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サークルリポート2

はじめに


さて久方ぶりのサークルリポートである。月イチ更新を心がけているこの記事、夏バカ鹿田らしからず、色々事前に準備したりと本記事よりも力をかけているところがある。本来なら昨日アップする予定であったのだが、なぜ本日になってしまったかというと、そのことはTwitterで呟かせていただいた。

公開直前で、記事が消滅したのである!投稿ボタンを押すとタイトルを記入してくださいと注意文が現れ、はてつけたつもりだったがなと訝しがりつつもつけ直し、投稿しようとしてみれば、記事が真っ白ではないか!!

さすがの僕も愕然とし昨日再作成する気にはなれなかった。ま、大凡のことは覚えているので気持ち改め記事を書き上げていきたい。


今回も前回述べたようにソフト面を中心に書くことにする。といいつつ少しは勉強しなくてはと道路交通法をかじる程度に読んだ。サラッと読んだだけでもいろいろ興味のある文章がでてきた。

調べてみた!

ここで皆さんに質問。
道路交通法の1章は総則(主に道路・車道についての規定を記している)なのですが、果たして2章は何について書かれているでしょうか?

チクタクチクタクチーン!⏰


答え:実は2章には「歩行者の通行法」について書かれているのである。

僕は先に運転者の法律がくるものと思っていたから些か驚いた。ま、しかし考えてみれば歩行者のほうが絶対数は多いのである。
歩行する人で運転をしない人はいるけれど、運転をする人で歩行をしない人はいない。そういう意味ではなんとも納得のいく話である。

道路交通法の中に記される法律の数は、もちろん歩行者に関する法律より、絶対的に運行に関する法律が多い。

その理由は単純に
・歩行者は交通弱者であり危険を起こす可能性が低い
・車は交通強者であり危険を起こす可能性が高い

その違いが理由であることに間違いはないだろう。もしも地球人がみなサイヤ人なみの超強靭な肉体を持っていたならば、その世界では歩行者に対する法律のほうが多かったに違いない。(その世界なら車も比例して強度が上がっているはずだろうだなんて、頭の良いツッコミは置いておいて。)

何が言いたいかというと、ようするにだから歩行者のルールは少ないというだけで、この法律の本質は、歩行者運転者すべてひっくるめて人が幸せになるためのものなのだ。

思いやり


ここで前回の鹿田のサークルリポートを思い出してほしい。

前回の記事では最終的に、交通安全の世界を実現するためには、お互いの思いやりが大切なのだ、というなんとも当たり前の結論に至った。
しかしみなさん、思いやりとはなんだかご存知だろうか?

辞書で引いていると

他人のために気遣ったり同情したりする気持ち。

weblio 辞書

と書かれている。

なかなか他人のことを知ったつもりでいてもそれが氷山の一角であった、などということはだれもが一度や二度経験したことがあるのではないだろうか。

例えば会社の同僚がいつもクソ真面目でいちいち小さいことを注意してくるホントにやなやつだなあと思っていたけれど、飲み会の席では泣き上戸で笑ってしまった。本音を聞いたら良いやつだった、なんて。

その人の本質を知らないと、本質とは言わなくとも全体像を知らないと、その人の身になって考えることは難しい。

運転者であれば兼歩行者でもあるから双方の認識を持つことはできるが、運転をしない歩行者は、なかなか運転者の気持ちや認識というものが理解しがたいのは仕方のないことに思われる。

が、しかし奇遇なことに運転者は個人ではなく全体像なのである。個人の本質など友達になってやっと見えてくるところであろうが、運転者とは同じようなことをやっている人がほとんどである。まず車に乗らずして運転者とは呼ばれないのだから。身近に運転する人がいるなら聞いてみるのが一番だ。

あくまで例であるが、いくつか鹿田視点で上げてみよう!

EX①歩行者への思いやり
 ・信号のないところでも横断歩道を渡る人をみつけたら停まるね。
 ・近くに歩行者がいたら速度落とすね。
 ・雨の日は水たまり弾かないようにゆっくり走るからね。

EX②運転者への思いやり
 ・車と車の間とか、運転者の見づらいところは歩かないよ。
 ・細い道では1列になって歩くからね。
 ・ちゃんと車の動きを見て横断歩道渡るよ。

うむ、なんとも有り前の話をしているようであるが、意外と当たり前とは当たり前になりすぎて見落とされがちなのである。それは個々人のことと捉えている証拠であり、自身も顧みて交通とて社会の一部と他人を意識してみたならば、また別の世界が見えるかもしれない。

また何度も表紙を触れた程度の関わりでお呼びして申し訳ないが、アドラー先生曰く人の幸せとは極論、貢献なのである。交通ルールに従うという認識よりか、周りの人の役に立つ行動を、運転者も歩行者もすることでそれは素敵な世界に変わっていくのでないかと、楽観的だが願いも込めて僕は思う。

凶器

車は凶器である。しかし人とて、心次第で凶器になりうる。不幸の凶器にもなれば幸福の響喜にもなろう。

我々は影響し合う。
すれ違った人の寂しそうな顔で一日が憂鬱になる繊細な心もある。

我々は影響し合う。

横断歩道を渡る子供らがにこにこと夏の太陽みたいな笑顔を見せて通っていくと僕の心までぽかぽかしていく。

我々は影響し合う。

みんなだれもが大切な社会の歯車である。みんなで幸せになれるならそれが一番だ。


最後に

交通安全という尊いテーマを扱うにあたっていつも、僕は及び腰になりながらも自分のためになるとかなり真剣に記事を書いている。いつもは笑いながらへらへら記事をかくので、その対比にサークル記事を書き上げたあとは圧倒的な疲れがやってくる。でもきっと、それくらいじゃないと書いちゃだめなんだと思うから。ま、ただの自分よがりかもしれないが。

僕たちは今どうしても世界の平和を願わずにはおれない日々にいて、そんな気持ちの強張りに、(他にも昨今の天変地異だったりと)兎にも角にも不安定だけれど。交通安全とか、隣の人、とか
、触れれられるものでいいから、守って、貢献して、それが伝播して少しでも風が浄化されたならいいなと思うのだ。いつも文章エゴイストだと公言している僕が言っても巧言令色にしか聞こえないかもしれないけれど本心さ。平和な世界じゃなきゃ、適当も保てない。

ま、これ以上伸びれば伸びるほど蛇足にしかならんと思うので、今回はここまで。

またね。




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