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文芸雑誌に鴻巣友季子さんのブックレビューが載っていた。

今日、梅田に来たキッカケは西村賢太の長編であり遺作の『雨滴は続く』を読み始めたこと。
まだ最初の方だが、文学雑誌の名前がいくつか出てきて、それにまつわるあれこれのエピソードが書かれている。読んでいるうち、なんだか初めて読書に触れて、稚拙ながら文章を書き始めたころのことを思い出していた。
作中の主人公は38歳、同人界隈では若いと言われていたが、商業誌に書く段になっては遅咲きと言われた旨のことが書いてある。この文章を書いているわたしは30歳、1993年産まれである。
若いと言われるかは場所によるが、多くのところでもうおじさん扱いをされるようになってくる歳。
いつかは小説を書いてやろう、と、もう10年くらい思っているが、いまだに30枚を越えるような短編すら書けていない。
西村賢太の文章を読んで、焦りを感じた。
急がなせれば、と。
なので、すこし立ち止まってみることにした。
あれこれと、なんでもやってみる期間は過ぎたのだ、と思う。いままで、ああだこうだと色々思いついては、挫折して、その繰り返しのここ数年間だった。
だから思い付きで何か始めるのはやめてみよう。
一旦立ち止まって、自分に何が必要で何がいらないか、考えてから動こう。
その方が却って近道だ。
とりあえず変わったことはせず、亀の歩みで、ユックリでいい本でも読もう。
そんなふうに思った。

そうそう、文芸雑誌の話だった。

本当は西村賢太の作中に出てくる雑誌を買おうと思って梅田に来たのだが、茶屋町のジュンク堂の棚を見るといくつかの文芸雑誌がある。
何冊か手に取って、目次を読んで、「小説トリッパー」という雑誌に鴻巣友季子さんがブックレビューを書いているのを発見した。
鴻巣友季子さんといえば、JM・クッツェーの『恥辱』を翻訳された方だし、同著の解説で、わたしのいちばん影響を受けた作家であるフランツ・カフカについてもすこし言及していた。
この雑誌に載っているのは長嶋有という作家の本へのブックレビューらしい。この作家は読んだことはないが、鴻巣さんのレビューは、文芸雑誌に載るようなレビューなら当然なのかもしれないが、作品と言葉に真摯に向き合った丁寧なものだった。
ここ最近、SNSやネットニュースなどの活字しか読んでいなかったので、この鴻巣さんの姿勢がとても新鮮で、且つ、文章を読む、文章を書く、というのはこういうことだよな、と確認させていただいた。

ともかく、一旦立ち止まり、落ち着いて考えて、その上で判断して、すこしずつ、本を読む、文章を書く、考えるということに打ち込んで行こうと思う。

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