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流血させないようにそれをひらく

 時のおもてには、無数の小さな傷がある。暗礁に乗りあげてえぐれた、北風になぶられて歪んだ、幾億もの星影に穿たれた、それでも流れることを求められ、止まることの許されなかった容易ならざる日々の徴。ことわりもなく、深夜にその傷はひらく。あることすら知らなかった、いつ出来たのかも分からない傷の中心から、背を向けて遠ざかる二人のように、左右に向かってゆっくりと。しんと澄ませた耳が、かすかな悲鳴を聴く。始まりを告げることなく始まる、演劇のようなその声。
 ひらかれた場所からあらわれるのは記憶だ。記憶は横臥したまま顔をあげ、私を視る。何年も思い出されることのなかったそれは、深い孤独の二本線を眉間に刻んでいる。髪は銀色で、幾星霜を経て磨きあげられた美しさのようにも、顧みられなかった憤りによる荒みのようにも見える。記憶は私を見つめる。眼窩に沈んだ目を張りつめ、創痍の満身を静かに起こして、さあ私を思い出して、と迫るように。私は見つめ返す。瞼を金に染めるような、祝福の光を放つ温かな眼差しに対して。私は目を逸らす。瞳に刺さった棘のように、鋭い痛みをもたらす視線のときは。そして瞳を閉じる。指で瞼を覆う。瞼が火のように熱い。

 そう、見るに堪えない記憶を、見つめる必要はないのだから。目を逸らしつづければそのうち、跡形まで失うのだから。私は瞼を抑えつづける。記憶が昏い海の波濤に飲みこまれてしまうまで。あるかなしかの傷痕が、時の水面に残ったとしても。

 時が癒す傷、というものに私はずっと懐疑的だった。留まることを知らない時というものが、留まらないことにはなせない働きをするだろうか。歪んだ傷口を清潔に整え、重い炎症を未然に防ぎ、絶え間ない鈍痛の終わりを約束し、ついには痕さえも消してしまうという奇跡のような働きを。
 私には感じられなかった。そうした意志も適切な技術も、何よりも必要な優しさも。むしろ時は厳しい。ずっと厳しかった。明日も厳しいだろう。時は傷を癒さぬまま、この先も私を運んでいくのだろう。

 それなのに、私を見つめる記憶に踵を返すことができず、手を伸べて抱きしめてしまうこともある。埋葬したはずの記憶をスコップで掘り返す、何かに憑かれた者のような手捌きで。それは、口をあけた傷をゆっくりと覆い、役目を終えれば自然に落剝するかさぶたを、強引にむしり取ってさまう幼いころの習い性がゆえなのかもしれない。   
 私は目を細めて見つめる。今やこの腕の中にある記憶から、葡萄色の血がとろりと滴るところを、桃色の血がうっすらと滲むさまを。指先まで怯えながら、合わない歯をカタカタと鳴らしながら。
 そうして私は書く。止血のために。氷のような言葉を探し、氷点の読点で繋げ、記憶の温度を可能な限り下げることで、夥しい流血を防ぎ、滲む血を凝らすために。痛む記憶を傷ませないまま、静かにそれを悼むために。
 
 今夜も傷がひらく。記憶が私を視る。氷のような言葉を選び、氷点の句点でそれを繋ぎ、融解の夢を見れないほどに固く氷結させなくてはならない。


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