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Hide and Seek

 最初に覚えた英単語は、Hippopotamusだった。ぽんぽんと歩いて、ぴょんと跳躍するようなイントネーションが楽しくて、ヒッパパトマス、ヒッパパトマス、と体を弾ませながら繰り返した。肩まで届くまっすぐな髪を、れんげの花のように膨らませながら。あいつのことだよ、と父は遊泳するカバを指しながら言った。近すぎる水平線のような背中を、指先でそっとなぞるようにして。いかにも呑気な姿の、惚けた顔をしたカバは、時に俊敏で、大胆な動きをする。しばらく観察していた私は、カバ、と短く呼ぶより、Hippopotamus、と伸びやかに言った方が、優雅ともいえるその雰囲気に相応しいな、という結論にいたる。尤も、萌黄色のワンピースを着た少女が、そうした説明ができるまでには、あと二十年の年月を待たなくてはならなかった。

  父は、仕事柄、英語とドイツ語を流暢に話した。夢見がちな娘が言葉に関心が高いことを見て取ると、手にした言葉の苗を、そのふかふかの土壌に、根気強く植えつけていった。シューベルトの「冬の旅」をドイツ語で歌えるなど、小学校の友だちに言ったところで何の自慢にもならなかったから、それを歌うのはもっぱらお風呂の中だった。恋に破れた青年が生きる希望を失い、凍てつく冬の世界を彷徨うあいだの体験を、恋を未だ知らない少女は、朗々と歌い上げる。
 あの頃は、ドイツ語よりも英語を覚える方が楽しかった。ドイツ語は、私にとっては顔のはっきり見えない国の、少しよそよそしい言語で、Tシャツの胸に列をなす英語の方に、より親しみを感じていたのかもしれない。
 あかね色の葉を拾ったり、珍しい切手を集めるように、新しい単語を覚えては、視えない抽斗にしまった。'Abandon'、'Distance'、'Backyard'… 。手放す、隔たり、裏庭、といった言葉を、年端のいかない子どもが偏愛したのはなぜだろう。その泡沫のような言葉が、年を重ねるにつれ硬質となり、その後の私の人生の鍵になるとは想像もしないで。そうした日々の中で、Hide and Seek (かくれんぼ)という単語に私は出会ったのだった。「ヘンゼルとグレーテル」や、「ゆりあとぺむぺる」のように、耳と心をくすぐるその言葉に、一目で恋に落ちた私は、この単語をことさら大切に抽斗にしまい、ときどき取りだしては手に載せて眺めた。

 一人の少年がやってきたのはその頃だったと思う。繊細な弧を描く眉毛と、青い炎心のような瞳を持つ、長すぎる手足にいささか戸惑い気味のその少年と私は、気づけばいっときも離れることなく毎日を過ごしていた。並んで朝食を食べ、手を繋いで学校に行き、授業中も目を合わせてはくすくす笑い、膝を突きあわせて宿題をした。私より少し背の低いその少年には名前がなかったから、最初、私は彼を「きみ」と呼んだ。次第に「きみ」なんてあんまりなように思えて、「ひで君」と呼ぶようになった。もちろんそれは、Hide and Seek から借りてきた名前で、Hide:隠れる は、ローマ字で読めば「ひで」になる。ねえ、ひで君、と私は心の声で彼を呼んだ。私の心の声を聴き取れる人は、彼以外いなかった。ひで君のことが視える人は、私を除いていなかった。
 男女を問わず友だちには不自由していなかったし、ガキ大将の兄の恩恵で私をいじめる輩はいなかった。両親は揃い、家庭に転覆の気配もなかった。何ら不足のない、平凡な日々の裂け目に、突如萌芽した彼のことを、私は訝ることも否むこともしなかった。私たちはただ共にいた。そうすることが自然だった。きみが誰であろうとも。

 「キティ」という名の友人に向けて日々手紙を書き送ったアンネ・フランクや、スティーブン・ミルハウザーのペン先から生まれた螺鈿細工のような心を持つ子どもたちや、人形や縫いぐるみに情を移し、どこに行くにも連れて行く少年少女たちは、他者の視線を怖れなかったし、恐れることはないだろう。そんな人間は存在しない、人形に心などありはしない、と嘲笑う人たちは、この世界の半分しか見えていない。「誰か」は常に現実よりもリアルで、「きみ」は今この瞬間、そこに居るのだから。
 長じて私は母親になり、小さな娘を連れて、週に何度も小児科の扉を押すようになる。ときどき、目が痛むほど白い待合室に、薄汚れたくまのプーさんをしかと抱えている女の子を見かけた。傍らにいるお母さんが、眉を寄せて彼女を叱責する。この前も言ったでしょう、病院はバイ菌がいっぱいなのよ、なんでまた持ってくるのよ?女の子は啜り泣く。連れてこなくてはならない理由を話すすべをもたないから(置いて来ちゃったらぷーさんがしくしく泣くの、私を追いかけるうちに迷子になっちゃうかもしれないよ)。お母さんはこの先もきっとと声を荒げるだろう。連れてこなくてはならない理由などあるはずもないのだから(汚いないし、もうぼろぼろね、捨ててしまおう、また新しいのを買ってあげればいい)。
 私は、どんよりと曇った眼でその母親を眺める。娘は、熱でとろけた目を哀しむ子に向けて、その腕にしがみつくミッフィーちゃんを、ぎゅっと抱きしめる。

 年端のいかないころから、ずっと誰かを探してきたような気がする。周囲には、大らかで、親切で、底意地の悪い子どもたちがたくさんいた。本の中にも、持つ国籍・生きる時代のさまざまな、ときには人の言葉を話す、正体不明な子どもたちがページの襞に潜んでいた。探している誰かが、誰であるかも判らないのに、どこかにきっと誰かがいる、と思えた。Hide and Seek。巧みなまでにかくれんぼを続けるその誰かが、私にはひどく必要だった。
 人が一生という名の渓谷を歩くとき、独りでその過酷を越えられるのだろうか。悩んだり、迷ったり、悲しんだりしたとき、話を聞いてくれる、背中をさすってくれる、共に泣いてくれる他者の存在が、自分の内側に必要なのではないか。私の「誰か」は、そうした「自分の中にいる、完全に自分の味方である他者」であったのだと思う。自分一人ではとうてい生きていけないことを、形のない心細さとともに、私は早くから強く感じていた。ひで君は、そんな私が探しあてた「誰か」だったのだろう。

 中学校に進学してしばらく経ってから、彼の名を呼ばない自分に気づいた。あれほど慣れ親しんだ顔も、淡い記憶のようにぼやけて像を結ばない。新しい生活に、身も心もどっぷり浸っていたとはいた私を見限って、彼は出て行ってしまったのだろうか。さよならも言わず、振り返りもせずに、私の胸の中で永遠に死んでしまったかのように。完全に自分の味方である他者を失った私は、滑らかな肌の下に大きな洞を隠した薔薇色の頬を持つ少女だった。喪失感、という血の流れない苦痛に耐えながら、私はころころとよく笑った。その消えない痛みを、束の間であれ鎮静するために。

ーーあなたとよく似た女優が主演をしてるんだよ。内容もなかなかいいし、観ておいで。キェシロフスキ監督の『二人のベロニカ』。東急bunnkamuraのル・シネマ。あと30分したら始まっちゃうから急いで。

 もう何時間もカウンター席に座り続けている常連客が、私に声をかける。曇り硝子越しに見える山手線の発着を眺めていただけの目を、私はオーナーに向ける。客の隣でエスプレッソを啜っていたオーナーが顔を上げ、いいよ、今暇だし、と言って手を伸ばし、私の黒いエプロンを受け取る。六月。渋谷の某ジャズ喫茶の階段を駆け降り、ところどころ歪んだガードレールに沿って歩く。絞れば滴るような空気が、顎にかかる直線の髪を波状に変える。国道を跨ぐ歩道橋を渡り、喧騒の中を努めて直線に進み、スクランブル交差点を突っ切り、額に汗を滲ませながら文化村通りを早足で歩いていく。
 かねてからそういうことがよくあった。時給八百円のアルバイト中であるにもかかわらず、近隣にあるユーロスペースでタルコフスキーを観たのも、パラジャーノフを観たのも、その常連客の推薦と、オーナーの追従によるものだった。労働は浪費と考える大らかな店の、過熟した果物に似た豊かな時間だった。

 万華鏡に迷い込んでしまった蝶のように、私は羽を畳んでスクリーンを見つめた。琥珀色と、褪せた緋色と、澱む緑色と、冷えた空色が、膝の上にある私の手の甲を同じ色に染めていく。クラクフとパリの地面を覆う石畳の硬さを、革靴で覆われた私の足が経験する。
 ポーランドに住み、唐突な死を迎えるベロニカが、生前「私が二人いる」と呟く。もう一人のベロニカがいることも、そのベロニカが死んだことも、知る由のないフランスに生きるベロニカは、「私は一人になってしまった」と感じる。他者の存在を感じながら死に、その喪失を感じながらなおも生きる二人のベロニカ。ビー玉がその表面に映すこの世界の境界線。茜色のグラスに沈む落日のようなティーパック。雨が深める夜。影がひらく闇。エンドロールが流れる前で、忘れかけていた喪失感に胸をえぐられた私は、視えない血をだらだらと流し続ける。

 主演女優と私は似ていませんでしたよ。ただ、髪型はそっくりでしたが。でも、映画は素晴らしかったです。愚にもつかない感想を、吸い殻でピサの斜塔を築きながら待っていた常連客に向かい、ぼそぼそと私は言う。彼は苦く笑って、似ていると思わないのは、あなたが自分を何も知らないからだ、と手にしたウオッカを睨みながら、ほとんど警告するように言った。

 ふたたび私は誰かを探し始める。その誰かの消息を掴めない限り、私は永久に行方不明であるような気がした。私の中にある昏い洞と、映画『二人のベロニカ』と、常連客に言い放たれた言葉が、風の吹き渡る夜半の竹やぶのように、ざわざわと耳障りな音を立てた。私は本来二人いて、その一人を欠いている、という仮説を立てると、私の中にある鈍いこの欠落感を、鮮やかに説明することが出来そうだった。
 ただ、探している誰かが、私から出ていったひで君なのか、ベロニカにとってのベロニカのような、未知なる親密な人なのか、私にはわからなかった。次第に、両方なのかもしれない、と思うようになる。失ったものと、出逢っていないもの、その両方を、私は執拗に求めているのではないか。
 男の子と親しくなると必ず、ひで君だろうか?と訝りながら、その人を記憶の像の上に重ねた。ダブリンの街角で、あなたにそっくりな人を見たよとクラスメートに言われると、研磨した眼球を嵌めて、夕方の猫のように街を歩いた。本をよく読んだのは、現実に遭遇することを半ば諦めかけた私の無力が、心を重ねることのできる誰かを、物語の森の中に探しだそうとしていたためなのかもしれない。Hide and Seek。かくれんぼを続けるその誰かを、私は探し続ける。

 私の沈黙の意味を理解し、それを責めないひとに、間もなく出逢ったのは幸福なことだった。大学院の入学許可を得ながら、その水準に自分英語が至っていないという不安が、私をひどく怖気づかせ、ただ静けさを糧に生きていたようなときだった。彼女は、私よりきっかりひと月前に生まれた、同じロンドンの大学院に通う、フランクフルトから来た人で、幼少期に私が抽斗に入れたドイツ語を取りだしてみせると、無邪気な野の花のように、屈託なく笑った。大袈裟なコメントや、大ぶりなジェスチャーもなく、ただ微風に揺れる小さな花のように。
 私がアイルランドに移り、彼女がアメリカに渡ったあとも、手紙やメールが私たちのあいだを行き交い続けた。彼女に電話をかけようと受話器を取ったとたん、彼女の声が聞こえるという偶然。時を同じくして送信しあった、殆ど内容の同じメール。私の入院中の彼女の入院。私が人生に行き詰ったとき、そうとは知らない彼女が私の進むべき道を暗に指し示し、彼女が絶望しかけた夜に、何も知らない私からの手紙を開いて思いとどまったこともあった。
 今も彼女は、ここから遥かな場所で、私のすぐ近くにいる。『二人のベロニカ』のように、死して、生きる他者を支える他者ではなく、生きて、生きる他者を支える他者であり続けてくれている。

 私にとって、恋愛というものは、わからない誰かを探しあてたいという熾火のような動機が、喪失の風に煽られて燃え上がる感情だったのかもしれないと、今になって思う。私の激しい崩落と、静かな欠落を埋める誰かを、ひで君のような存在を、私はずっと恋人の背中に投影し続けてきたのかもしれない。この人に違いない、と思うこともあったが、そうではなかったと踵を返すことの方が多かった。夫は、ひで君ではなかったが、別の誰かであることは間違いなかった。ただ、彼はこの世で生きるのにはあまりに透明すぎて、四十五歳で死んだ。

 最近、 'Plunge into the unknown' という言葉に出逢った。「未知への跳躍」。いい言葉だ、と思う。Hippopotamusという、あのぴょんと跳躍するようなイントネーションに魅了されて、身体を弾ませて歩いた遠い日を思い出す。古くはなったがまだ現役の、視えない抽斗に収納したあと、少し考えてそれを取り出す。言葉の最後に、'again and again'を接続させて、左から右へと視線を動かす。「未知への跳躍を何度も繰り返す」。抽斗に戻さず、そのままポケットに入れ、白い仕事鞄を右肩に提げて、コスモスの影が微かな痕をつける静かな朝の門を越える。

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