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広告の異常さについて〜写真と短いエセー

ある時、ふとテレビ広告にカメラを
向けてみた。そこには、雑然と
物が置かれた部屋の断片と
異常なまでに目を惹きつける
広告があった。

というわけで、今回は、少しこういった私達にとってありふれた、かつ、人工的で自然な経験について所感を綴っていきたいと思います。

わたしたちはふだん、あらゆるものをみききしあらゆる情報を得ます。その中で、広告はその自然的な感覚経験を超越し、商品や企業に対する様々な情報やイメージなどを「直感」的に伝えます。

しかしながら、この広告が、余りもの多様性に富む時、人々は情報の渦に巻き込まれ、理性を働かせて判断する気力を失うように感じます。もちろん、目にとまるような広告がいくつかであり、たった一つであったとしても、その衝撃性は、私たちの思考による選択を歪めるような気がするのです。

 私個人は、写真を一つの仕事として考えつつも、哲学を実践しつつ生きることを志す者として、この写真という、視覚的広告の比重の多くを占めるものどのように捉えていけばいいか?という疑問に常にさらされています。

人々は、写真のもつ、明晰性と緻密性と豊かな階調、そして鮮やかさと迫力を追い求め、進化させようと努力してきたように思います。そうして進化した写真を見るとき、どこかそれを気にせざるを得なくなり、そして知的で理性的な気概が、感性的と言いつつどこか官能的な画像を生み出すことに向かい始めるような気がします。

 私はこれを、善悪という基準で判断したくはないですし、理性主義を唱えることもありませんが、ただこうした「異常さ」という人々の趣向やフェティシズムの煮凝りに、ややもすると気持ち悪さを覚えることがあり、ひいては、アート文脈での資本的価値闘争に反感を覚えたりもします。

 まあとはいえ、その先の理想的な解答を私はまだ知りません。ですが、ユートピアが、現実のトポス(場所)の否定であるように、私にとってのそれは、こういう異常さの否定であるのでしょう。しかしながら私たちは、弁証法を知る以上、その対立との批判的継承をも視野に入れなければなりません…。

 感じるままに綴ったところで、今回は以上です。それではまた。


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