島凪

'I wish l could see the way l did when…

島凪

'I wish l could see the way l did when l was young─'

マガジン

  • 日記という名の短編エッセイたち

    • 137本

    取るに足らない日常の出来事、なんて思うのは本人だけかもしれませぬ。

最近の記事

流血させないようにそれをひらく

 時のおもてには、無数の小さな傷がある。暗礁に乗りあげてえぐれた、北風になぶられて歪んだ、幾億もの星影に穿たれた、それでも流れることを求められ、止まることの許されなかった容易ならざる日々の徴。ことわりもなく、深夜にその傷はひらく。あることすら知らなかった、いつ出来たのかも分からない傷の中心から、背を向けて遠ざかる二人のように、左右に向かってゆっくりと。しんと澄ませた耳が、かすかな悲鳴を聴く。始まりを告げることなく始まる、演劇のようなその声。  ひらかれた場所からあらわれるのは

    • 罅(ひび)と響き

      十一月某日 土曜日  読書会が終わったあと、わずかに浮かせた腰をふたたび椅子に沈め、去りがたい様子で空のグラスを弄んでいたメンバー二人と話しこんだ。どこからそういう話に流れていったのだろう、初老の、すっかり出来あがった一人がまわらない呂律でよたとたと話しはじめた、かの森敦が書けなくなったとき、文体をですます調に変えたら書けるようになったとか、仏様に宛てて書くつもりで書いたら、止まっていた筆が進んだらしい、というエピソードに、私はそっと身を乗りだしたのだった。折しも、人は誰に向

      • 始まりは怖れだったのか、それとも哀しみだったのか

         過去が見せるのは、常に横顔だ。二度と正面から見ることのできない位置にひっそりと立ち、覗きこもうとすれば邪険に振り払われる。過去が語ることは、いつもあったことの一部だ。残りは黙秘すると決めているかのように頑なで、多くを語らぬまま静かに口を引き結ぶ。過去を入れた鞄の中は、幸福よりも後悔の方が多く詰まっている。時を経るほどにその重みを増し、運ぶ私の手の感覚を容赦なく奪う。過去が歌う歌は、埃を積んだ傷だらけのレコードに似ている。耳障りな雑音を恥じることもなく、延々と同じ小節を繰り返

        • Hide and Seek

           最初に覚えた英単語は、Hippopotamusだった。ぽんぽんと歩いて、ぴょんと跳躍するようなイントネーションが楽しくて、ヒッパパトマス、ヒッパパトマス、と体を弾ませながら繰り返した。肩まで届くまっすぐな髪を、れんげの花のように膨らませながら。あいつのことだよ、と父は遊泳するカバを指しながら言った。近すぎる水平線のような背中を、指先でそっとなぞるようにして。いかにも呑気な姿の、惚けた顔をしたカバは、時に俊敏で、大胆な動きをする。しばらく観察していた私は、カバ、と短く呼ぶより

        流血させないようにそれをひらく

        マガジン

        • 日記という名の短編エッセイたち
          137本

        記事

          Drive Drove Driven

           職業的な運転手をしたことはないが、日常的な運転手のキャリアは長い。運転免許証をとったことを、頼まれもせずほうぼうで吹聴してくれた親友のおかげで、口さがない女子四人で旅した白神山地への往路復路を、頭から湯気を立てた新人ドライバーの私が運転する羽目になったのを皮切りに、大学のコンパで泥酔し、渋谷で最終電車を逃した友を、昭和の遺産というより絶滅危惧種と言い表した方が適切なおんぼろアパートまで送り届けたり、エブリデイ金欠、と自分を揶揄していたクラスメートの、運送会社のお世話にならず

          Drive Drove Driven

          優しさ

          あの人は優しかった、と思うとき、もうあの人はいない。ただ優しさだけがそこにある。朽ちることも砕けることもなく、逃げることも隠れることもせず。ここではなく、そこに。 手を伸ばせばそれはやってくる。10年前の、20年前の、30年前の優しさが、光と影の交錯した白い闇を潜り抜け、記憶から失われた顔に浮かぶ柔らかな微笑となって。 幼稚園の先生は優しかった。私が三つ編みに憧れているのを見て取って、肩に付くか付かないかの髪を黒い櫛で綺麗に梳き、三回編んでぎゅっと締め、赤いゴムで結んでくれ

          優しさ

          Stood on Aillte an Mhothair Screaming "Give me a reason"

          感情をフラットに保つ必要のある時期があった。吐く息よりも白い私の両手を包みこみ、薄氷で覆われた両目を覗きこみながら終始おだやかな声でそれを要請したのは、数年単位、あるいは生涯そうあることを私に余儀なくさせるような、凍てつく風の吹きすさぶ十二月の出来事だった。ここに留まるために私は頷いた(ほんとうに留まりたかったのだろうか?)。水平線の向こうまで浚われないように(いっそ浚われたいと願ったのではなかったか?)。 喜怒哀楽を持たないこと。心に起伏を作らないこと。努力は日々の習慣に

          Stood on Aillte an Mhothair Screaming "Give me a reason"

          家を壊す

          平屋の家の修復と増築が決まって、大工さんたちがやってきた。あちらこちらが豪快に破壊され、いたるところで堅牢な足組みが組まれ、そこかしこで青いビニールシートがはためき、菓子折を提げた母がご近所のドアを叩いた。浴室がなくなり、庭の片隅に急ごしらえした露天風呂で、五月の薫風にくすぐられながら沐浴をした。裸電球の下で夕食をとり、お調子者の兄が語る身の毛もよだつ話に泣かされた。くるりとカールした木屑が舞い、くの字型の吸殻が灰皿からあふれ、群青の空に浮かぶ月がいつもより近く感じられた。

          家を壊す

          薬局夜想曲

          色こそ褪せてはいるけれど、小粋なギンガムチェックのハンカチーフを首に巻いた萌黄色のケロちゃんが、黒曜石の瞳を輝かせ、口角の上がった笑顔のまま音のない口笛を吹いている。塗料の剥げかけた鼻先に、華奢なリボンの蝶々をとまらせた柿色のサトちゃんと桃色のサトコちゃんが、未明の空気のように清潔な笑い声をたてている。 透明な硝子扉の向こう側では、白いカウンターが滑らかな曲線を描いている。左右には白い棚がそびえ、赤と青の丸椅子が五つ咲いている。奥に控える小さなフランス窓から、少し疲れた午後の

          薬局夜想曲

          東京・車窓から

          2021年1月10日 眠れない日がつづき、不足した睡眠時間が、覚醒時間を侵食するようになってきた。ホームのベンチに腰をかけた瞬間、意識が重力に負ける。電車のシートに座った途端、身体が青い闇に溶ける。深く眠る時間が欲しい。 でも、誰も時間を分けてはくれないから、自分で何とかするしかない。そうはいっても空っぽの井戸から汲み上げる水はないし、桶を投げ入れればカラカラとむなしい音を響かせるだけ。 今日も東京行きの中央線で眠ってしまったようだ。たぶん、とろんとしたクリームのような形で。

          東京・車窓から

          また、手紙を書きます

          あなたは、と母が大人になった私にむかって幼いころの私を語るとき、字を書きはじめるのが早かった、と必ず言ったものだ。それは、私の祖父である母の父から受け継いだ資質、と母はかたく信じていた。福岡県の、とある中学校で教頭をしていた祖父は、帰宅するとすぐに、仕立てのよい久留米絣に着え、庭に面した静かな座敷で一人、熱燗を飲みながら本のページをめくっていたという。少しウェーブのかかった前髪が額にかかる角度で、ピンと背筋の伸びた美しい正座を決して崩さずに。あなたの、と母は続ける。姿が見えな

          また、手紙を書きます

          むしろ言葉はあり過ぎる

          病気が個性という考え方は押しつけで、自分の差別意識を隠しもしないで多様性に理解があるような風を吹かせる人の常套句、といつにない剣幕で娘がまくしたてたのは、難病を持ちながら歌手を目指すあなたの話を聞きたいです、という唐突な申し出がSNS経由で到着したときだった。 液晶画面に並ぶ罪のない文字に向かって、「絶対に嫌です」と彼女は言い放った。苛立ちながらギターのネックをぐいっとつかみ、しばらくそれを爪弾きながら自分を宥め、燃え上がった焔がようやく鎮火の兆しをみせると、爪の角をやすりで

          むしろ言葉はあり過ぎる

          ヒヤシンス

          一月の初め、鉢植えのヒヤシンスを三株買った私に向かって、「寒いところに置いておくといいよ。」と花屋の主人は言った。厚手の赤いとっくりセーターが、見るからに暖かそうだ。二月の初め、さらに五株買い足した私に向かい、「日向ぼっこさせるといいよ。」と同じ人が言った。白いビニール製のエプロンに、蝋梅の枝が無造作に差しこまれている。 気の利いた言葉の代わりに、飛び切りの笑顔を返し、ヒヤシンスを手に提げて、私は家に帰る。眠たげな長いマフラーをぐるりとまき直し、綿あめのような白い息を顔の前に

          ヒヤシンス

          梟の目と猫の足

          夜は深い。あの森のように。 闇でも視界を失わない梟の目を眼窩にはめこみ、何一つ傷つけない猫の足を装着すると、私は家を後にし、森の入り口に立つ。 道なき道を、音すらなくして歩き、座礁した船の姿をした、古いベンチを目指して進む。野ぶどうの蔓をかきわけ、あらわれた隙間に腰をおろし、手にしたポットの熱いコーヒーで、冷えた体が温まるのを待つ。それから、落葉樹の細い枝に濾過された月あかりを頼りにして、持ってきたパズルに取りかかる。 ピースをはめて、またはめる。悲しみを、歌で埋めるよ

          梟の目と猫の足

          安心して泣ける場所がほしい

          母さんが泣いているのが聞こえたのは、そんな夜だった。部屋から部屋を歩きながら、母さんは泣いていた。僕には聞いたこともない泣き方だった。僕は大声を上げたにちがいない。母さんが部屋に来て、蒲団を直してくれたからだ。「大丈夫、何でもないのよ」と母さんは囁いた。「いいからお休み」。母さんはベッドの足側の、窓の外が見えるところに腰かけて、静かに泣いた。じきに、母さんの肩がふるえ出した。僕は寝たふりをしていた。父さんが戦死してから、母さんはそんなふうに幾晩も泣いた。マーシーが聞いたのは、

          安心して泣ける場所がほしい

          If

          もしも私が30年前の私に戻って偶さかあなたと再会し、あなたに好意を告げられ久遠の愛を誓われたとしても、私はそれを拒むだろう。なぜならあなたはその20年後に、私をひとり置いて死んでしまうのだから。 好きだ、と密やかに囁いたその唇を奇妙な形に歪め、決して逸らすことのなかったその両目を頑なに閉じ、私の首筋に触れたその指を氷のように冷たくして、永久に沈黙するのだから。 そしてその死が私のあらゆる言葉を根こそぎ奪い、息の仕方を思い出せないほどに頼りない日々を与え、どんなに長い時を経ても