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家の二階、突き当たりの部屋の西向きの枕


曾祖父が建てた平屋の一軒家を増築したのは40年前のこと、日ごと上昇していく階段を見るのがそれは楽しかったのよ、そのうち天国まで届くんじゃないかって、と笑っていたお母さんは今、その14段の階段を上り切って右、細い廊下の一番奥にある西の角部屋で眠っている。鎌倉彫りのお盆に乗せた湯飲みを倒さないよう、脇を閉めて顎を引き、そろりそろりと進んでいく。少し濃すぎたかもしれない。立ち上る緑茶の湯気が鼻の奥をしたたかに刺す。

部屋の扉は引き戸で、さして力も要らず簡単に開くけれど、ガラガラと喧しい音がするからちょっと苦手だ。私は黒板に爪を立てる音とか、雪平鍋をタワシで擦る音とか、アルミホイルをナイフで引き裂く音といった世界を歪曲させるような音が嫌いで、空かさず耳を塞ぐ。そうは言ってもお盆を持ちながら耳を塞ぐ手だてはないから、奥歯を強く噛み締めてその5秒を耐える。あとでギターを弾けばよい話だ。ピンと爪弾けばたちまち世界はもとの姿に回復する。

お母さんは眠っている形をしているけれどいつも眠っていなくて、私が扉を開けると必ず目を開け、寝返って私に顔を向ける。背中で話せばいいのに、目を見て話さないといけないのだと言う。そんな決まりを作ったのは誰だろう。言葉は何かを隠すために話されるものであって、本当のことは話されない言葉の中にある、話されない言葉は眼の中にあるのよ、といつかお母さんは話した。私の言葉を端から信用していないだけかもしれない。でも、言葉を信用している人の方が何だか信用できない気がする。

いまから4年前の夏休みに、私は難病を発症した。毎日短パンにTシャツ姿で、髪をお団子で高く結い、友だちとプールに行ったり祭りの屋台を冷やかしたり駅から遠い郊外のアウトレットモールにその場のノリでひいひい言いながら歩いたりした。日焼け止めも日傘も帽子も被らないで、ときどき日陰で休憩して、飲み物だけは絶やさないようにして。
熱中症の怖さはおばあちゃんが救急搬送されたから知っている。あのひとは庭弄りが好きで、夢中になると時間を忘れてしまう。庭でぼんやりしているところをあの日私が見つけなかったら、おばあちゃんはもうこの世にはいなかったはずだ。

そんなよくある夏休みのよくある過ごし方をしたあと、私の頬は赤く染まった。太陽を呪いながらカーマインローションを朝な夕なたっぷり染み込ませてみたけれど、薄くなるどころか日に日に濃くなっていくような気がする。身体中が怠いし、髪の毛もすくほどに抜ける。11月に行われる中学校合唱祭の伴奏を引き受けたので、暢気な私にしては毎日まじめにピアノの練習をしていたのだけれど、指の関節が痛んでど最後まで弾けない。

ねえ、ピアノが弾けないよ、と私が憤然として言ったとき、お母さんは洗濯物を干す手を上げたまま止めて、褪せない私の赤い頬を長いこと見詰めた。
内科に連れて行かれたのは翌日、それは9月の終わりのことで、うんざりするほどいろいろな病院をめぐり、信じられないくらいたくさんの検査を受けて、診断がついたのは11月、折しも私の誕生日だった。

お母さんは悔いていた。真夏の太陽に私を引き渡したことを。日焼けを避けるよう煩く注意しなかったことを。蝶の形をした頬の斑を訝しく思わなかったことを。それからだったと思う。私の顔を見詰め、じっと目を覗き込み、どんな些細な話も聞いてくれるようになったのは。

7年前、お母さんは大病をした。お母さんが落ち着いたころにお父さんが去った。お葬式に納骨式、遺品整理に引越しと、病み上がりのお母さんが忙しくしているのを私は怒ったような顔をしてただ見詰めていた。
あのときの感情については分析したがるのは大人の悪い癖だ。先生や友だちや近所の人たちがなんとなくよそよそしくなって、習い事をやめたり、家が変わったり、毎日どこに帰ってどこから出ていけばわからない計画性のない旅みたいなあの日々を私はできるだけ思い出さないようにしているのだけれど、それは床下の貯蔵庫にある保存食のように腐敗することなく状態が保たれていて、いつまでもいつまでも記憶の底にある。
お母さんはよくご飯を食べながら居眠りをしていた。お箸を落として、お味噌汁を溢して、それでも気がつかずに目の縁を三日月のような形にして、静かに舟を漕いでいた。

この4年間、私の入院とお母さんの入院が交互に続いた。私が入院しているときは、毎日お母さんが病室に顔を出すけれど、お母さんが入院しているときは、私は滅多に行かなかった。免疫抑制剤を飲んでいるから感染症にかかりやすい。そんなに来ないでいいのよ、とお母さんは言う。それはつまりあんまり来てほしくない、ということだ。
私はお母さんの目を覗き込む。言葉は何かを隠すために話されるものであって、本当のことは話されない言葉の中に、眼の中にあるのよ、とお母さんが言っていたから。

お母さんが入院しているあいだ、私は台所のシンクを重曹で磨き上げ、床もきれいに掃いて雑巾で拭き上げ、ダイニングの掃除もぬかりなくした。犬の寝床も気持ちよく整え、お母さんの温もりが足りない分、毛布を多目に敷いてあげた。でも、私の部屋は何もしなかった。起きたときの形で眠り、飲んだコップはそのままにした。乾いた服は部屋の隅に山と積んだ。私が無気力だったからではなくて、私はほんとうに無力だったのだ。

眠る前、体育座りをして足の指を確認した。指の長さは変わっていないか。おかしな湿疹はないか。奇妙な色に変わっていないか。爪を押したら溶けたりしないか。別に長くなっても短くなっても湿疹が出来ても紫になっても構わなかった。いっそ溶けてなくなって歩けなくなればいいと思うのに、もう一度確認した。だって溶けてなくなったら、お母さんはまた自分をとことん責めるに違いない。

私が小さかったころ、お母さんは眠らないと思っていた。目が覚めると洋服を着ていて、おやすみなさいを言うときも洋服を着ていたから。パジャマがないから眠れないのかもしれないと思って、水玉模様のパジャマと縫いぐるみの熊を画用紙に描いてプレゼントしたことがある。お母さんはとても喜んだ。嬉しい、これでゆっくり深く眠れるな、と。私は怖くなった。眠りが深くて底なしでそのまま目が覚めなかったらどうしよう。翌日、私はその絵をできるだけ小さく千切って、急いでごみ箱に捨てたのだった。

〈物語というのは生きていて、切れば血が出る〉と岸政彦さんが書いていた。だいたい文脈を無視してある一行を鋏で切り取るのは、大きな絵の端に描かれた小さな天使の羽を虫眼鏡で見るようなものでほとんど意味がないと思う。でもこの文章は妙に心に響いたので、私は慎重に切り取って透明なスクラップ帳に貼りつけ、ときどきそれを開いて眺める。
私の物語も生きている。だから誰かが傷つけたら血を流すのだ。でも、流血の事態は避けたいから私は歌を歌う。歌はちっぽけな私を守る繭のようなもの。歌を口ずさめばそれが糸になって私の周りをくるくると覆っていく。そこから見える世界は白濁していて光が蕩けていて、どこまでも優しい。

お母さんは立てになって湯飲みをそっと受け取り、両手でそれを包んで微かな音を立てながらぬるいお茶を飲み干す。私は誕生日にあげた花の水を換える。百合の茎を少しだけ切り、細い瓶の頚を傾けて、排水口に吸い込まれる少し匂うはずの水を息を止めて見送る。

部屋に戻るとお母さんはまた西向きの枕に頭を乗せて横になっている。昔ちっとも眠らないと思っていたひとはこうやって眠っていたのだ。幼いころの私はなにも知らなかったのだと知ることが、大人になるということなのだろうか。そしてその〈なにもしらない〉という純白さが、幼い私を哀しみから護っていたのだろうか。
そんなことを思いながら青みがかった白い瞼に視線を落としていると、お母さんは眼を開き、そして私の眼を覗き込む。私もその眼を覗き込み返す。高い波が立ち、真白い鴎が旋回し、寄せては返しやがて凪いで、なにごともなかったかのようにすべてが水平になって、静まる。

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