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梟の目と猫の足

夜は深い。あの森のように。

闇でも視界を失わない梟の目を眼窩にはめこみ、何一つ傷つけない猫の足を装着すると、私は家を後にし、森の入り口に立つ。

道なき道を、音すらなくして歩き、座礁した船の姿をした、古いベンチを目指して進む。野ぶどうの蔓をかきわけ、あらわれた隙間に腰をおろし、手にしたポットの熱いコーヒーで、冷えた体が温まるのを待つ。それから、落葉樹の細い枝に濾過された月あかりを頼りにして、持ってきたパズルに取りかかる。

ピースをはめて、またはめる。悲しみを、歌で埋めるように。虚しさを、ウォッカで薄めるように。

繰りかえし何度もやっているし、ごくごく簡単な作りのはずなのに、ときどきピースをはめる箇所がわからなくなる。前回はすべて揃ったし、もれなく箱にしまったはずなのに、ときどき最後のピースが見つからない。当惑が漏らした白いため息は、たちまち墨色に塗りつぶされ、戸惑う指の尖端は、泥濘の闇に飲みこまれる。

それでも私はパズルを終わらせなければならない。明日という一日を、また生きるのなら。

闇から引きぬいた指が、パズルの上を彷徨する。そうして、埋められなかった空洞を、鉛色の虚構で満たす。一つ欠いたピースは、希望的観測で補完する。

体はふたたび冷え、珈琲はすっかり冷め、月はさらに熟して、黄身色に変わっている。
とり戻された形ばかりの秩序を掴んで、私は腰をあげる。深い森。私は顔をあげる。
午前1時。

眠りは浅い。あのせせらぎのように。

台所で本を読む私の気配を察知した猫のように、白いパジャマを着た娘が、ふわりとやってくる。
きれいに梳かしつけられていた髪は乱れていて、優しい眠りが訪れなかったことを、寡黙に物語る。お腹がすいた、喉が乾いた、という少女がこぼすような言い訳は、それがここにいる理由ではないことを、暗に仄めかす。

私は本を閉じ、冷蔵庫の扉を開く。私は振りかえる。娘が目を細める。

用意するものは日によって違う。
温めたご飯の真ん中に小さな窪みを作り、こつんと卵を割って落とす。隅までバターを塗った四角いパンを並べ、狐の色になるまで焼く。先っぽで文字が書けそうなくらい硬めに茹でたペンネ。南国のスコールのようにシナモンを降らせたパンケーキ。幻みたいに揺らめくホットワイン。どんなに熱くても常に冷静なココア。一年中切らすことのないカルピスの牛乳割り。

飲みものや食べもの手で、心のネジが緩められると、私たちは言葉の代わりに視線を交わし、パズルに取りかかる。

ピースをはめて、またはめる。私の指に、彼女の指が重なる。彼女の睫毛の先に、私の髪がかすめる。

繰りかえし何度もやっているし、ごくごく簡単な作りのはずなのに、ときどきはめる箇所がわからなくなる。前回はすべて揃ったし、もれなく箱にしまったはずなのに、今夜も最後のピースが見つからない。

それでも彼女のパズルは完成する。
彼女はピースのはめる場所を思いだす。彼女は最後のピースを見つけだす。あたかも、人生という痛みそのものに麻痺してしまったみたいに虚構や希望的観測を日々行使する私とは違って、彼女は彼女の力で秩序をとり戻す。明日という一日を、また生きるために。

眠りの天使が彼女の横に舞い降りて、その青白い腕に触れる。
くれない色の液体を飲みほし、狐のしっぽを飲みこむと、回復した秩序を小脇に抱えて、彼女はふらりと出ていく。
午前2時。

私は闇を見つめる。大きく目を見張り、視線をゆっくり動かしながら、この目が見ることのできない、透明な秩序を探す。
それから、濁った両目を取りだして、静謐な梟の目をはめこみ、疲れて浮腫んだ足を外して、しなやかな猫の足を装着する。

玄関のドアノブを、静かに右に回す。

夜は深い。あの森のように。

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