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今日一日と一週間分のこと。

 『私は、早瀬孝太の母親です。突然の手紙に驚いたことと思います。
 毎年夏休みにはこちらに来られますが、今年はいつ頃になるのでしょうか。
 孝太が、あなたに会いたがっています。あなたから声をかけて、いろいろお話をしてもらえませんか。
 あの子があなたに会えるのは、今年が最後になるかもしれません。』 

                ☆

 小学生のころ成美の両親は離婚をした。
 小学四年から六年までの間、成美は高知で過ごした。成美の母が実家に身を寄せたのだ。
 そこで、早瀬孝太と出会った。
 小さな学校で成美の学年は六人しかいなかった。男子は二人だけでクラスの女子は孝太か健一郎かどちらかが好きだった。
 成美の中学進学と同時に、元いた街へ戻ることになった。成美の母が以前からの知り合いと再婚するためだった。成美にとっては、孝太や友達と引き離された辛い経験だった。
 それからも毎年、夏休みには祖父母に会いに高知へ行っていた。ここ数年は孝太と会っていなかった。
 最後に遊んだのは中学三年の時だ。夏祭りに一緒に出かけた。
 現在、家には幼い弟がいる。
 今年は、受験勉強をするために休みの間ずっと祖父母の家に行く予定にしていた。
 孝太の母親にははがきを送った。夏休みに入ったらすぐに行くと書いた。
 一学期も後数日で終わる。
 成美は、孝太のことが気になって憂鬱な日々を送っていた。
 孝太は、明るくて優しい少年だった。中学では野球部にはいってピッチャーをしていた。野球の強い高校へ行きたいと言っていた。その希望はかなったはずだ。勉強もよくできると他の友達からきいていた。
 成美の記憶には、日に焼けて元気に笑う姿しかない。
 最後に話した時も、こっちの学校の男子よりもずっと優しく接してくれた。
 あの時、声が変わっていて、気恥ずかしかったことを憶えている。変わった後の声は、忘れてしまった。
 休み時間にも、孝太のことを考えることが多かった。
 成美は、気がつくと机の上にあった消しくずを指で集めて、天板にこすりつけていた。
「元気ないけど、夏ばて?」
 野田佳奈に話かけられて成美は顔をあげた。佳奈は、クラスで一番仲の良い友達だ。心配そうに覗き込んでくる。
 成美は受け取った手紙について話した。
「病気かなにか?」
「よくわかんない」
「孝太君って、あの爽やか系イケメンの男子だよね」
 佳奈には、中三の時に一緒に撮った写真を見せたことがあった。
「イケメン……うーん」
「坊主頭であれだけ格好いいんだから」
 それでもイケメンという響きはしっくりこないと感じた。
「明後日には田舎に行くなら、もうすぐわかるじゃん」
「そうなんだけどね。気になって」
 佳奈は成美の肩をたたいた。
「夏休み、ほとんど会えないんだから、今日はちょっと息抜きしない?」
「息抜き?」
「そ、何人か誘ったし、カラオケ行こうよ。たまには気分転換しよ」
 成美は気乗りしなかった。孝太のこともあるが、この時期に遊びに出ると母親がうるさい。
「せっかくだけど、ごめんね」
 成美は誘いを断った。

                ☆☆

 ここ数日、長く感じられた。
 ようやく夏休みに入り、成美は一人四国へ向かっている。
 母達は、お盆の間だけ来ることになっている。
 成美だけがひと夏、高知で過ごす。祖母に一度電話をかけて孝太のことについて探りをいれた。祖母はとくに何も知らないようだった。
 岡山で新幹線から高知行きの特急に乗り換えた。電車はすいていた。成美は、何も手につかず、ため息を繰り返していた。
 時間を見ようとスマートフォンを手に取る。通知があった。LINEの画面をあけると、佳奈からメッセージが届いていた。
『もう、着いた?』
『今、瀬戸大橋』
 すぐに返信をした。孝太は、LINEをしているんだろうか。どうなっているのか何も知らなかった。
 会わない間で、成美の方にはそれほど変わりはない。地元の公立中学から、最寄の公立高校へ進学した。
 高校一年の時に、三年生に告白されてしばらく付き合っていたこともある。相手が東京の大学へ進学した後、自然消滅した。デートと呼べることもせず、時々、途中まで一緒に帰るくらいの関係で、手すらつないだことがなかった。
 ふと窓の外に目を向けると、穏やかな海にいくつもの島が浮かんでいる。
 瀬戸内独特の景色が見えた。ほどなくして香川に入ったけれど、高知へはまだ遠い。結局たどり着いたのは夕方だった。
 駅までは叔父が迎えに来てくれた。
 駅から、田んぼに囲まれたのどかな道を二十分ほど走って祖父母の家に着いた。
 荷物を置くと、挨拶もそこそこに孝太の家へと急いだ。
 持ってきたお土産を置いてきたことに気づいたが、引き返さなかった。
 とにかく、孝太に会いたかった。
 幼い頃、あぜ道を走るとしかられていた。回り道をする気になれずに通った。
 成美が今住む街とは違い、海風が吹く。しかし、夕方であっても気温が高い。
 成美は額から滲む汗を拭わずに走った。用水路に沿って駆ける。
 舗装が悪く時折足をとられる。
 公民館を過ぎてすぐに孝太の家はある。 
 知らないうちに、孝太の家が建て替えられていた。
 以前は古い農家らしい家だったが、敷地の中に新しい家が二軒建っていた。
 立ち止まった途端に、全身から汗が噴き出した。
 成美は両手で顔を扇いだが無駄だった。 
 門柱に二つカメラ付きのインターホンがあった。早瀬と書いてある方を押す。それほど経たずに応答があった。
 インターホンから低い男の声が聞こえた。
「成美?」
「孝太?」
 雑音がきこえてすぐに左手にある家の玄関が開いた。
 成美は、顔を出した孝太の変わりように驚いた。背が伸びているのは予想していたが、思っていた以上に高い。髪が長めなことと、日に焼けていないことが予想外だった。
「久しぶりやねゃ」
「あっ、うん」
「今、一人やき……ここでかまんが?」
 成美は頷いた。
「さっきこっち着いたとこで、すぐに帰る」
 孝太が笑顔をみせた。成美にはいたって元気にみえた。
「背、伸びたね。どのくらいになった?」
 途端に孝太の表情が曇る。
「わからん」
 成美は首をかしげた。
「しばらく、測ってないの?」
「測っちゅうよ。そっからも伸びたき」
 成美は頷いた。
「前に会ったときは同じくらいだったのに、驚いた」
 顔も男らしくなっている。成美は軽く緊張していた。野球をやめた理由は聞けなかった。
 成美はもう少し孝太と話したい気はしていたが、荷物を玄関に放置して来たので、一度帰ることにした。
「孝太の元気そうな顔も見られたから、今日は帰るね。おばさんに、私が来たこと伝えておいて」
「はや、いぬるかよ]
 孝太が成美の手をとった。大きな手だった。成美は胸を締め付けられた。顔が熱くなるのを感じた。
「ほんとに、ここに一番に来たから……」
 成美は孝太の顔を見ることができずに、目を反らした。
「どいたち、いかんか?」
 成美の手を握る孝太の手に力が入った。成美は孝太を見上げた。
「少しくらいなら……」
 言葉にした途端に恥ずかしさがこみ上げてまた俯いた。
「おまん、うんと汗かいちゅうが」
「走ってきたから……」
 ハンカチも持たずに出てきたことを後悔した。成美はTシャツの襟元をひっぱってあおいだ。顔をあげると、孝太が驚いた顔をして、背けた。
「ちっくとだけでいいき、待ちよって」
 孝太は、家に戻っていった。成美は、大きく息を吐いた。
 確かに孝太なのに、初めて会った相手のようにも感じた。前に会ったときよりさらに声が低い気がした。高知の言葉を聞くのも久しぶりだ。
 さっきから心臓が早鐘を打っている。暑いのもあって息が苦しく感じられた。
 孝太はタオルを持って戻ってきた。
「高知の夏は暑いき。たまらんちや」
 タオルを受けとりまず顔の汗を拭う。石けんの柔らかな香りがした。顔をあげてタオルを首元にあてる。
「居間でちくと涼まんかえ?」
 内容の割に、孝太の口調がぶっきらぼうなので、顔を見た。口をかたく結んでいて、表情がよみにくい。
「いいの?」
「えいで」
 孝太が口元を緩めた。成美は安心した。
 しばらく会っていないから距離を感じていたが、孝太は相変わらず優しい。孝太の後について玄関へ向かう。
「孝太の家、建てかえたんだね。いつから」
「あー、朝になったら新しゅうなっとたがや」
 珍しく孝太が冗談をいうから笑った。
「ほんまんことやき」
 成美は孝太の背中を見て、首をかしげた。孝太が靴を脱いで先に上がる。
「うわあ、靴大きいね。何センチあるの」
 孝太はしゃがむと片方の靴を手に持った。靴裏を確認している。
「二十八て書いちゅう」
 孝太が成美を見上げた。上目遣いでじっと見つめられる。
 成美は借りているタオルで顔を覆い隠した。
 上がってすぐ左手に居間はあった。中に通された。孝太は「さっき点けたとこやき冷えとらんが…」と言った。
 三人掛けの白いソファがあり、そこに座るよう促された。
「かぁくるしいやろ、麦茶でええがか?」
 確かにのどの渇きをおぼえていた。成美は頷いた。
「座っちょいてや」
 小学生の頃は良く遊びに来ていたが、家も変わってしまい、全く知らないのと同じだった。久しぶりで、孝太も少し緊張しているのかもしれない。さっきから、ぎこちない気がしていた。
 孝太はグラスに注いだ麦茶を二杯手に持って戻ってきた。ガラステーブルにグラスを置くと、成美の隣に座った。長い足がガラステーブルぎりぎりでおさまる。
「せばいちや」
 孝太はそう言いながら、テーブルを押しやる。麦茶がはねてこぼれた。
「ちゃっ、しもうた」
 孝太は、近くにあったティッシュを大量に引き出して、テーブルを拭いた。その後で、グラスを一つ成美の前に移動させた。
「ありがとう」
「いんげの」
 成美はグラスを手に取った。汗をかいたせいか、緊張しているせいか、のどがからからだった。飲むと香ばしい甘みが口に広がった。半分ほどのんでグラスを戻した。
「おばちゃんらあ、元気にやりゆうか?」
 孝太を見て、頷いた。
 段々とエアコンも効いてきた。すっかり汗もひいた。二人ともとくに何も言わずに並んで座っていた。
「孝太……」
「なんじゃろうか?」
「えっと、しばらく会わないうちに……」
 格好良くなったと言いたかったが言葉は続かない。
「声も低くなって、すごく変わった」
 不自然でない程度に、誤魔化した。
「そうじゃろう。俺も今朝おどろいてたまげたき」
 孝太がまた冗談を言う。緊張をほぐそうとしてくれているのかもしれない。
「おどろくって起きることだったよね。忘れてた」
 成美は、笑いながら孝太の腕に手をかけた。顔を見て、成美は笑うのをやめた。
 孝太が真剣な顔で成美をみていた。
「うんときれえになっちゅうき」
 自分の頬が紅潮したのを感じて、俯いた。
「おまんは、今なんぼになっちゅうが?」
 成美は、すぐに質問の意味を理解できなかった。年齢は同じなのでわかっているはずだ。誕生日を忘れたのかもしれない。
「誕生日過ぎたし、もう18になったよ」
 孝太が頷いた。
「てこたあ、俺も18になっちゅうがか」
 成美は孝太の顔を見つめた。孝太も目をそらさない。思考がまとまらず動けなかった。言葉の意味は、考えてもわかりそうもない。
「てんごうやき……ごめんやあ」
 そう言ったけれど、表情からも冗談とは思えなかった。
「孝太……何があったかは知らないけど……私、心配で」
 孝太は眉根を寄せた。
「なんか、聞いちゅうがか」
 成美は否定した。
「おばさんに、会いに来て欲しいって言われた」
「そんで……」
 また沈黙に戻った。
「なあ、俺らあ、最後におうたん、中三の夏じゃろうか」
 成美は頷いた。
「三年近く会ってなかった」
「そうながや」
 孝太は額に手の甲を当てると、目を閉じてため息をついた。
「あん時のことは憶えちょるが」
「記憶がないの?」
 孝太は首をかしげた。
「今朝おどろいたら、体が大きいなっとたちや」
 無造作にソファに投げ出された孝太の手に手を重ねた。何も言葉はかけられなかった。
「こじゃんと時間が過ぎちゅうとは……」
  孝太の話だと、高校一年の冬までは記憶があるらしい。今朝起きたときからだと言っている。成美は少し前から症状があるのだと思った。
 記憶喪失と、孝太の母親が伝えてきたことは結びつかなかった。何か他の大きな病気が原因の症状なのかもしれない。
 成美は不安になって、思わず孝太の腕にしがみついた。
「大丈夫やき。なんちゃじゃない」
 孝太が、成美の肩に一瞬触れて、すぐに離した。
「こがーに寄りゆうは、いかんぜよ」
 成美は、体を離した。
「体がな、自分のやないようやき」
 孝太の置かれた状況を考えると、自分よりずっと不安なのはわかっている。それでも、成美は泣き出してしまった。
 汗を拭くために借りたタオルを取って、顔を隠した。
「泣きな」
 そう言われても涙はそう簡単には止まらない。
 去年、ほんの少しでも会っていれば、孝太がどう過ごしていたか話してあげられたかもしれなかった。成美は、孝太が忘れてしまった時期のことを何も知らない。
「ごめんね」
「なんで謝るが?」
「去年も会いにきたら良かった」
「去年のことは憶えとらんきに、わからんけどにゃあ、そん前は、見かけたに俺も声をかけれんで」
 成美は顔をあげて、孝太を見た。
「高一の時?」
 孝太が頷いた。
「会いたかったのに……」
 成美はまた顔を伏せて泣き始めた。
「泣きなゆうたやか」
 孝太が、背中を優しくたたいた。
 しばらくして成美も落ち着いた。鼻をすすり上げながらも顔をあげた。
 孝太の方を見ると困ったような顔をしていた。
「赤くなっちょるちや」
 孝太は「おおきに」と言って、成美の頭を撫でた。大きな手の重みが心地よくて、成美は目を閉じた。
「成美、おまんがあっち行く時、約束しよったこと憶えゆうが?」
 何を約束したかは、憶えている。それでも成美は頷けなかった。
「忘れたがか?」
 そう聞かれて、成美は顔を横に振った。
「ほんまかよ」
 孝太は笑いながら言った。
「同じ大学に行こうって約束でしょ」
 何もわからないままに、その当時親戚が進学した大学へ、待ち合わせでもするような感覚で行こうと約束した。
「勉強、しちゅうが?」
「一応は……」
 正直なところ、約束した大学への進学は厳しかった。
「ごめんな。勉強はしよるんやけど、せっかく憶えたこと忘れたき、間に合うかわからん」
 成美は、俯いた。
「ずつないんやけど、おまんだけでも、いっとうせ」
 成美は孝太をみた。曖昧にほほえみを返す。
「まだ時間はある。あきらめてはおらんきにゃあ」
 孝太は立ち上がった。
「今日は会えたき嬉しかったちや。勉強頑張るが」
 成美は頷いて立ち上がった。孝太の後ろについて、玄関へと向かう。
 廊下の端で孝太が立ち止まった。
 成美は、孝太に近づいて背中に頬を寄せた。孝太のTシャツからは、タオルと同じ香りがした。布越しに、孝太の熱を感じる。肩甲骨に手のひらで触れた。大きくて硬い背中だった。
 孝太の鼓動が速い。成美自身の鼓動も速かった。
 しばらくその音に聴き入った。
 孝太はじっと動かない。成美から体を離した。
「孝太の背え、多分やけど、180ばあ、なりゆうにかぁらん」
 孝太が振り向いた。
「土佐弁ゆえるんやいか」
「それが、すぐには出てこないんだ。しばらくこっちにいたら、ぺらぺらになるはず」
「ほんまかよ」
 あの夏のように、孝太が笑った。孝太が先に玄関のたたきに下りた。成美が下りようとしていると孝太が振り向いた。成美の二の腕を孝太が掴んだ。同時に、引き寄せられ、唇に唇が触れた。成美は、瞬きどころか呼吸もできずに立ち尽くしていた。段差があるから、同じくらいの背丈になっている。
 いつのまにか成美は孝太の腕に包まれていた。
「おまんが、好きやき」
 耳のごく近くで、声が響いた。低く優しい声に目眩を起こす。成美は深く息を吸いこんだ。
「私も……好き」
 ここ数年の時間が一瞬で孝太に埋め尽くされたような感覚だった。
 孝太は体を離した。
 成美は見つめられて、息苦しさを感じた。たえきれず瞼を閉じる。あご先に息が触れた。柔らかな感触が唇から伝わった。
 孝太が、祖父母の家まで送ってくれた。それほど距離はないが、歩いている間ひとことも話さなかった。
「成美、ちくっとでえいで、あいたも来とーせ」
 別れ際に孝太はそう言った。
 成美は、帰って行く孝太の背中が見えなくなるまで見送った。

               ☆☆☆

 その夜、孝太の母親が訪ねてきた。成美を見るなり深々と頭を下げた。
「孝太のために来ていただいて、本当に、ありがとうございます」
あらかじめ電話で話があると言われていたので、座敷に通した。孝太の母親は両手に大きな紙袋を下げていた。
「今日、早速家に来ていただいて、孝太が喜んでいました」
 玄関での孝太とのやりとりを思い出し、後ろめたくもあった。
 二畳分ほどもある大きな台を挟んで、孝太の母親と向かい合って座る。正座はあまりしないのですぐに痺れてしまいそうで心配だった。
 しかし、孝太の母が話を始めると、成美は他のことは考えられなくなった。ひたすら、次々と溢れる涙を拭うのにおわれた。
 孝太の病気は、原因不明らしい。
 名目は記憶障害となっており、その症状は成美が今日感じたより重かった。
 今年に入ってから本人がまず異変に気づいたという。初めのうちは、どうしても思い出せないことが多いという程度だった。
 そのうち、新しい記憶が定着しにくいにとどまらず、今までの記憶を失っていくようになっていった。
 孝太は今、その日起こったことを次の日には全く憶えていないらしい。
 それだけではなく今までの記憶、ほぼ一週間分を毎日失っているのだという。
 孝太の母親は紙袋から、何十冊ものノートを取り出した。
「これは、あの子の書いたノートです」
 成美は一度顔と手を洗うためにその場を離れた。
 鏡に映った顔は、まぶたも唇も腫れ、鼻の下は赤くかぶれてそれはひどい物だった。顔を洗うとしみた。
 成美はタオルで水気を押さえ、新しいフェイスタオルを二枚持って座敷に戻った。
 孝太のノートを手に取った。ひたすら問題が解いてある。
「あの子は京都の大学へ行くと言ってました。あなたと約束したんですよね」
 成美は頷いた。
「症状が進んで、春からは学校に行っていません。最近では、孝太の最新の記憶と部屋や自分の体格に違いがありすぎて、目覚めると必ず混乱します」
 起きてから病気についての説明をしているそうだ。
「あの子には、一時的なものでそのうち思い出せると言い聞かせています。そうすると、いつでも、勉強を始めるんです」
 孝太は一日ひたすら勉強をしているらしい。そして、そのことを次の日には全て忘れている。
「そんなのって……」
「成美さん、孝太は今毎日幸せなんですよ」
  孝太の母親は穏やかに笑った。
「あなたとの約束を守るために必死で勉強しています」
「だけど、忘れるんでしょう」
 声が震える。
 孝太の母親は、成美の顔をみつめて頭を横に振った。
「いつか必ず死ぬのなら、生きることは無駄ですか?」
 成美は何も言えなくなった。
「今日、孝太と会ったのならわかると思います。確かにあの子はそこに在ったでしょう」
 成美は頷いた。また涙が溢れ、孝太のノートにしずくが落ちた。成美は慌てて涙を拭き取った。
「そのノートはあなたに差し上げるのでかまいませんよ」
 成美はノートの表紙を手のひらで撫でた。
「あなたのおかげで、孝太の一日は希望に満ちています。それが次の日には失われてしまう一日だとしても、あの子に生きている実感があるのだから、それでいいんです。あなたには本当に感謝しています」
 そこまで言ってから、孝太の母親は目を伏せた。
「ですが……」
 次の言葉まで長い沈黙があった。
「このまま進行していけば、そのうちにあなたと約束をした日も失われます。その後、あの子がどうなってしまうのか、私にもわかりません」
 さらに出会った日も失われれば、孝太は成美の存在自体を忘れてしまう。
 成美は泣いた。
 孝太の母親が目の前にいることもかまわず声を出して泣いた。徐々に心も落ち着きはじめ、涙が静かに流れるまでになった。
「成美さん、本当にこんな面白みもないノートの山ですが、これはあの子の想いです。あの子が約束を果たせなくても、懸命に守ろうとしたことを、あなたには忘れないであげて欲しいんです」
 孝太の母親は、深く頭を下げて、しばらくあげなかった。成美は、次々と溢れる涙を受け止めながら、孝太の母親のつむじを見つめていた。


               ☆☆☆☆

 孝太の母親が帰った後も、成美の涙はなかなかおさまらなかった。
 布団に入ってからも孝太のノートを眺めていた。
 表紙には、孝太の筆跡ではない日付が書き込まれている。日付が先に進めば進むほど、問題が簡単になっていく。
 また溢れそうになる涙を成美は必死でおさえこんだ。
『あいたも、来とーせ』
 孝太が望んだことだ。成美は約束を守りたかった。
 目覚めてからは真剣に勉強に取り組んだ。
 昨日と同じくらいの時刻に、孝太の家に向かう。
 今度はお土産も忘れずに持った。
 まぶたの腫れは冷やしたので、ひいた。鼻の下は少し皮がむけている。
 あぜ道は通らず農道を歩いた。
 まだ日差しが強い。それでも風は心地よい。微かに潮の香りがする。
 青々とした稲の水面に漣がおきる。
 用水路の底には、水草が揺れている。
 連なる山の上に入道雲がのり、後はひたすら澄んだ青空が広がっている。
 孝太の家にたどり着いた。
 早瀬と書いてある方のインターホンを押す。
 しばらくすると孝太の返事がきこえた。
 モニターの向こうの孝太に笑顔を向ける。
「成美?」
 大きく頷いた。
 すぐに玄関の扉が開いて、孝太が出てきた。


                             〈了〉

嬉しいです♪