見出し画像

損なわれたものを埋めるための作業

毎日おなじ時間、同じ河川敷近くの信号で、大きな弧を描く背中の男性がショッピングカートにすがるようにして立つ傍ら、腰の曲がった女性が重さのない仏像のように立っている。
驚かせないよう慎重にブレーキをかけ、二人の後ろの空間に自転車をそっと滑り込ませるのだが、女性はすかさず脇に退き、ごめんなさいねお邪魔しちゃって、と言いつつ、表情の絶えた男性を庇うようにして少し動かす。
良し悪しの判断を待たずに謝罪が口をついて出るのは、自分達がどうしようもなく脆弱で、社会の流れを妨げているという引け目のようなものがあるからかもしれない。彼女はその二人分の引け目を引き受ける。

夫婦の存在は、私に思い返すことを赦す。私が〈私たち〉だった頃に引いた未来設計図が、頭の中を春風のように過ぎ、年老いた私たちが小さな町で生きる姿が、小石を投げて崩れた水面の像のごとく揺れる。

信号が青に変わり、カートを先頭に、男性、女性の順で、彼らはゆっくりと渡っていく。若干10メートルの横断歩道を進んでいく厳かなものを見届けると、風と水を心の井戸に沈め、点滅し始めた信号機に向かって静かに自転車を発車させる。

読みさしの本を手にしたまま、電車の斜向かいに西日を背にして小さな船を漕ぐ高校生を見つめている。足元にはスポーツバックが胡座をかき、無造作に突っ込まれたタオルが皺だらけの顔を覗かせ、制服の膝の上のペットボトルが飛び降りることの是非について検討を重ねている。陽の下を全力で走り回ったあとの気怠い眠り。うつむく顔の鼻の周りがわずかに赤く染まる日焼けのあと。

娘の頬に羽ばたく赤い蝶の形が浮かび上がったのは4年半前の夏の終わりだった。毎日無防備に太陽に焼かれながら疲れ知らずで遊び回っていたから、紅斑が日焼けの刻印と思う以外にどんな選択肢があっただろう。それが難しい病気の始まりだったと知ったのは冬の始めで、そこに至るまでのあでやかな季節の中、彼女はぬるい眠りを貪り続けた。
夏の名残のような黄金色のふくらはぎが蒲団からはみ出し、フットライトの淡い光を受けて輝く。部屋の隅には、壊れているに違いないと買いかさねた5本の体温計が、直立不動で立っている。

ひとしきりざらざらとした記憶を辿ると、なおも小さな船を漕いでいる人を見詰める。

持たないもの、失ったもの、損なわれたものに私の目は奪われていく。その後に続く感情は羨望や後悔といったものだから、いっそ見ない方が心穏やかなはずだ。それなのに、目を向け視線を注がずにはいられないし、その呪縛から自らを解放することができない。そうして私は、損なわれて生まれた空白をほかの誰かの人生で埋め続ける。沸き上がる感情より、凍りつく空白の方が怖いのかもしれない。

アーネスト・ヘミングウェイの『清潔な、明かりの心地よい場所』から始まる厚い本を鞄に入れて、清潔で明かりの心地よさそうなカフェに入る。先に席を取るよう促す貼り紙に視線を走らせ、空いていた窓際のベンチシートの番を本に委ねる。
ヘミングウェイの隣に座っていた人が、お盆を持って近づいてきた私の顔を眺め、あらあなたの本だったのね?と愉しそうに言う。誰かの置き忘れかと思ったけど置き忘れなんてねえ、ドラマじゃあるまいし、ねえ?

その70歳を超えたくらいの女性は、珈琲を減らすことを恐れるように飲み、スコーンが小さくなるのを哀しむように食べる。ときどき細い左手首から脱走の時をうかがう腕時計を覗きこみ、窓の外の見知らぬ人の流れから見知った人を釣り上げようとするかのように鋭い視線を投げ掛ける。ねえ、と彼女は私の顔を再び見詰めながら言う。
それであなたも誰か待ってるの?私は夫を待っているんだけどいったいどこをふらふらしてるのかしら、ねえ?

彼女と私のカップとお皿が空っぽになる。向かいの駅舎の丸い時計が5時を指している。腰を上げ、それでは、と頭を下げると、彼女は腰を沈めたままさっと左手を上げ、腕時計を滑降させる。
その人の視線が背中で爪を立てているのをありありと感じながら私は歩き出す。その爪に名をつけるなら、羨望と言う名が相応しい。たとえ彼女のそれが誤解であったとしても。

彼女がその窓際のベンチシートに座っているのをときどき見かける。恐らくカップの中身を少しずつ飲み、長い時間そこに座り続け、空想上の夫にすっぽかされた妻を装って、まったくどうしたことかしらと憤慨をしながら、店の人に軽い会釈をしてゆっくりと帰っていく。

それは未来の私の姿かもしれない、と思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?