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歌詞がもつ「可変性」と、楽曲の「静物」化。

第2章 再考・『PLAY TOUR』


歌詞がもつ「可変性」と、楽曲の「静物」化。

 

 前述したとおり、志磨の楽曲には“歴史”と“誇り”そして、多くの意味が込められている。しかし、実験を通じてわかったのは、志磨の楽曲には膨大な情報量がありながら、直接的な「主張」や「メッセージ性」が少ないということである。言葉を変えれば、「個性」がないとも言える。

 第1章で書いたように、日本ではアーティストのパーソナルな部分や「個性」、また楽曲の「メッセージ性」が重要視されている。その価値観では、アーティストの発言や楽曲の文脈を無視し、一部分を切り取られて使われることはタブーであり、本意以外の誤解を恐れ、防ごうとする。つまりそういったアーティスト、バンドの歌詞にはひとつの意味しかなく、「可変性」がない。
 何通りもの ≪PLAYLIST≫(ストーリー)を構成するためには、文脈を無視して一部分を切り取っても成立する多くの意味と“歴史”と“誇り”が込められ、様々な解釈を生み出すことができる「可変性」が必要である。

 「政治的」とも評された『平凡』の歌詞でさえも、何通りもの解釈ができ(『PLAY TOUR』でも『平凡』から “towaie” が採用されている)、直接的なメッセージはなく、楽曲としての聴きやすさがある。
 どんな楽曲であっても、聴き手によって色んな解釈ができるように、志磨の歌詞は作られている。

 『平凡』9曲目 “静物” のモチーフとなったモランディの展覧会『ジョルジョ・モランディ ー 終わりなき変奏-』(2016年2月20日 - 4月10日 東京ステーションギャラリー)を観た志磨は、このようにツイートしている。




 モランディが「静物」として描いたモチーフは、彼の部屋にあった、ただの瓶や水差し、壺である。モランディはこれらの、いつも同じモチーフを何十年にもわたって何十枚も描き、数多くの静物画を作品として遺した。

 志磨の楽曲もある意味、モランディが描いた「静物」のモチーフに似ている。志磨の楽曲には「個性」や「メッセージ性」、「主張」はなく、≪PLAY LIST≫においては、ストーリーを構成するただのピースにすぎない。
しかし志磨の楽曲には“歴史”と“誇り”、そして多くの意味がこめられている。それらは、モランディが描き続けた瓶に積もった“ほこり”である。
つまり、志磨が楽曲にこめた“ほこり”によって、『PLAY TOUR』は実現し、過去の楽曲を消費させず、芸術として遺すことができるのである。

 モランディによって何十年も同じ部屋で描かれ続けたモチーフが、何度もキャンバス上で“変奏”するように、「可変性」のある志磨の楽曲は、何通りもの ≪PLAY LIST≫ でストーリーを描くことができるのだ。




ただそこにある だけのモノに
なれない いきもの ひと

『平凡』 静物



実際に見ているもの以上に、
抽象的で非現実的なものは何もない。

1955年 ジョルジョ・モランディ



 これほどの言葉の才能を持つ志磨がなぜ、小説は書かないのだろうと疑問に思うファンも多いことだろう。しかし、小説を書かない理由もそこにあるのではないだろうか。ひとつの解釈しかできない断定されたストーリーを作ることに、志磨は興味がない。

 志磨は小説家ではなく、音楽家なのだ。





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