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VRChatは令和の「萌える都市」なのか


「趣都の誕生〜萌える都市アキハバラ」が刊行されてから20年が経過した。
時代の流れとともに変わっていくアキバという街、そしてオタク文化に思いを馳せながら、なぜ人々は現在VRChatに惹かれ、そして仮想現実は今後どこに向かっていくのかを考察する。

1.はじめに

言うまでもなく秋葉原は「オタクの街」だ。

戦後間もないころ、電気部品を扱う露天商が秋葉原の高架下に集ったことによって成立した電気街が、次第にサブカルチャーの街になり、やがてオタクの聖地となっていった都市である。

私は関西人なので、もっぱら大阪日本橋のオタロードに足を運んでいて、私にとって秋葉原は馴染み深い街ではなかったのだけれど、東京に行ったときはオタク仲間を引き連れて必ず秋葉原を探索しに行った。
秋葉原には全国のオタクを魅了する不思議な魔力があったと思う。

私が秋葉原に初めて訪れたのは高校生の頃であったが、その時の秋葉原は街全体がどことなく窮屈で、鬱蒼とした雰囲気を纏っていて、窓のない7階建てのアニメイトの店内を、落ち着かない気持ちが半分、興奮が半分といった感じで歩いたのを覚えている。

2.「外延された個室」と化した都市

秋葉原という街がそうした雰囲気を纏っているのは当たり前のことであった。
建築物には基本的に外部の光を取り込むための窓が設けられているが、秋葉原においては、そうした開口部がことごとくアニメキャラクターのポスターで埋め尽くされており、内部空間は通路の幅も惜しいというような様子で所狭しと商品が並んでいるのである。
そのため、建物に一歩足を踏み入れれば洞窟のような空間が私を包み込んだ。

オタク諸氏はこのような物が雑然と並び、壁面がポスターに支配された薄暗い空間に身に覚えがあるだろう。そう、それはまさに「オタクの部屋」そのものなのだ。「電車男」で度々映り込む、「オタクたちの趣味嗜好で埋め尽くされた部屋」が街全体を覆っている異様な光景がそこには広がっていた。

一般的な都市は行政、または企業の主導によって育っていく。
「趣都の誕生」では、行政の副都心計画によって形成された西新宿と、鉄道系大資本の東急が主導となって開発がなされた渋谷が例として取り上げられていたが、秋葉原はそうした行政・企業によって開発された都市ではなく、オタクという「個人」によって作られた街である。
つまりは、その土地に偏在した「個人の趣味」その需要を満たすために、ある種では場当たり的に形作られた都市であるということだ。

この構図は、奇しくも当時オタクたちの興味関心を席巻した、「ヱヴァンゲリヲン」や、「涼宮ハルヒ」、「ほしのこえ」のような
「自分たちのミニマルな関係性が、国家や国際機関などの具体的な中間項を挟むことなく世界の在り方そのものを変容させる」というセカイ系の作品と重なるところがある。

オタクたちの「趣味」は、彼らに与えられた、世界を変革させるためのツール、つまりはヱヴァンゲリヲンだったのかもしれない。

3.光からの逃避

オタクの部屋は薄暗いイメージがある。
(正確には「かつてそういうイメージがあった」と言うべきだろう。)

それは単に「アニメやゲームをする際のディスプレイの視認性のために環境光を排除したいから」という理由でそうなったものではない。

オタクが自室によって遮断したものは、物理的な光だけではなく、我々を取り込もうとする、メインカルチャーという名の光であったのだ。

言うまでもないことだが、アニメや漫画、ゲームといったコンテンツはサブカルチャーと呼称されるものであり、メインカルチャーではない。

今でこそ、こうしたオタク文化というものは一般的に市民権を得ているものであり、サブカルチャーとメインカルチャーの垣根は失われつつある。
しかし00年代当時、世間がイメージしていたオタク像といえば、まさに「電車男」で描かれた「パソコンを使って、2ちゃんねるというアングラ感漂うコミュニティに齧り付き、ネットミームなるよく分からない言葉を使って話す人たち」であった。

そうした世論が蔓延する中で、それでも尚メインカルチャーには目もくれず、アニメや漫画などのサブカルチャーを嗜好し、それに没頭するオタクというのは、現在よりもっと権威や、既存の社会構造に対しての反発的な思想が強かったように思う。

「趣都の誕生」ではこうしたオタクたちの反権威的な趣味嗜好が「内向的」という言葉で表現されていた。
内向的とはつまり、上位の文化的権威(メインカルチャーや社会構造)に自らが染まるのではなく、それを自己にとりこみ、自分の趣味の表現のために服従させることによって、自分色に染めてしまうという意識であり、
そうした意識を根底に抱えた人々が「オタク」である。ということである。

私が青春時代を過ごした10年代初頭にも、そうした反政府的、または社会へに対しての反発的な思想は、思春期特有の反骨精神と絡み合った上で、私たちの中に根強く残っていて、クラスの中心でファッションやテレビの話題に沸くクラスメイト達を横目に見ながら、教室の隅でオタク仲間たちとオタク談議に花を咲かせたものである。
当時私たちの話題の中心にあったのはVOCALOIDであったが、「初音ミク」という存在もまた、音楽というメインカルチャーを、換骨奪胎させ、オタクたち自身の色に染めるためのツールとしての側面があったように思う。
また、そうしたVOCALOID楽曲の中でも、私たちを熱狂させたのは「カゲロウプロジェクト」だったが、「カゲロウプロジェクト」はまさに大人や社会という、少年少女から分かりやすく見える「理不尽」への反発という主題を持った作品群であった。

そうした、「内向的」な思想を根底に抱えたオタクたちにとって、彼らの自室というものは、「サブカルチャーに心置きなく没頭するための空間」であり、それは外界(メインカルチャー)と自身を隔絶するためのシェルターとしての機能を孕んでいる。

「serial experiments lain」で描かれたのは、リアルワールド(現実空間)とワイヤード(インターネット)の境界線が曖昧になっていくにつれて、まるで意思のある生命体のように部屋を侵食していくコンピューターとその周辺機器だったが、オタク達の部屋もまた同様に、彼らがサブカルチャーという虚構の世界に没入していくほどに、その室内空間は外界、そしてメインカルチャーとの隔絶を強めていくのである。

4.資源化した趣都~漂白される都市アキハバラ

前章で語ったような、「内向的」な人種であるオタクたちが集う街である秋葉原が、キャピタリズムの権化たる行政や企業によるものではなく、オタクの個人の趣味嗜好によって形作られたのは必然であったといえる。

しかし、そんな秋葉原も時代ともに変化し、コアなオタク達は次第に秋葉原という街から離れていくこととなる。
そして、現代に至って、秋葉原は再開発の岐路に立たされることになる訳だ。

では何故、オタク達は秋葉原から去っていったのか。
そこには大きく2つの理由がある。
それは「インターネットの発達」と、「サブカルチャーの資源化」だ。

そもそも、70年代後半から00年代初頭にかけての秋葉原は「世間一般からは理解されない趣味を共有する者たちが、情報と物品を求めて集まる場」であった。
パソコンパーツや美少女アニメのフィギュアを買い漁り、ニッチなアニメ作品について各々が熱い持論を展開する。
言うなれば、秋葉原は「東京」という教室の隅であったのである。

しかし、インターネットの発達によって、人々がオンライン上でコミュニケーション取ることが一般化していくにつれて、そうした街の状況は変化を見せていく。

インターネットを利用したオンライン上でのコミュニケーションというものは、シェルターである自室に籠って、外界と自身を隔絶しながら情報を享受できる革新的なものであり、その性質が内向的なオタクたちにと非常に相性が良いものであった。
ここに加えて、インターネットが持つ高い匿名性という性質もまた、外界と自信を遮断したいというオタクたちの欲求を満たすことに大きく寄与しただろう。

また、ネット通販の台頭というのも無視できないファクターである。ネット通販は店舗型のビジネスモデルと比較して人件費や家賃等にコストが掛からないことから、実際に店舗に赴くよりも安く物品を購入できるといったケースを頻発させ、結果的に、「買い物に赴くこと」そのものの価値を失墜させていった。

このように、インターネットは、秋葉原が誇った「モノと知識の集積地」としてのアドバンテージを急速に食い荒らしていったのだが、
一方で、インターネットが発展しただけならば、秋葉原はオタクが集まる場所として一定の価値を維持し続けられたのではないかと私は考えている。

というのも、インターネット上でのコミュニケーションは、現実世界でのコミュニケーションと比較して質的に劣化するということが様々な研究によって示唆されているし、ショッピングについても、実際に現地で実物の商品を見て、そして店員のアドバイスに耳を傾けた上で、検討を重ねてから物品を購入することの価値は決して失われるようなものではなかったからだ。

ここで問題となるのが、2つ目の理由である
「サブカルチャーの資源化」だ。

元来は反体制的な思想と親和性の高いサブカルチャーだったが、それは多くの人を魅了し、急速に市民権を得ていった。
そして、ファンを増やしていくのに伴ってサブカルチャーは皮肉にも莫大な市場価値を生み出すこととなる。
その結果、オタク向けコンテンツというものは巨大なマーケットへと成長を遂げ、キャピタリズムの渦中に飲み込まれていったのだ。

そう、肥大化した市場は案の定行政と企業に目をつけられてしまったのである。

政府は、アニメや漫画などのサブカルチャーを日本の和食や伝統芸能と並列して、「我が国が誇る」文化であるとして海外への輸出を図り、
企業は、メイド喫茶や、大型家電量販店、サブカルチャー原作の「萌え」を重視したパチスロ機など、様々な形態でマーケットへ参入していった。

一方で、こうした大資本の流入によって、秋葉原に点在したある種アングラ的な雰囲気を纏った小規模な店舗は急激にその姿を減らしていくこととなる。

そして、そうした店舗が街頭から駆逐されるのに伴ってコアなオタクも同様に秋葉原という街から数を減らしていくのは、もはや必然であったと言えよう。

こうした「サブカルチャーの資源化」はオタク文化を「萌え」という枠組みでステレオタイプ化させ、秋葉原という街を、そうしたステレオタイプ的な「萌え」を求める観光客(国内旅行者やインバウンドによる顧客)をターゲットにした街へと変化させていった。
(※もっとも、ステレオタイプ化した「萌え」を享受するために秋葉原に訪れる観光客もまた、世間一般の常識から考えれば「オタク」に分類されるのだろうが、本記事でいうオタクの原義からズレるため、本質的に別のものとして扱う)

このような、オタク達の手によって生み出され細々と育まれた環境が、資本主義に目をつけられるや否や、カネの力によって無惨にも食い荒らされる構図は、さながら日清戦争に敗れた中国の利権が、列強諸国、ひいては帝国主義にピザのように蹂躙され、国家そのものが欧米化の一途を辿った歴史を思わせた。

こうして、「インターネットの普及」と「サブカルチャーの資源化」によって、秋葉原はオタクがニッチな商品と情報を調達するための都市ではなく、国内外の観光客が「萌え」という文化を感じるために訪れる、ある種で「アミューズメント的」な空間になった訳だ。

そして時は流れた2020年、秋葉原という街は再度致命的な打撃を受けることとなる。

この打撃の正体は言うまでもないだろう。COVID-19、つまりは新型コロナウイルスの感染拡大だ。これにより秋葉原は観光客というメインの顧客を一挙に喪失することになった。

その結果が、昨今秋葉原で巻き起こる閉店ラッシュであり、その影響は、空きテナントとなったビルから、壁を覆っていたアニメキャラクターのポスターが取り外されることによって、漂白されていく都市景観として視覚化しているのである。

5.私たちはデジタルに未来を見た。

インターネットの発展が、オタクたちの「アキバ離れ」を引き起こす一因となったことは前章で述べた通りであるが、インターネット、あるいはパソコンというデバイスは、オタクたちにとって、単に「自室に居ながら情報を得られるツール」であるという以上の価値を持ったプロダクトであった。

なぜならば、パソコンというツールそのものが、オタクと同様に、「既存の社会構造に対して反発的」な思想を根底に抱えた存在であったからである。

そもそも、コンピューター(※「パソコン」ではない)はオタクが持つ内向性とは真逆の、中央集権的、あるいは国家主義的な思想をその内に抱えたものであり、上位の文化的権威を象徴するプロダクトであった。

そのことはコンピューターの出自を見ても明らかであり、元来コンピューターとは弾道計算の高速化を主目的として、軍事利用のために第二次世界大戦期に開発が始まった電子計算機にルーツを持つ。要は敵国よりも多くの砲弾を戦場に叩き込み、国家にとっての利益を最大化しようという目的のもと、国家プロジェクトとして開発されたツールであり、決して個人の手が届いてはならないものであった訳だ。

また、フィクションの世界においても、コンピューターというのはしばしば社会構造の中核をなすものとして取り扱われていることにも注目したい。
例えば、アニメ作品の「PSYCHO-PASS サイコパス」やTRPGゲーム「パラノイア」、伊藤計劃の小説「Harmony/」映画「マトリックス」など、コンピューターやシステムによって社会全体が支配された世界というのはジャンルを問わず様々な創作物の中でみられる共通の世界観設定であり、「コンピューター=我々を支配する存在」という価値観が一定の支持を集めていることが見て取れるだろう。

一方で、パソコンは、読んで字のごとく「パーソナル(個人的な)コンピューター」であり、そうした権威を個人の手の内に引きずり降ろしてこようという思想を持ったプロダクトである。

1984年に、マッキントッシュの発売を記念して放送されたCMをご存知だろうか。「ブレードランナー」などで知られるリドリー・スコットが監督を務めたそのCMは
「あなたは1984年が“1984”のような世界にならないことを理解するでしょう」という一説で締めくくられている。
(※原文 On January 24th, Apple Computer will introduce Macintosh. And you'll see why 1984 won't be like “1984”.)

このCMが指し示す“1984”とは、ジョージ・オーウェルのSF小説「1984」のことであり、それはまさに国家によって全体主義的な統制が行われるディストピアが描かれた作品であった。
AppleはこのCMにおいて「1984」を引き合いに出すことによって、マッキントッシュはそうした国家による個人の統制という社会構造を破壊するものであると謳ったわけだ。

このことから分かるように、パソコンはコンピューターとは対照的に、内向的なオタク達と強い親和性を示すものであったのである。

そうしたパソコンというデバイスを通じて、人々は何を見出したのだろうか。

それは「未来」だ。

実際、アニメ作品においても、パソコンをはじめとする個人用のデジタルなデバイスやインターネットは「現実世界の構図を破壊し、新しい日常を連れてくるもの」として盛んに描かれた。

「serial experiments lain」で描かれたパソコンは、終始「何か嫌な予感」を感じさせるグロテスクな存在であり、そこにはコンピューターが少女・玲音を破滅させる過程が描かれているが、伊藤計劃が「harmony/」において、人類の進歩を、意識が排除された存在、つまりは哲学的ゾンビへの帰結であるとしたことを考えれば、“集合的無意識”の化身であるlainが日常を侵食するという構図は、コンピューターという存在を「人類の幼年期を終わらせ、人間存在を次のステージへと導いていくもの」として描いていたと読み替えることができる。

また劇場版第一作の「デジモンアドベンチャー」や「電脳コイル」、「サマーウォーズ」などにおいては、「インターネット」は子供たちに与えられた、平凡な日常を切り崩すための「力」そのものであったし、のちに異世界転生モノという一大ジャンルを築く礎となった「ソードアートオンライン」についても、「主人公が現実からの束縛から解放され、インターネットの世界で本当の自己と仲間を見つけていく作品」であると捉えれば、インターネットが平穏で退屈な日常構造を破壊するデバイスとして描かれていたといえるだろう。

私たちは常にフィクションに「退屈な展開を破壊してくれる何か」を求めている。そうした展開を運んでくるツールは作品によって様々であり、上記のようにインターネットである場合もあれば、異世界の場合もあるだろうし、「涼宮ハルヒ」や「ペルソナ3」のような日常の中で個人が抱えた特異性(超能力)である場合もある。また、「北斗の拳」や、「少女終末旅行」「宝石の国」などでは、ポストアポカリプス的なその世界観設定そのものが、そうしたツールとしての役割を担っていると言えるだろう。

そして我々は、ときにそうした「退屈な展開を破壊する何か」を現実世界においても求め、そしてその「何か」が運んできてくれる「未来」に思いを馳せる。
学校がテロリストに占拠されるシチュエーションや、車窓風景を眺めながら電車に並走するポケモンを妄想したことがあるのは私だけではないはずだ。

かつてオタクたちは秋葉原という街に、そうした「非日常への夢」と「ワクワクする未来」への期待を託していた訳だが、
秋葉原という街がキャピタリズムと権威の侵食よって商品化され、形骸化していく中で、
インターネットが秋葉原に変わって、そうした「未来」と「夢」をその身に背負っていくこととなる。

6.失われた仮想現実の夢

話は変わって、VR元年と呼ばれた2016年以降、持ち上げの甚だしいVRだが、現在のVRブームが「第二次」VRブームであることを忘れてはならない。

第一次VRブームが起こったのは90年代のことである。映画やゲームなどで使用されるCG技術が急速に発展するとともに、VR技術は俄かに注目を浴びていた。
実際に1995年には任天堂から「バーチャルボーイ」が発売されるなど、VR技術を活用したゲーム機なども登場していたわけだが、当時のHMDは没入感を得るために十分なクオリティのCGを描画する能力を持ち得なかった点や、そもそものHMDが非常に高価であったことから一般には普及せず、第一次VRブームは間もなく沈静化することとなった。その後VR技術は2012年の「Oculus Rift」の発売までの約20年間、冬の時代を過ごすことになるわけだ。

ここで疑問となるのが、「なぜ20年間もの空白が生まれたのか」ということである。
確かに当時のVR技術は不完全であった。しかしながら、未発達の技術なりに開発が進行し続けていたならば、VRの発展と普及はもっと早かったように思えてならない。ではなぜ20年間もの間VR技術の開発は停滞してしまったのだろうか。

そこにはやはり「インターネット」の存在があった。
第一次VRブームの沈静化と時期を同じくして、インターネットとSNSがデジタルの流行の中心に躍り出たのである。
90年代末の「2ちゃんねる」開設を皮切りに、2006年ごろには「mixi」全盛期が訪れ、2007年ごろには「Second life」が俄かに流行を見せていた。そして10年代に入ると、東日本大震災の影響を受けて「Twitter」と「Facebook」が情報収集のためのツールとして、広く一般的に利用されるようになり、SNSは人々の生活の一部としての地位を獲得するまでになっていった。
このように第一次VRブーム以降、常に流行の中心にはインターネット・SNSが居座り続けており、00年代から10年代の流行の歴史は、そのままSNSの歴史であると言っても過言ではないと言える程である。

そう。20年の空白とは、インターネットとSNSの流行によって、VR技術が流行の中心としての地位を追われたことによって発生した、「注目の不在」が引き起こしたものである。

こうした歴史を見れば、ある種VR技術は「秋葉原」と同様にインターネットに未来と地位を奪われた存在であったと言ってもいい。

7.ゲームを破壊するゲーム

また、インターネットの台頭は現在に至っても尚、VRコンテンツに大きな影響与え続けている。

現在、VR技術にまつわる流行の中心にいるのは言うまでもなく「メタバース」だ。
(※本記事ではメタバースをオンライン上に存在する仮想空間全般として扱う)

私が主に活動しているVRChatも限りなくゲームに近い性質を持っているものの、その本質はSNSである。

VR元年以前のVR産業は、先述の「バーチャルボーイ」の例を見てもわかるように、ゲームをはじめとするエンタメ産業が牽引したものであった。
ではなぜ、現在訪れている第二次VRブームでは、そのメインコンテンツが「ゲーム」から「メタバース」というコミュニケーションツールへと変化しているのか。

そこにもまた、インターネットの影響があったと私は考えている。
つまるところ、インターネットの発展は秋葉原やVR技術に限らず、「ゲーム」という存在にも大きな影響を与えてきたのだ。

では、インターネットが「ゲーム」という存在そのものに与えた影響とは何だったか。
本章では「ゲームという産業そのものが抱える“労働集約性の高さ”」と、「第一次VRブームから現代に至るまでに起きた“消費者傾向の変遷”」の2つの観点から、その影響の正体について考察していく。

そもそも、ゲーム産業を初めとするエンターテイメント産業というのは、労働集約性の高い産業である。
「労働集約性が高い」というのは、要するに、価値を生み出すために、人間の労働力を頼りにする業務の割合が大きいということだ。

もう少し詳しく解説しよう。
例えば、紡績業を思い浮かべて欲しい。18世紀以前、糸というものは、手動の糸車を使用して、人の手によって紡がれていた。それが、産業革命以降、水力や蒸気機関車を利用した紡績機が登場したことによって、生産性が格段に上昇すると同時に、紡績業は人の手を必要としない産業へと変化していった訳だ。
要するに、紡績業をはじめとする製造業などは機械化によって、生産性の向上を図ることができ、価値(製品)を生み出すために、人の労働力を必要としないようになっていくのである。

一方でゲーム産業はどうだろうか。
ゲーム制作というものは「デザイン」や「プログラミング」「モデリング」など、機械化が不可能な作業が非常に多くの割合を占めている。
つまり、ゲームを始めとするエンターテイメント産業は人のが自らの手や頭を使わなければできない作業が多い産業ということだ。

こうした「機械化によって、容易に生産性の向上を図ることができない産業」を「労働集約型産業」といい、サービス業などが代表的な例として挙げられる。

そして、そうした労働集約型産業は、機械化によって生産性の向上を図り、人件費の削減を図ることが難しいというその特性ゆえに、「ボーモルの病」という大きな問題を抱えている。

ボーモルの病とは、先述の紡績業をはじめとする製造業や、ガス・電気といったインフラ事業などの産業が、機械や器具の技術革新によって生産性を向上させていくことで、そこで従事する人々はこれまでと同等の労力でより多くの価値を創造できるようになっていき、そしてその結果として社会全体の賃金と物価の上昇が引き起こっていくのに対して、生産性の向上を図ることができない労働集約型産業では、物価の上昇に伴って、そこに従事する労働者の人件費が増大していく。という問題である。

実際には、労働集約型産業の労働者の賃上げは行われないケースが多く、労働集約型産業に従事する労働者は「物価が上がったのに賃金は上がらない」という状況での労働を強いられるというシチュエーションが多発している。

平易に言えば、システムエンジニア(SE)やデザイナー、サービス業従事者といった、人の手を持ちいなければ価値を創造できない職種の人々は安価で買い叩かれる。ということだ。

ゲーム産業においては「オンライン通信システムの導入」が、そうしたボーモルの病を解消し、生産性を高めるための一つの方法として挙げられる。

なぜオンラインシステムの導入が生産性の向上につながるのか。

例えば、昔ながらのパッケージ買い切り型のゲームでは、製作者によって用意された最後の敵、要は「ラスボス」を倒してしまえば、そのゲームは一旦遊び尽くされたことになる。
つまり、従来のゲームにおいては、制作者が用意したコンテンツがそのゲームの「全て」であり、一度ゲームをクリアしてしまえば、ユーザーに残された選択肢は、その限りあるコンテンツを擦り続けるか、他のゲームを遊ぶのかの2択となる訳だ。
一方で、オンライン通信システム、つまりはマルチプレイが導入されたゲームでは、プレイヤー自身が他のプレイヤーにとっての敵、あるいは味方となることによって、制作者が新たにCPUを用意せずとも、ゲームのコンテンツをかさ増しし、尽きさせないことができるのである。
一般的に大ボリュームと呼ばれるRPGゲームでも、クリアまでに50時間も遊べればいいところだが、一方で昨今流行しているAPEXやVALORANTなどのオンライン対戦型FPSゲームでは、プレイ時間が100時間を超えて初めて1人前などという意見も見られるように、オンラインゲームは作り出した製品をユーザーに長く遊ばせる力がある訳だ。

また、集金システムについても、ゲームをパッケージないしダウンロードによる買い切り型で販売してしまえば、そこで収益はストップしてしまうが、課金要素やDLCを販売すれば、同一のゲームでユーザーから複数回集金することができるようになる。

このように、インターネットの存在がゲームという産業に与えた影響は計り知れないものであり、
買い切りで全てが完結するゲームが減少し、オンライン対戦型ゲームや、ソーシャルゲーム、MMORPGといったジャンルのゲームが増加していった背景にはこうした製作者側の事情があった訳だ。

続いて、第一次VRブームから現代に至るまでに起きた“消費者傾向の変遷”について触れていきたい。

この「消費者傾向の変遷」とは、人々が物理的な「製品」を求める「モノ消費」よりも、商品やサービスを購入したことで得られる「体験」を求める「コト消費」を嗜好するようになっていった。ということである。
モノ消費からコト消費へと消費者傾向の変遷が起きた理由は非常に複雑なものであり、ここにその理由の全てを書き切ることはできないのだが、本記事では、消費者傾向の変遷を起こした要因として、「物的消費の飽和」と「労働集約型産業の従事者の増加」、「SNSの発達」という3点をあげたい。

まず「物的消費の飽和」についてだが、これは非常に単純な話である。
高度経済成長期には、人々は「三種の神器」(洗濯機・冷蔵庫・白黒テレビ)や「3C」(クーラー・自動車・カラーテレビ)を求めたものだが、現在に至って、そうしたものに憧れを抱いている人は非常に少数であるだろう。
つまり、現代日本人は既に様々なモノに囲まれて生活しており、物的に裕福なので、特段新しいモノを必要としていないわけだ。
そして、物理的な「モノ」を求めなくなったことによって生まれた金銭的な余剰が旅行やサービスなどの「コト」への出費に回されている。というそれだけのことなのである。

続いて「労働集約型産業の従事者の増加」という点について解説していく。

先述の通り、製造業やガス・電気といったインフラ産業などは機械化や器具の革新によって、生産性が上昇していくのだが、生産性が向上していく中で、同じだけの人員を雇用し続けていれば、生産力が需要を上回ることになる。要は生産に余剰が生まれるわけで、そうなると雇用にも余剰が生まれてくる。そして、そこで余剰となった人員は「失業者」となるわけだ。
そうした状況になったとき、職を追われた人々はどこへ向かうのだろうか。
そう、人員を必然としている場所、つまり労働集約型産業に雇用を求め、そこに人口の集中が起きることになる。

このように、農業や漁業といった第一次産業、あるいは鉱業や建築業、製造業をはじめとする第二次産業が成熟することによって、サービス業などに代表される第三次産業に人口が流出していく法則を「ペティ=クラークの法則」というのだが、こうした現象は明治維新以降度々みられてきた現象である。

さて、そのような形でサービス業をはじめとする労働集約型産業に人口が集中すればどうなるのだろうか。
当然だが、各々が利益を求めて、よりよいサービスを提供し顧客を確保しようと目論むため、そこには競争が生まれることになる。
つまり、サービス業に従事する人口が増えれば、それだけ消費者が受け取るサービスの質は向上するのである。

そうしたサービス業の質の向上が「モノ消費」から「コト消費」への変遷を生み出す一因となっているのだ。

最後に、本記事の主題である、SNSの発展が如何に消費者傾向の変遷に寄与したかについて記述する。

このことについて、先に結論から言ってしまうと、「Instagram」や「Twitter」、「Facebook」などのSNSの発展によって、「消費」というのは個人で楽しむものではなく、他者と共有するものになったということだ。

数年前に流行したタピオカミルクティーを思い出してほしい。
確かにタピオカは美味しい上に、結構お腹も満たせる素敵な食材ではあるのだが、
決して若者たちは「タピオカ」という「モノ」を求めてタピオカミルクティーを購入していたわけではない。
では彼らはタピオカに何を求めていたのか。もはや説明は不要だろう。
そう。「インスタ映え」だ。
オジサンが「俺はめっちゃ稼いでるぜ、金持ってんだぜ」ということをアピールするために、スナックで高級な腕時計を見せびらかすように、「私はこんなにキラキラした生活を送っていて、毎日エンジョイしています!」ということをSNSを通じてアピールするために若者たちはタピオカミルクティーを求めていたのである。

これは何もタピオカミルクティーに限った話ではなく、SNSという存在によって、消費という行為そのものが、「自己表現、ないしセルフブランディングのためのもの」という側面をより強く持つようになったのである。

「ラーメン発見伝」という漫画で芹沢という人物(通称:ラーメンハゲ)が放ったセリフとして、「あいつらラーメンを食べているんじゃない。情報を食っているんだ」というものがあり、そのセリフだけがインターネット・ミームとしてインターネット上で一人歩きしているが、このセリフ自体はなかなかに芯を食ったものであると言える。

要するに、彼らが購入していたものは「タピオカ」ではなく、その先にある「いいね」であり、他者からの「承認」だったのだ。

また、他者からの承認というものは本来定性的なものであったが、SNSは、そうした他者からの承認を「いいね」の数によって定量的に評価できるものへと変革させたことにも注目したい。
要するにSNSそのものが、自らの価値を示し、他者からの承認を集めるという、ある種でゲーム的な側面を持っていたということだ。

本章の前半では、ゲーム産業が抱える「労働集約性の高さ」という問題を解消するという、製作者側の観点から、オンラインゲームが流行した要因を探ったが、
モノ消費からコト消費へと消費者傾向が変遷したことも、オンラインゲームの隆盛に大きく寄与している。
要するに、消費者傾向の変遷によって、人々はゲームという「モノ」を求めるのではなく、ゲームによって得られる「体験」を求める傾向がより強くなったのだ。当然、「体験」というのは様々である。重厚なストーリーを求める場合もあれば、爽快なアクションを求める場合もあるだろう。
そして、時には他者との「コミュニケーション」や仲間と過ごす「時間」を求めることもある。

そう。仲間との「時間」と「コミュニケーション」だ。インターネット上で他者とのコミュニケーションを取るという「コト」が当たり前になったが故に、人々はゲームにも同様に、そうした「コト」を求めるようになっていったのだ。

SNSの発達と、それにによって生まれたオンラインゲームは、既存のゲームが持った価値の根幹を破壊するゲームであったと言い換えてもいいだろう。

8.VRと私たちの親和性・令和の「萌える都市」

インターネットの発展によって、オンライン上でコミュニケーションをとることが一般化したことで、VR技術は20年間の停滞を見せ、そしてインターネットはその20年間で、ゲームという存在自体の「価値」をも一変させた。そうした流れを受けて、VRのメインコンテンツが買い切り型の「ゲーム」ではなく、SNSやオンラインゲームに限りなく近い存在である「メタバース」となったことは必然であったと言える。

するとここで一つの疑問が湧き上がってくる。
前章でSNSの根幹が、「自己表現」と「他者からの定量化された承認の蒐集」であると記載したわけだが、タピオカの例をはじめとする「自己表現としての消費」という行為は、上位の文化的権威に自らが染まることを良しとせず、外界を遮断してコンテンツに没入するような、オタクたちの「内向性」と非常に相性が悪いものに見える。
では、オタクたちはSNSによって、オンライン上にコミュニケーションの場を得たことで、社会構造の中に飲み込まれ、根底に抱えた内向性を失っていったのだろうか?ということである。当然それは否だ。

オタクが内向性を根底に抱え続けていることは、SNSによって「棲み分け」が行われていることを見れば明らかだろう。

一般的にオタクは「Instagram」よりも、「Twitter」を好むという認識がある。(この論はかなり偏見を含むものだとは思うが、一般的に支持されていることを見るとあながち間違いではないのだろう。)
それは、「Twitter」が極めて匿名性の高いコンテンツであり、そこに現実から隔絶されたコミュニティが形成されているのに対して、「Instagram」は匿名性が低く、そこに形成されるコミュニティは現実社会と地続きのものであるからだ。

そう。オタクはタピオカを飲まないし、それを「Instagram」で周囲にアピールしないのだ。
(いや、もちろん全員がそうではないとは思うが・・・。)

こうした棲み分けは、何もSNSに始まった話ではなく、70年代当時から、オタクは秋葉原でオタク談議、若者は渋谷で買い物、おじいさんは山で芝刈り、おばあさんは川で洗濯といったように、都市に集まる人々の「個性」は、その都市の「個性」とリンクしながら偏りを見せ、それによって都市単位での人格の分類=棲み分けが行われていたのだが、現代ではそれがSNSというサービス単位で行われている。ということであり、オタク自身の本質が変わったわけではないのである。

では、メタバースはどうか。「Horizon Workrooms」などの、ビジネスシーンでの利用を想定したものは別として、
SNS然としたメタバース、特にVRChatなどは、極めて匿名性の高いコンテンツであり、現実とは違うもう一つの「社会」としての側面を持っている。
拙作、「[VRChat考察]なぜ人々は「お砂糖」を作るのか。」にて書いたことの繰り返しにはなるのだが、
VRChatにおいて、我々はしばしば、「現実の自己とは違う存在」として、生活を営み、これまた「現実の自己とは違う存在」である他のユーザーとコミュニケーションを取る。
つまり、メタバース空間内で活動するということは、現実社会とは違う「もう1人の自分」という存在を自己の内面に抱くということに他ならず、ある種での「生まれ変わり」であると言えるのである。

そうした状況において、現実世界に存在している自分自身は、あくまでも社会構造や世間からの隔絶を保っているわけである。むしろ現実世界でHMDを被り、頭部を完全に覆ってしまったその姿は、コンテンツに没入する姿そのものであり、その異様さはパソコンのディスプレイに没頭する姿の比にならない。

そして当然、そのような特性を持ったVRChatというコンテンツには、同様の特性を持った人々が集まってくる。
かつての秋葉原がそうであったように、そしてTwitterがそうであるように、現在のVRChatは内向的なオタクたちの集合体となっているのだ。

また、HMDそのものについても、現在急速に普及し、世間に認知されつつあるが、未だ発展途上のニッチな製品である。それによって、企業や行政といった上位の文化的権威、あるいはキャピタリズムという思想が、メタバース領域に対して触手を伸ばせていないことも、こうした状況の形成に大きく寄与しているだろう。

インターネットの隆盛によってゲームが衰退し、メタバースがメインコンテンツとなったVR空間において、オタクという人格の偏在と、知識の集積が発生し、行政や企業の主導ではなく、「個」の力によって「VRChat」というコミュニティが出来上がっていく様は、
家電がその地位を失い、パソコンの街となった秋葉原という地で、オタクの街が形成されていった構図とそのまま重なるものがある。

まさにオタクたちが集った当時の秋葉原が、時を超えて「VRChat」というメタバースの中に発現しているのだ。

そう。
VRChatはまさに令和の「萌える都市」だ。

9.新しいメタボリズム・あるいは現代の九龍城

かつて、「秋葉原」という街が「個」の力、つまりはオタクの需要を満たすために、ある種では場当たり的に作られ、そして絶えず新陳代謝していったように、
現在のVRChatはまさに「個」によって開発される一つの都市であると捉えることができる。
VRChatではユーザー自身が需要を満たすためにワールドやアバターなどの無数のコンテンツを制作し、その一つ一つが世界の在り方や、VRChatというコンテンツの価値そのものを絶えず変容させていく。

私はそこに、かつて隆盛し、そして失われた「メタボリズム」という建築運動を重ね見ている。

「メタボリズム」とは1960年代から70年代にかけて、黒川紀章や菊竹清訓らが中心となって興した建築運動である。代表的な作品として、黒川紀章による「中銀カプセルタワー」や、大高正人の「坂出人口土地」などが挙げられるが、メタボリズムとは「新陳代謝」という意味であり、その思想の中心にあったのは、高度経済成長期における急激な人口増加や、それに伴って発生するであろう土地の不足といった問題を解決するべく、有機的に成長する都市を構築しようとする考えであった。

例えば昨年度惜しまれつつも解体された中銀カプセルタワーは、その名の通り、ビルの構造躯体に2.5m×4m×2.5mの四角いスチール製ユニットが差し込まれるという形で設計されたている。
そして各ユニットは取り外しが可能となっており、老朽化や社会情勢の変化など、その時々のニーズに合わせて、ユニットそのものを取り変えて建築を使用することが想定されていたのだ。
実際には、ユニットの交換は技術的に困難であり、完成後は一度もユニットの交換が行われないまま昨年度の解体を迎えた訳だが、彼らメタボリズム・グループの思想としては、中銀カプセルタワーに差し込まれたユニットのような代替可能な無数のパーツによって、都市全体を構築することを目指していたのである。

こうしたメタボリズムの行き着く先にあった風景とは、王城夕紀の「ノット・ワンダフル・ワールズ」で描かれたような、3Dプリントを可能とするナノマシンによって、人の活動やニーズに寄り添う形で絶えず形を変える都市であったのかもしれない。

実際には技術、予算、法整備などの様々な理由で都市規模のメガストラクチャーが実現することはなく、メタボリズム的思想で構成される都市という夢は失われた存在となった。

しかし、こうしたメタボリズム的な思想自体はは現在のVRChatと非常に親和性の高いものであったと考えられる。

VRChatでは、交流やDJイベント、カラオケ、資料蒐集や仕事、改変作業といったように、ユーザーははその時々の活動に適した空間を、必要に応じてその都度用意し、人が集中して空間のキャパシティがオーバーすれば、インスタンスを分けるなり、より広い空間を用意するなど、その居場所を適宜拡張していく。

VR技術によって、空間と肉体が物理法則の枷から解放されたことにより、VRChatには、まさにメタボリズムが思い描いた、人の活動やニーズに寄り添う形で絶えず形を変える、理想の都市が顕現しているのだ。

もっとも、メタボリズム的な都市の新陳代謝は設計段階から計画されたものであり、都市や建築物を代替可能なユニットを用いて構成することで、新陳代謝するようにあらかじめデザインされ、その新陳代謝は人為的に制御されている。
そうした点を鑑みれば、計画性や、都市が向かうべき方向性を持たずに自由気ままに育っていくVRChatという都市は、メタボリズムというより、むしろ九龍城と言った方が正しいのかもしれないが…。

一方で現実世界に目をやると、メタボリズムにとって取って代わったのは「タワーマンション」である。
都市という限られた空間により多くの人口を詰め込むため、「タワーマンション」が街を埋め尽くしたのだ。

タワーマンションは生物的な新陳代謝を掲げたメタボリズムとは対照的に、まさに住居としての機能を実現するための固定された「機械」であり、ゼネコンという大資本によって設計され、収益のために最適化されたその姿は、いかにも中央集権的で、上位の文化的権威を象徴したものあるといえる。
また、そこに住む人々は一般的に「社会的な成功者」であり、それは資本主義の社会で勝利を収めた者を意味している。つまり、タワーマンションに「住む」という行為そのものがステータスであり、自らの社会的地位を周囲に誇示できるという価値を持っているわけだ。
秋葉原の街とは対照的に、タワーマンションには非常に大きな窓が備えられているのは、ステータスを外界に誇示し、「消費」を自己表現として周囲にアピールする目的があると考えることもできるかもしれない。

少し前にVR空間内でタワーマンションが販売されていた。確か5万から10万円くらいだったような気がするが、VRChatユーザーからの評判は芳しくなかったように思う。挙句の果てにはそのVR空間を模倣したワールドが制作され、VRChat城で公開される始末となった。
VRタワーマンションが、VRChatユーザーの批判、あるいは嘲笑の的となった背景には、ユーザーによって作成された、無数のハイクオリティなVR空間を無償で使用することが一般的になったVRChatユーザーにとって、決してクオリティが高いようには見えないVR空間に10万円も支払うという行為が馬鹿らしいものに見えたからという理由も勿論あったとは思うのだが、それ以前に、タワーマンションという存在そのものが放つ、中央集権的で資本主義な臭いが、VRChatに集まったオタクたちの「内向性」と非常に相性が悪かったことが大きな理由となっているのではないだろうか。

また、タワーマンションは、その巨大さゆえに、しばしば人に威圧感を与えるものだ。

かつてニューヨークには、ワールドトレードセンターのツインタワーが屹立していた。9.11アメリカ同時多発テロ事件によって崩壊することとなったそのビルの設計は、日系2世の建築家であるミノルヤマサキによるものだったが、ミノルは、「見て美しく、触れて優しく、人の心を打つ」建築を何よりも重視する建築家であった。しかし、港湾局から収益性の高さを求められ、ワールドトレードセンタービルは非人間的な高層化を余儀なくされた。ミノルはそれでも尚人に優しい建築を目指し、苦心したのだが、最終的にその大きすぎる建築物はヒューマンスケールを逸脱し、「世界で最も冷たい建造物」という評価が下されることとなったのだ。

この例を見てもわかるように、あまりに人間のスケール感から逸脱した構造物を、人に寄り添ったものとして設計することは困難を極める。
そして、その現実味のない逸脱したスケール感は個人の力が非常に矮小なものであると感じさせ、さながら「クトゥルフ」のように私を破滅に導いていくのではないかという印象を人々に与えるのだ。

押井守が「イノセンス」にて択捉経済特区を、香港のような街並みではなく、都市を埋め尽くす機械的なメガストラクチャーを描いたのは、そうした恐怖と不気味さ、介入がままならない領域であるということを、視聴者に印象付けることを目的としていたのだと考察できる。

VRChatにおける空間は、かつてのオタクの部屋のように薄暗く鬱蒼としているわけではない。しかし、タワーマンションなどの、商業主義と上位の文化的権威によって均質化された巨大構造物に侵食されていく現実社会と、現代の九龍城とも言うべき、無秩序で自由な、ある種アンダーグラウンド的な雰囲気を纏った都市が発現するVR社会の対比を見れば、VRChatにおける空間デザイン、ないし都市景観そのものが、我々と親和性の高いものであることは明らかだろう。

余談だが、この対比構造は「Ghost in the shell」において、光学迷彩を纏った少佐が犯罪と戦闘を繰り広げる水辺のシーンを彷彿とさせる。あのシーンで背景に描かれたのは、まさに九龍のような空間で営まれる地域住民の生活と高層ビルという大資本の対比であったわけだ。

また、ザハの新国立競技場などに代表される、予算や技術的な問題で実現しなかった空間、所謂アンビルドをVR空間に再現しようという試みや、焼失したケルン大聖堂をデータ上で再建しようとする試みなど、建築学領域においても、随所でVR技術の有効活用が模索されていることも鑑みれば、VRChatないし、メタバースは空間デザイン、ないし建築の未来をも背負う存在であると私は考えている。

10.VRChatというモラトリアム


オタクの街秋葉原が、その後どのような道を歩んだかを想えば、VRChatがこれから歩んでいくであろう未来に仄暗いものを感じずにはいられない。

実際、その予兆は多くのVRChatユーザーが肌で感じ取っているのではないだろうか。

例えば、メタバースを囃し立てるマスメディアやVketの会場を埋め尽くす企業ブースから。あるいは日本の文化や、ステレオタイプ的な「萌え」を求めて[JP] Tutorial Worldに集まってくる外国人たちから。

この不吉な予感の正体は、言うまでもなく企業や行政、つまりは上位の文化的権威や既存の社会構造、あるいはキャピタリズムが私たちの居場所を食い荒らしてしまうのではないかという恐怖感だ。

現在のVRChatは、VketやサンリオVfesなど、企業主導のイベントが続々開催され、企業の参入がジワジワと始まっている状態である。

現在開催されているそれらのイベントはVRChatユーザー達から好意的に受け止められているように感じられるが、
それは、それらのイベントが「既存のVRChatユーザー」をターゲットにしたものであるからに他ならない。 つまり現在開催されているイベントはVRChatの文化や風土に寄り添ったものであるわけだ。

しかし、この調子でメタバースの人口が増えていけば、オタクに限らず、様々なユーザーがそこに訪れることになるだろう。
そうなれば必ずVRChatは巨大なマーケットとなり、現在VRChatをプレイしているユーザーとは全く違った、例えばビジネスシーンでの利用を目論む人々などをターゲットを見据えたイベントやサービスが続々と企画されていくことが容易に想像できる。

そのとき、我々既存のVRChatユーザーはどこへ向かうのだろうか。
「Twitter」と「Instagram」のように、利用シーンによって棲み分けがなされるかもしれないし、あるいはかつて秋葉原がそうだったように、VRChatという土壌そのものが資源化されることによって、我々オタク達は居場所を追われ、次なるコンテンツに移っていくことになるのかもしれない。
どちらにせよ、そのとき世界の在り方は一変するし、我々のVRChatでの過ごし方は変革を余儀なくされるだろう。
現在のような居心地の良い環境、つまりは内向的なオタク達の集合体に永久に留まっていることはできないのだ。

しかし、これは決して悲観することではない。
VRChatは完成されたコンテンツではないし、未来永劫完成するコンテンツでもない。
だから変革の時を迎えるのは必然のことである。
むしろ、それ故に私たちはそこに未来と、「退屈な日常を破壊してくれる何か」を見出したのだ。
それはまるでかつてオタクたちがインターネットに未来を見たように。

11.あとがきに変えて

いつ世界が一変し、この日常が終わるのかわからない、あるいは永久に終わらないのかもしれないこのVRChatというモラトリアムは、さながら「うる星やつら2・ビューティフルドリーマー」のようである。「うる星BD」の行き着く先は、文化祭の終了と、それによって訪れる、平坦で関係性の固定された「日常」への帰結であるが、登場人物たちはそうした「終焉」を知っていながらも、それがまるで訪れないかのように、文化祭前の準備期間という狂騒を楽しんでいる。

それと同様に、現実世界を支配する、上位の文化的権威や、全体主義、キャピタリズムがVRChatという社会を蹂躙する日の存在を知っていながらも、我々はVRChatという大きな箱庭の中で、今ある(非)日常を享受しているのだ。

そう、私たちはVR空間で夢を見ている。キャピタリズムが響かせる軍靴の音が近づいてくるのを微かに意識しながら。


あとがき

本記事を書くにあたって参考にさせていただいた多数の文献や、素晴らしい作品を制作して下さった偉大な先人たち、推敲に協力して下さった大切な友人、そしてここまでお付き合いいただいた読者の方々には改めて敬意と感謝の念を示したい。

意見や質問、感想等があれば、それが肯定的なものであれ、否定的なものであれ、反応を残していただけると嬉しい。

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