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始まりは怖れだったのか、それとも哀しみだったのか

 過去が見せるのは、常に横顔だ。二度と正面から見ることのできない位置にひっそりと立ち、覗きこもうとすれば邪険に振り払われる。過去が語ることは、いつもあったことの一部だ。残りは黙秘すると決めているかのように頑なで、多くを語らぬまま静かに口を引き結ぶ。過去を入れた鞄の中は、幸福よりも後悔の方が多く詰まっている。時を経るほどにその重みを増し、運ぶ私の手の感覚を容赦なく奪う。過去が歌う歌は、埃を積んだ傷だらけのレコードに似ている。耳障りな雑音を恥じることもなく、延々と同じ小節を繰り返す。
 過去は、執拗なくせに素気ない。過去は、柔軟さと妥協を嫌う。過去は、孤独を恐れ置き去りにされることを拒む。過去は、目的を持たずその終わり方を知らない。

 過去は私にとって、記憶と等しいものだ。記憶から零れ落ちた過去、記憶に届かなかった過去は、もう私のものでもないし、そもそも私のものではなかった。私がこの世に生まれ落ちた日は、私の所有から旅立ち、それを記憶する私以外の人たちの過去になる。感情の付随しない過去はただの史実であり、顔もなく、何も語らず、羽より軽く、いかなる歌も口遊むことはない。つまり過去とは、私の記憶しているもののすべて、と言えるだろう。

 とうとう右手が痺れ、左手も痛み始めたので、私は鞄の中を探って、過去という記憶を取りだす。陽の光を浴びて愚鈍に光る鉛色のそれを見つめながら、いったいこれは幸福なのだろうか、それとも後悔なのだろうか、と考える。そして、確かめないことだ、と即座に自分に言い聞かせる。それがどんな種類の過去であれ、そのままにしておけばいい。思考というメスの解剖から逃れた過去は、止まらない今に踏み潰され、何かを形成することもなく、時の砂塵となる定めなのだから。過去は親切で罪深い。黙って私を免責し、明日の今を生きなさい、と日々囁いてくれるではないか。
 私は過去を鞄に戻す。そして、腕をさすり、肩を回してからその鞄を持ち上げ、ゆっくりと歩きだす。これまでそうしてきたように。これからもそうするであろうことを。
 今日の鞄は昨日よりいっそう重い。鞄を足元に置き、腰を伸ばしながら私は独り言ちる——私の過去は重くなる一方だ。すっかり陽に干され、からからと甲高い音を立てる落ち葉のようであればいのに、夜露を吸って腐敗を進め、ますます嵩を増やしていくばかりだ。

 かくしてぼそぼそと嘆く私にも、決して乾いて欲しくない、と切実に思う過去がある。いつまでも瑞々しく、ぬるい水を終端速度で滴らせ続けることを願う、芳しくも柔らかな過去が。それは、私がそうに違いないと信じる、私史上最古の過去だ。それこそが私の人生の起点で、私が私を認知した場所で、いうなれば私自身の故郷であるからこそ、どうしても失いたくはない、と思わず持つ手を握りなおしてしまう記憶だ。だが、最も古い過去とはいったいどれなのだろう?私は、いくつかの過去を、カードのように目の前に並べて首を傾げる。有力候補は三つあるが、いずれの振る舞いもそれらしく、判然としない。過去の横顔を見つめ、過去の寡黙から逃れた話を傾聴し、過去の詰まった鞄を抱えなおし、過去の歌に耳を澄ませながら、私は推定が断定に変わるときを焦らずに待つ。

 一つ目は、アメリカ・フィラデルフィアの空港を歩く映像だ。音はない。無声映画映画のように。私の前に父らしき人がいる。顔はない。夢で出会った人のように。
 合成樹脂でできた不自然なグリーンや、搭乗ロビーを覆う無機質なグレーが、ハンマーで叩いても割れそうもない映像に、辛うじて息吹を与えている。捉えどころのない光景の中で唯一鮮やかなのは、前後左右にいる、褐色や漆黒の肌を輝かせてむ巨人たちの姿と、その気配だ。なんども躓きかけながら、私は競歩選手のように足を動かす。そのうち私は走りだす。それでも追いつかない父の背中を見失わないように。火照った体を包むセーターがあまりに熱くて、脱ぎたいと思ってもそれを父に伝えられない。轟音のアナウンスと、人々が張り上げる声のジャングルの中では。誰かが壊れたように笑いだす。胃が捩れるほど可笑しなことが、私には皆目わからないという孤独。外は驟雨で、歩くほどに烟る景色が迫ってくる。自動ドアが開くたびに、湿った空気が押し寄せてくる――母の記録を確かめれば、私はこのとき四歳だった。この記憶には感情があって、それは「畏れ」である。

 二つ目。母の三面鏡が置かれていた小部屋の壁に、F6号サイズの油彩がかかっている。私は跪いてその絵を見ている。時は夕方。季節は恐らく早春。描かれていたものはこうだ—— 暗いブロンドの髪をカールさせた少女が、磔られたキリストを見上げ、祈りをささげている。少女の傍らには、草を食む羊が数頭いたと思う。背後にあるのは剥き出しの岩と、秘め事のような野の花。天空では雷雲が轟き、一筋の稲光が少女の手もとを明るく照らしている。実家の増築工事のために、その絵が壁から降ろされたのは、私が幼稚園に通い出した四月のことだったらしい。つまり、記憶の中の私は満三歳、つまり四歳未満ということになる。私が跪いているのは、燃えるような信仰心からではなく、単に絵の中にいる優雅な少女を模倣していたのだろう。そして、それは日課となっていたのではないか。なぜなら、記憶の私は2パターンあり、着ている洋服が違う。この記憶にも感情が残っている。それは「憧れ」だ。

 三つ目。父方の祖母が腰まで届く髪を、柘植の櫛で梳いている。髪を梳く右手と、その髪に手を添える左手を、私は交互に見ている。髪の色は、わずかに黒が残った銀で、遠目には鈍い灰色に見える。その日、大切にしていた金魚が死んだ。真夏の、茹だるように暑い日だったのではないか。鉢の中の水が湯のように熱くなっていたのを、瞬時に引っこめた指が覚えている。強い日差しが白い腹部を舐めていたのを、瞬きを忘れた目が憶えている。長い髪を梳き終えると、祖母は器用に髪を結い、手鏡でその仕上がりを確かめる。結った髪の曲線は、裏庭に埋めたばかりの金魚を連想させる。この記憶に添えられた感情は「哀しみ」だ。
 先の二つの記憶と異なるのは、この映像=記憶にだけ、音があるということだ。髪を整え終えた祖母は、シュッとマッチを擦って煙草に火を点ける。それから、煙草を灰に吸いこむ音と吐き出される音が繰り返される。私はそれを聴いている。生きているからこそ生みだされる生き生きとした音を、ひどく悲しい気持ちで。祖母は五十五歳で禁煙したと父が言っていた。そうであれば、この記憶は私が四歳に満たないころということになる。

 今、ここにある時を、すでに過ぎ去った時間の最後尾に連なる前に消し去ってしまえば、それは過去にならない。過去に連なった時も、極力思い出さないようにすれば――強固な意志で透明にし、あらゆる感情をねじ伏せてしまえば――それは過去から除かれる。感情が立ち上がり、私に追いすがってきたとしても、根気強く脇に追いやり続ければきっと。だが、先の三つの記憶は、過去形の過去になることを拒み、私の今から剥離しようとしない。剥離を妨げるものは、とどのつまり感情という妖気なのだろう。心に深く刻まれた畏怖と、心の芯まで温めた憧憬と、骨をも熔かすような悲哀が、過去が過去に連なることを許さず、私の今に接続させて、ここに留まり続ける。
 私は畏怖から始まったのだろうか。それとも憧憬からだろうか。あるいは悲哀から人生を始めたのだろうか。今となってはよくわからない。だが、感情こそが私自身の故郷であり、私という人間を湧出した水源であるということを、喜怒哀楽を抱えた過去たちが、小さな声で囁き続ける。そして、畏怖と憧憬と悲哀を滲ませたその目で、初めて正面から私を見据え、私たちの存在をどうか忘れないで、と静かに訴え続ける。

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