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吃音な僕は書くことが1番伝えられた

小さい頃、祖母から言われた言葉がなぜか今でも忘れられない。

「もっとゆっくり喋ってみい」
優しい言葉でそう言ってくれた。

でもその言葉が僕には辛かった。
当時は何も思わなかったが、そんな何気ない言葉が今まで残っているのは何かの感情が強く残ったからだと思っている。

そしてその感情が良いものではないと気付いたのもここ何年かのことように感じる。

頭の中に話したいことは浮かんでいる。
でも口から出ない。
出そうとすると口が固まってしまう。
詰まってしまう。

そんなときに母がいつも言ってくれた「頭の回転が早いから言葉が出ないだけよ」
そのときはただの慰めだとあまり受け止めていませんでした。

ですが、一説によると吃音は、頭の回転が早いために言語機能が追いつかないということがあるそうです。

また文章を読んだり、書いたりする能力も高いということも書かれてありそれだけでなんだか救われたような気分になりました。

宿題で出された作文が学級新聞に載ったあの日。
思えばあの日から文章を書くことの楽しさを感じていたのかもしれません。

そして中学生の頃に出会った、小説。
共感に次ぐ共感で、こんな言葉を自分でも書いて共感されてみたいと思ったあの日。

高校生の頃に出会ったラブソング。
悲しみ、辛さに寄り添ってくれるこんな歌詞を書いてみたいと思ったあの日。

何度も言葉の持つ力に驚き、救われてきました。

そんな僕が今こうやって文章を書いているのはもしかしたら必然だったのかもしれません。

話すより書く方がすらすら伝えられるし、話すことでは恥ずかしいことも書くことでは伝えられる。

そして人前に出るのは苦手だけど、認められたい僕には書くことはうってつけでした。
TikTokやインスタで「救われました」や「前向きになれました」などの言葉を頂くたびに、泣きたくなるほど嬉しくなります。

誰かの役に立てるということを今は承認欲求で片付けてしまいがちですが、そんな穿った見方なんて気にならなくなるほどやっぱり誰かの役に立てるのは嬉しい。

それで自分のことが好きになれるとかそんなんじゃなく、見えない誰かに届いている、そんな実感が出来ることに嬉しさを覚えます。

多分形は変われどこれからも書いていくと思います。

そのときに感じたこと、貰った感動、1人では抱えきれない辛さ、悲しさ色々。

そんな積み重ねを後から見返したとき、自分のことを少しでも愛しいなんて思えたら幸せだなとも思います。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

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