半馬のケイロンネッソスの案内を受ける。

  • 第七圏 暴力者の地獄:他者や自己に対して暴力をふるった者が、暴力の種類に応じて振り分けられる。
    第一の環 隣人に対する暴力:隣人の身体、財産を損なった者が、煮えたぎる血の河フレジェトンタに漬けられる。
    第二の環 自己に対する暴力:自殺者の森。自ら命を絶った者が、奇怪な樹木と化しアルピエ(Harpuiaに葉を啄ばまれる。
    第三の環 神と自然と技術に対する暴力:神および自然の業を蔑んだ者、男色者に、火の雨が降りかかる(当時のカトリック教徒は同性愛を罪だと考えていた)。

  • 第八圏 悪意者の地獄:悪意を以て罪を犯した者が、それぞれ十の「マーレボルジェ(Malebolge)」(悪の嚢)に振り分けられる。
    第一の嚢 女衒(ぜげん):婦女を誘拐して売った者が、角ある悪鬼から鞭打たれる。
    第二の嚢 阿諛(あゆ:おべっかをつかうこと)者:阿諛追従の過ぎた者が、糞尿の海に漬けられる。
    第三の嚢 沽聖(こせい:金銭などの対価をもって聖職者の位階や霊的な事物を故意に取引すること)者:聖物や聖職を売買し、神聖を金で汚した者(simonia: シモニア)が、岩孔に入れられて焔に包まれる。
    第四の嚢 魔術師:卜占(ぼくせん)や邪法による呪術を行った者が、首を反対向きにねじ曲げられて背中に涙を流す。
    第五の嚢 汚職者:職権を悪用して利益を得た汚吏が、煮えたぎる瀝青(れきせい)に漬けられ、12人の悪鬼であるマレブランケ(Malebrancheから鉤手で責められる。
    第六の嚢 偽善者:偽善をなした者が、外面だけ美しい重い金張りの鉛の外套に身を包み、ひたすら歩く。
    第七の嚢 盗賊:盗みを働いた者が、蛇に噛まれて燃え上がり灰となるが、再びもとの姿にかえる。
    第八の嚢 謀略者:権謀術数をもって他者を欺いた者が、わが身を火焔に包まれて苦悶する。
    第九の嚢 離間(りかん:仲たがいをさせること)者:不和・分裂の種を蒔いた者が、体を裂き切られ内臓を露出する。
    第十の嚢 詐欺師:錬金術など様々な偽造や虚偽を行った者が、悪疫にかかって苦しむ。

  • 最下層の地獄、コキュートスの手前には、かつて神に歯向かった巨人が鎖で大穴に封じられている。

  • 第九圏 裏切者の地獄:「コキュートス」(Cocytus 嘆きの川)と呼ばれる氷地獄。同心の四円に区切られ、最も重い罪、裏切を行った者が永遠に氷漬けとなっている。裏切者は首まで氷に漬かり、涙も凍る寒さに歯を鳴らす。
    第一の円 カイーナ Caina:肉親に対する裏切者 (旧約聖書の『創世記』で弟アベルを殺したカインに由来する)
    第二の円 アンテノーラ Antenora:祖国に対する裏切者 (トロイア戦争でトロイアを裏切ったとされるアンテーノールに由来する)
    第三の円 トロメーア Ptolomea:客人に対する裏切者 (旧約聖書外典『マカバイ記』上16:11-17に登場し、シモン・マカバイとその息子たちを祝宴に招いて殺害したエリコの長官アブボスの子プトレマイオスの名に由来するか)
    第四の円 ジュデッカ Judecca:主人に対する裏切者 (イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダに由来する)

地獄の中心ジュデッカのさらに中心、地球の重力がすべて向かうところには、神に叛逆した堕天使のなれの果てである魔王ルチフェロ(サタン)が氷の中に永遠に幽閉されている。魔王は、かつて光輝(こうき)はなはだしく最も美しい天使であったが、今は醜悪な三面の顔を持った姿となり、半身をコキュートスの氷の中に埋めていた。魔王は、イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダ、カエサルを裏切ったブルータスとカッシウスの三人をそれぞれの口で噛み締めていた。

マレブランケ(Malebranche)
地獄巡りをするダンテとウェルギリウスを案内しようとするバルバリッチャ率いる10名
パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=93481
氷地獄コーキュートスの最深層にいる悪魔大王(ディーテ)。『神曲』地獄篇を描いたギュスターヴ・ドレの連作の34番。
ギュスターヴ・ドレ - http://dore.artpassions.net/, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=19057による

2人の詩人は、魔王の体を足台としてそのまま真っ直ぐに反対側の地表に向けて登り、岩穴を抜けて地球の裏側に達する。そこは、煉獄山の麓であった。


煉獄篇 Purgatorio

ダンテ・アリギエーリ(1265-1321)作「神曲」第2番「インフェルノ」ベアトリーチェとヴァージル - ギュスターヴ・ドーア(1832-1883)画
Image source: Meisterdrucke


煉獄は、地獄を抜けた先の地表に聳える台形の山で、ちょうどエルサレムの対蹠点にある。「浄火」あるいは「浄罪」とも言う。永遠に罰を受けつづける救いようのない地獄の住人と異なり、煉獄においては、悔悟に達した者、悔悛の余地のある死者がここで罪を贖う

煉獄山の構造は、下から昇るごとに幾つかの段階に分かれている。亡者は煉獄山の各階梯で生前になした罪を浄めつつ上へ上へと登り、浄め終えるとやがては天国に到達する。

地獄を抜け出したダンテとウェルギリウスは、煉獄山の麓で小カト(マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス: Marcus Porcius Cato Uticensis:共和政ローマ期の政治家、哲学者)と対面する。

ペテロの門の前でダンテは天使の剣によって額に印である七つの P を刻まれた。

P は煉獄山の七冠で浄められるべき「七つの大罪」、Peccati を象徴する印である。そして、ウェルギリウスに導かれて山を登り、生前の罪を贖っている死者と語り合う。ダンテは煉獄山を登るごとに浄められ、額から P の字が一つずつ消えていく。

山頂でダンテは永遠の淑女ベアトリーチェと出会う。ウェルギリウスはキリスト教以前に生れた異端者であるため天国の案内者にはなれない。そこでダンテはウェルギリウスと別れ、ベアトリーチェに導かれて天国へと昇天する。


煉獄山の構造

  • 煉獄前域:煉獄山の麓。小カトがここに運ばれる死者を見張る。
    第一の台地 破門者:教会から破門された者は、臨終において悔い改めても、煉獄山の最外部から贖罪の道に就く。
    第二の台地 遅悔者:信仰を怠って生前の悔悟が遅く、臨終に際してようやく悔悟に達した者はここから登る。

  • ペテロの門:煉獄山の入口。それぞれに色の異なる三段の階段を上り、金と銀の鍵をもって扉を押し開く。

  • 第一冠 高慢者:生前、高慢の性を持った者が重い石を背負い、腰を折り曲げる。ダンテ自身はここに来ることになるだろうと述べている

  • 第二冠 嫉妬者:嫉妬に身を焦がした者が、瞼を縫い止められ、盲人のごとくなる。

  • 第三冠 憤怒者:憤怒を悔悟した者が、朦朦たる煙の中で祈りを発する。

  • 第四冠 怠惰者:怠惰に日々を過ごした者が、ひたすらこの冠を走り回り、煉獄山を周回する。

  • 第五冠 貪欲者:生前欲深かった者が、五体を地に伏して嘆き悲しみ、欲望を消滅させる。

  • 第六冠 暴食者:暴食に明け暮れた者が、決して口に入らぬ果実を前に食欲を節制する。

  • 第七冠 愛欲者:不純な色欲に耽った者が互いに走りきたり、抱擁を交わして罪を悔い改める。

  • 山頂 地上楽園:常春の楽園。煉獄で最も天国に近い所で、かつて人間が黄金時代に住んでいた場所という。


天国篇 Paradiso

第31歌、至高天を見つめるダンテとベアトリーチェ (ギュスターヴ・ドレによる版画、1867年)
ギュスターヴ・ドレ - Alighieri, Dante; [[w:Henry Francisigiigkv Cary|Cary, Henry Francis]] (ed) (1892年) "Canto XXXI" in The Divine Comedy by Dante, Illustrated, Complete、London, Paris & Melbourne: Cassell & Company Retrieved on 2009年7月13日., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=93403による

地獄の大淵と煉獄山の存在する地球を中心として、同心円状に各遊星が取り巻くプトレマイオスの天動説宇宙観に基づき、ダンテは、天国界の十天を構想した。

地球の周りをめぐる太陽天や木星天などの諸遊星天(当時、太陽も遊星の一つとして考えられていた)の上には、十二宮の存する恒星天と、万物を動かす力の根源である原動天があり、さらにその上には神の坐す至高天が存在する。

ダンテは、ベアトリーチェに導かれて諸遊星天から恒星天、原動天と下から順に登っていく。ダンテは、地獄から煉獄山の頂上までの道をウェルギリウスに案内され、天国では、至高天(エンピレオ)に至るまではベアトリーチェの案内を受けるが、エンピレオではクレルヴォーのベルナルドゥス(Bernard de Clairvaux/1090年 - 1153年8月20/12世紀のフランス出身の神学者)が三人目の案内者となる。

天国へ入ったダンテは、各々の階梯(かいてい:はしご)でさまざまな聖人と出会い、高邁(こうまい: 衆にぬきんでてすぐれていること)な神学の議論が展開され、聖人たちの神学試問を経て、天国を上へ上へと登りつめる。

至高天において、ダンテは、天上の純白の薔薇を見、この世を動かすものが神の愛であることを知る。

天国界の構造

  • 火焔天 :地球と月の間にある火の本源。焔が上へ上へと向かうのは、この天へ帰らんとするためと考えられた。

  • 第一天 月天:天国の最下層で、生前、神への請願を必ずしも満たしきれなかった者が置かれる。

  • 第二天 水星天:徳功を積みはしたものの、現世的な野心や名声の執着を断ち切れなかった者が置かれる。

  • 第三天 金星天:まだ生命あった頃、激しい愛の情熱に駆られた者が置かれる。

  • 第四天 太陽天聖トマス・アクィナスら智恵深き魂が置かれる。

  • 第五天 火星天:ダンテの先祖カッチャグイダをはじめとする、キリスト教を護るために戦った戦士たちが置かれる。

  • 第六天 木星天:地上にあって大いなる名声を得た正義ある統治者の魂が置かれる。

  • 第七天 土星天:信仰ひとすじに生きた清廉な魂が置かれる。

  • 第八天 恒星天:七つの遊星の天球を内包し、十二宮が置かれている天。聖ペトロら諸聖人が列する。

  • 第九天 原動天:諸天の一切を動かす根源となる天。

  • 第十天 至高天:エンピレオ。諸天使、諸聖人が「天上の薔薇」に集い、ダンテは永遠なる存在を前にして刹那、見神の域に達する。


『神曲』の評価

文学的評価『神曲』は、世界文学を代表する作品と評価されています。「世界文学」を語る際にはほぼ筆頭の位置に置かれ、古典文学の最高傑作、ルネサンスの先蹤(せんしょう:前の人や昔の人の事業の跡や前例)となる作品とも評されています。

特に英語圏では『神曲』の影響は極めて大きく、部分訳を含めれば百数十作にのぼる翻訳が行われ、膨大な数の研究書や批評紹介が発表されています。

ダンテ文献を多く蔵するアメリカのコーネル大学図書館では、ダンテ関連の文献だけで4冊の目録が作成されているほどという。

『神曲』は、執筆当時から様々な毀誉褒貶(きよほうへん:ほめたりけなしたりする世間の評判)を受けていました。ダンテとほぼ同時代に活躍したジョヴァンニ・ボッカッチョは、深くダンテに傾倒し、最初の崇拝者となりました。ボッカッチョは『神曲註解』『ダンテ礼賛』を著してダンテを顕彰(けんしょう:功績を世間に明らかにし表彰すること)し、後には『神曲』の講義も行っています。一方で、ダンテによって地獄に堕とされた人々の子孫や関係者たちは、当然ながら『神曲』を快く思っていませんでした。また、ダンテの正義、倫理観に反する者は、たとえ教皇であろうと容赦なく地獄に堕として責め苦に遭わせたため、この点を反教的と批判する者もいました。

ルネサンスが終わりかけに入る頃、ダンテも『神曲』もほとんど言及がなくなります。例えばフランスの古典主義文学は完全に『神曲』を無視して成立しています。

『神曲』の中には様々な書物からの引用があります。中でも聖書が最も多く、次にアリストテレスやウェルギリウスなどの哲学や倫理学、詩が多用されています。

また、当時の自然科学における天文学、測量学などの知見を素材として論理的・立体的に構成されていることから、中世における百科全書的書物であるとも評価されていました。さらに聖書の伝説、ギリシャ神話やローマ神話の神々や怪物も多数登場し、古典文学の流れを引く幻想文学の代表作とも言えます。


『神曲』の影響

イタリア国内

  • トスカーナ方言で書かれた『神曲』の文体が、現代のイタリア語の基礎となりました。方言問題や、俗語と文語について説いたダンテの『俗語論』の影響も大きい。

  • イタリアにおいてダンテは国民的詩人とされ、イタリア文学の基となるとされています。また、高等教育において、全歌、深く突き詰めて学習されています。

  • 欧州連合の共通通貨ユーロは、片面に各国ごとの独自デザインがなされていますが、イタリアの最高額2ユーロ硬貨には、ダンテの肖像(ラファエロ原画)が採用されています。


芸術・文学

  • 数々の芸術作品に『神曲』のイメージが使われています。ミケランジェロは、『神曲』地獄篇に霊感を得て、ヴァティカンのシスティーナ礼拝堂に、大作「最後の審判」の地獄風景を描いています。

  • オーギュスト・ロダンの有名な彫刻「考える人」も、そもそもは地獄篇第三歌より着想された「地獄の門」を構成する群像の一人(恐らくはダンテ自身)として作られたも。

  • ボッティチェッリ、ウィリアム・ブレイク、サルバドール・ダリ、ギュスターヴ・ドレら芸術家が『神曲』の挿絵を描いています。

  • チャイコフスキーは、『神曲』中の絶唱とされる地獄篇第五歌に歌われた、フランチェスカとパオロの悲恋を題材として、幻想曲『フランチェスカ・ダ・リミニ』を作曲しています。

  • フランツ・リストは、『神曲』の構想をもとに『ダンテ交響曲』を作曲しました。ただし、天国を描写するのは不可能ではないか、とのリヒャルト・ワーグナーの意見に従い、煉獄を描いた第2楽章の終結部で天国を象徴する「讃歌」を置くに留めています。ピアノ曲としては『神曲』の地獄篇におけるすさまじい情景を描写した『ソナタ風幻想曲「ダンテを読んで」』(『巡礼の年 第2年』)を作曲しています。

  • ジャコモ・プッチーニの3つの一幕物のオペラ三部作より第3部「ジャンニ・スキッキ」は、『神曲』の地獄篇でほんの数行程度で語られるに過ぎないが、その一節に登場する同名の人物を題材にしています。

  • ボッカッチョはダンテに傾倒し、『神曲』の注釈書やダンテの評伝を残しています。のちにはフィレンツェで『神曲』の講義を開いっています。彼がもともと『喜劇』と題された作品に『神聖なる』の形容を冠し、そこから『神曲』の書名が始まりました。また、ボッカッチョの代表作『デカメロン』は人間模様を赤裸々に描写したことから、『神曲』ならぬ『人曲』とも呼ばれています。

  • T・S・エリオット、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、ジェイムズ・ジョイス、ヘンリー・W・ロングフェローら世界中の文学者にも影響を及ぼし、ロングフェローのように自ら翻訳を発表した者もいます。

  • ドイツの古典主義作家ゲーテの代表作『ファウスト』の世界観も『神曲』の影響を色濃く受けているといわれています。また、『ファウスト第2部』第1幕における主人公ファウストの独白部分は『神曲』と同じTerzineの韻律であり、ゲーテが『神曲』を意識して書いたことが見てとれます。しかしゲーテ自身は1826年にダンテについての小論を書いていますが、「ダンテの地獄に生える青カビを諸君の世界から遠くに追い払い、澄み切った泉に恵まれたる天性と勤勉を招け」と批判しています。

  • アレクサンドル・デュマは『モンテ・クリスト伯』の主人公の名字をダンテスにしたが、これはダンテに由来するとされています。

  • 夏目漱石は、短編『倫敦塔(ろんどんとう)』で、貴人が幽閉され消えていった倫敦塔と重ねて、地獄の門に刻まれた銘を引用しています。

  • 大江健三郎は中期の作品である『懐かしい年への手紙』において故郷でダンテの研究を行う”ギー兄さん”を登場人物としています。またこのギー兄さんについて大江は「自分がそう生きるべきだった理想像」として語っています。

  • 中原中也は『神曲』を愛読しており、彼の詩に『神曲』の影響を見て取る者もいます。

  • 大西巨人の代表作『神聖喜劇』の題は『神曲』の原題を意識した命名。また、オノレ・ド・バルザックは、自らの作品集を『人間喜劇』(La Comédie humaine)と名づけたが、これもダンテの“神聖喜劇”に対するもの。

  • 宮崎駿の『君たちはどう生きるか』は一部『神曲』をモチーフにしているかも。

  • トマス・ハリスの著による『ハンニバル』シリーズの登場人物であるハンニバル・レクターはダンテに対して類稀な興味を寄せている。

最後の審判
ミケランジェロ・ブオナローティ - See below., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=16143987による


フランツ・リストのピアノ曲《ダンテを読んで》


ウェルギリウス

ウェルギリウス
Giorces - 自ら撮影, CC 表示 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2266859による

プーブリウス・ウェルギリウス・マロー( Publius Vergilius Maro、紀元前70年10月15日- 紀元前19年9月21日)は、ラテン文学の黄金期を現出させたラテン語詩人の一人です。共和政ローマ末の内乱の時代からオクタウィアヌス(アウグストゥス)の台頭に伴う帝政の確立期にその生涯を過ごしました。。『牧歌』、『農耕詩』、『アエネーイス』の三作品によって知られています。ヨーロッパ文学史上、ラテン文学において最も重視される人物。ヴェルギリウスと表記されることもあります。


テルツァ・リーマ

テルツァ・リーマ(Terza rima, 三韻句法)は、押韻(おういん:韻を踏むこと)したverse(韻文、詩)のスタンザ(連、詩節)の形式で、3つの連動した押韻構成から成り立っています。最初に使ったのはイタリアの詩人ダンテ・アリギエーリ


地獄の門

(仏: La Porte de l'enfer)は、叙事詩に登場する内容、及びそれをテーマにして制作されたブロンズ像です。

オーギュスト・ロダン(1840-1917)の未完の作品に、「地獄の門」をテーマとして制作された、巨大なブロンズ像『地獄の門』があります。「考える人」はこの門を構成する群像の一つとして造られたもので、単体作品としても独立して高く評価されています。このロダン作「地獄の門」は、上野恩賜公園の国立西洋美術館、静岡県立美術館をはじめ、世界に7つが展示されています。

地獄の門(ロダン作)(国立西洋美術館)
夜の地獄の門はもっと雰囲気があります。


オーギュスト・ロダン
パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=788446



ダンテの家系のワイナリー

ダンテの家系は現在に至るも存続し、ワイン業「セレーゴ・アリギエーリ」(Foresteria Serego Alighieri)を営んでいます。



ダンテを楽しむ映画、小説『インフェルノ』


参考書籍

読むのがしんどい神曲を読みやすく解説してくれている阿刀田さんの著書。


本家はどうしたってしんどいです。


まとめ

ダンテと彼の神曲をざっくりしっておくと何かと楽しい。


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参照

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