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夏を語らう

蒸し暑くかったるい。しかし心地の良い7月中旬土曜の午後である。仕事の終わりに水筒にしこたまいれた天然水をビール如くごくごくと喉をうならせ飲んでは、窓の奥に発達しつつある積乱雲を臨んで一口ぐびと飲み干した。日除けに遮光カーテンは閉め切り、薄暗い一室にてふつふつと乗っ取り始めた夏の思考に、まんまと落ちて今日も夏の記事を綴ってゆく。

鹿田です、よろしく。

エアコンの音が部屋に響く。そしてその周囲をひぐらしが囲む。夏という空間に僕は居心地よく座っては、揺れている。前後左右に揺れては響く夏の音色に染まっていく。夏とはなにより、人の踊る暑い季節であるが、その踊りたくなる動機は夏が頂きに向かうに連れ激しくなっていく自然の音たちに違いはない。ふと気を散らしても、なにかしら音はするし、黙りこくろうと肩を落としたときさえ彼らは適当に騒ぎ立て、僕は結局笑みを漏らす。そして火照た体が冷水を欲し、いそいそとビールを取りに台所へと行けば、縁側でチリンと風鈴が揺れる。

春夏秋冬それぞれに風情はあるが。しかし正真正銘の風情とは、それはやはり夏にしか無いのではないかと思う。脚色された秋の風情は些か落ち着かないし、冬とてどこの誰だか知らぬが完全なるデメリットをメリットに祭り上げ「荘厳」などと宣う。(宣うトラウマは果たして克服できるか)春は命の芽吹きだなんだと言うがそれは冬に毒された結果、なんでもかんでも優しく感じてしまう、愛しく感じてしまう二次障害に違いない。

そんな浮かれた春からやっと目が冷めた頃やってくる夏こそが、正真正銘の、唯一の風情を持つ季節なのである。裏山で鳴いている蜩のあの美しさを目の前にして、だれがそれを否定できる?

え?でも蜩は鳴いてはカニ歩き、鳴いてはカニ歩きする、実際は滑稽な動作の蝉ではないかって。そんな事言う君は、蜩がなくたびその姿を目にしているのか?夏を実際目にしたことがあるのか?無いならそんなこというな、興ざめだ。それにそんな細かいことは、夏に一切不要なのだよ。夏にはせいぜいシステム1だけを開放し、思いのままに生きるべきだ、直感を信じよ、夏にいるという体感ですべてを満たせ。勿体ない。

今日も日中仕事で車にてあちこちに出歩き、休憩に公園にも寄ったが、自然公園であればもう蝉は1本の木に10匹はいるのではないかと思うほどの勢いで鳴き盛り、そして確かに根元に生えた雑草の葉裏にはいくつもの蝉の抜け殻があったりして、すっかり夏だなと思った鹿田であった。広場では子どもたちが汗を全身から吹き出しても満面の笑みで駆け回り、そして殆どの子どもが片手に虫取り網を持っていた。オニヤンマも知らんぷりしながらつ~っと、少し高いところを一直線に飛んでいき、僕はトイレに立ち寄る程度の時間であったが、すっかり夏に満たされてご満悦だった。

僕とて、仕事さえないのなら、仕事をしなくても不自由しない財力があるのなら君たちと一緒に虫撮りに駆け回るのになあ。そんなことを一瞬で蒸し風呂となった社用車に乗り込んで思ったが、暑さに耐えられずすぐエアコンを全開にした僕と彼らの間には、もう随分と分厚い見えない壁があるように思えたが、そんなもの、気分次第で取っ払えるのである。僕は明日虫撮りに行こうと思ってるし。

さて、誰も気づかぬと思うが(当たり前だが)僕はこの記事の後半は家に戻ってから書いている。そろそろ風呂に入って汗を流し、美味しいビールを飲みたいと思ってきた頃だ。そう思って、そちらに気を取られてから書く文章はすべて蛇足、駄文にしかならぬと思うので、今日はここで清々しく終わりにしたい。

また、夏を共に語らおう。


では。


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