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Drive Drove Driven

 職業的な運転手をしたことはないが、日常的な運転手のキャリアは長い。運転免許証をとったことを、頼まれもせずほうぼうで吹聴してくれた親友のおかげで、口さがない女子四人で旅した白神山地への往路復路を、頭から湯気を立てた新人ドライバーの私が運転する羽目になったのを皮切りに、大学のコンパで泥酔し、渋谷で最終電車を逃した友を、昭和の遺産というより絶滅危惧種と言い表した方が適切なおんぼろアパートまで送り届けたり、エブリデイ金欠、と自分を揶揄していたクラスメートの、運送会社のお世話にならずに決行した力任せの引っ越しのために早朝から車を出したこともあれば、ついでに世界を滅亡させかねないほどに壮絶な喧嘩をして別れたカップルの片割れに泣きつかれ、はるばる朝の六本木まで迎えに行った車で、請われるままに神奈川の三崎までドライブをしたことすらある。あきらかに情緒不安定の彼女が、爆音で車内を流れるQUEENのボヘミアン・ラプソディを歌いながら咽び泣くさまを、バックミラー越しにこわごわと眺めながら。
 お人好し、と笑われるだろう。実際、そうだったのだから仕方のないことだ。今にして思えば、運転が好きだったという不動の事実が、すべての愉快と不愉快の始まりだったと言えるのではないか。日本の大学生という身分の、世界に類を見ない身軽さに加え、根っからの運転好きは、頼まれたことを嬉々として断らなかったのだった。

 窓をあけて運転をするのが好きだった。早朝のナイフのような空気が顔を繊細に切り裂くのも、ぬるい午後の南風が髪を四方に躍らせるのも好きだった。水平線に沈む夕陽がハンドルを操る私の腕に太い道を描き、自らを消すことでそれを消し去るまでのパフォーマンスを目の端で鑑賞するのも。そして、極彩色のネオンが無愛想なシートをポップに変える瞬間や、潮の香りが溶けた夜風が首筋をゆっくりと渡る時間を心から愛した。髪型が乱れるから、肌が荒れるから、花粉症だから、寒いから、暑いから、と車中の人たちはそれぞれののっぴきならない事情を片手に、ぶつぶつと文句を言ったが、私はそれらを柔らかく受け流しながら運転を続けた。頑固だ、と眉をひそめる人がいても構わない。実際、これだけは譲れないいうことを、誰しも一つくらいは持っているのだから。

 多忙な団体に就職すると、運転する機会はぐんと減った。終電に乗り、終バスに乗り、新幹線に乗り、飛行機に乗る私は常に乗客で、運転する時間も、窓を開閉する自由も根こそぎ奪われた。ただ、どんなに疲労困憊していても、運転したいな、と思う気持ちは欲望の井戸の底で枯れることはなかった。街中でダンプカーや観光バス、仕事を終えた消防車をみかけると、運転席によじ登り、その巨大なハンドルを両手でぐるっと回したい、という衝動に駆られる。外交官を乗せる公用車の傍らで、待ち人来ずの顔で立っている彼らに暇を願い、半日限りの代行運転を申し出るさまを妄想することもあった。
 いったい運転の何が、そんなにも私を魅了したのだろう?

 『ホンダジイジ』と呼び慣わされていたのは、祖父の愛車が、ホンダの小型ピックアップトラックだったからだ。花屋を営んでいた彼は、その車で市場へ仕入れに行き、その車で配達に向かう。朝から晩まで働きづめの小さなトラックは、汚れる前に洗車され、メンテナンスも抜かりなく、見るからに大切にされていたが、人になぞらえば、過労で倒れる寸前だったのではないか。なぜなら、休日はまだ暗いうちからエンジンを蒸され、釣りが唯一の趣味である運転手を乗せて、夜明けの首都高を疾走しなくてはならなかったのだから。
 午前六時。東京都下に棲む私たちの家に、祖父のホンダがやってくる。寝覚めの良い私が、急いで寝覚めの悪い兄の体を揺さぶり、七十パーセント程度起こす。水揚げした蛸のような体を、祖父と協働してトラックに運び、助手席に押しこむ。走りはじめた車の窓から流れこむ、清潔な朝の空気が車内を満たすころ、眩い太陽のスイッチがオンになる。
 釣る魚は、季節や場所によって変わった。今日はどこにいくのかな、何を釣りにいくのかな、小声で話しかけると、兄はくしゃくしゃの髪の毛で顔を半分隠しながら、グググ、ズズー、といびきで答える。
 祖父はいつも、前身ごろにポケットのずらりと並んだ防水チョッキを着ていた。足もとには、磨き上げた長靴が向きを揃えて置かれ、荷台には、よく手入れされた釣り道具と、祖父の手製のお弁当がきれいに積まれていた。何度見ても胸のすくようなその光景を両目で堪能したあと、今日のお弁当は何かな?と私は自問する。けたたましいいびきと、これ以上会話をしても仕方がない。
 初恋の相手を問われたら、私はこの祖父を答えにするだろう。釣りをする祖父よりも、運転をする祖父のほうが何倍も格好良かった。実際、朝から夕方にかけて私たちは川や海で過ごしたはずなのに、その手の記憶はほとんどない。あるのは運転する祖父の横顔や、きびきびとした腕や足の動きばかりだ。とりわけ忘れがたいのは、窓から上半身を出し、後ろを注意しながらするすると所定位置に車を入れるそのテクニックで、毎度おさな心をわしづかみされた。初恋は、野の花のような小さな憧れから始まるものなのかもしれない。そして、初恋だからこそ、忘れられないものになる。
 運転というものは、良しにつけ悪しきにつけ、その人の性格の影響を免れないのだろうか。誰よりも温厚で優しく、穏やかな祖父の運転は、波一つない朝の海のように滑らかで、ブレーキを踏んでも微塵の衝撃すら感じさせなかった。学校行事でバスに乗るときは、一番前のシートが定位置の、新聞紙で目隠しされたビニール袋をいっときも手離せなかった兄ですら、車酔いをすることがなかった。
 三つ子の魂百までとはよく言ったものだ。兄も私も、免許が取れる年齢になると、迷うことなく教習所に通いだす。兄は大型バイクの免許もとったが、深夜、道から逸れてバイクごと大破し大怪我を負うと、自らの意志で自動車だけの人生に舵を切った。祖父がそうであったように。

 小学生のころから自転車をばらばらに解体し、一から組み立て直すほどのメカ好きだったその兄は、早くから運転ばかりでなく、車という巨大で繊細な機械に心酔していた。お金の自由が利くようになると、歴代パートナーに言わせれば「凡そ鼻持ちならない」外車を、次々と乗り換えていく。ただ、車の派手な外観とは似ても似つかない穏やかな運転をすることについては、一貫して周囲の人たちを驚かせていたようだった。
 彼とは異なり、車自体への愛情は羽のように軽い私も、運転に関しては兄と似ていたらしい。真っ赤なコルベット・コンバーチブルをレンタルし、ルーフを開いてオワフ島を駆け抜ける私の右隣でずっと背筋を凍らせていた恋人は、車高が低すぎてめちゃくちゃ怖かったけれど、落ち着いた運転に救われたよ、とよわよわしい声で簡素な感想を述べた。アイルランドで、映画『タイタニック』に魂を奪われ、家でも車でもセリーヌ・ディオンの絶唱を流しっぱなしの知人の依頼で、何度となく彼女の車を走らせたが、あなたの運転は心から安心できるので、『My Heart Will Go On』を聴きながら思いっきり泣くことができて嬉しい、と複雑な褒められ方をした。幸いにも私たちきょうだいは、両親の問題だらけの運転スタイルを贈与されることなく、祖父のまっとうな運転技術だけを相続したのだろう。
 物静かな父の面の皮を裏返せば、極度の腺病質が現れることを、父の運転を通じて知った。後部座席に座るきょうだいがお喋りに花を咲かせると、黙りなさい、と発火する。ゲラゲラと笑い声をあげようものなら、降りなさい、と冷水をかける。命を預かる運転には静けさが必要なんだ、と、いかにも尤もらしい意味不明な理論を父は掲げたまま決してそれを降ろさず、おかげで私たちは終始緊張し、例外なくべろんべろんに酔った。とりわけ兄の酔いっぷりは烈しく、ビニールを握ったままぐったりしている我が子の姿にいたく感情を乱された母は、半ば強引に父からハンドルを奪い取る。お葬式じゃあるまいし。ばかばかしいにもほどがあります。
 そういう母の運転も、父とは異なる理由で安心にはほど遠かった。青に変わるのがのろい、黄色になるのが早い、といちいち信号機に文句を言い、ウィンカーを出すのが遅すぎる、と対向車線の車を罵り、車間の取り方がなってない、と後方車を憤り、高速でこのスピードはないでしょうに、と先行車に向かって叫ぶ。まさか聴こえないよ、ね?と、私は目をかっと見ひらき、首まで蒼白になった兄に向かい、同情と心配と恐怖の入り混じった低い声で話しかける。

 病院を終え、助手席でうっとりと眠っている母を起こさぬよう、静かに運転する。細くあけた窓から流れこむ風が、すみれ色のソフト帽からあふれる銀の髪をそっと弄んでいる。息をふっと吹きかければ、跡形もなく消えてしまいそうだ。優しい春風にさえ抗うことのできない、たんぽぽの綿毛のように。
 毎年春に繰り返されたお花見の記憶を、二人で笑いながら語り合いたい。燃えあがる銀杏並木を見上げながら、娘の生まれた日の回想を共に出来たら嬉しい。しかし、もはやすべては聞き遂げられない祈り、私の切ない片想いだ。今の彼女はそうした願望から、遥かな場所にいる。
 お母さん、と私は小声で呼びかける。ときどきあなたは私が娘であることを忘れるが、私はあなたが母であることを忘れはしない。
 無反応という静けさに耐えかねて、信号待ちのあいだ、私はSpotifyを操作する。プレイリストの#3を取り出し、スタートボタンを押す。それから、母を見る。

 国道に入ってほどなく、オーディオを操作していた助手席の刑事が、おもむろにスタートボタンを押す。運転席の刑事が、後部座席に座っている私をバックミラー越しに見る。私も、バックミラーを通して、運転席の刑事を見る。私を見るその目に感情がある。私が彼を見る目は、どうだったのだろう?

 それは、予想されなかった夜だった。午前八時、小学校に向かう娘たちを送り出した。彼女たちは、カイロで暖めたコートのポケットから小さな手を出し、大きく手を振る。いつものように。八時十五分、娘たちの夢を形にしたようなクリスマス・ツリーに見送られて家を出て、私は仕事に向かった。昨日と同じように。午後三時、授業が終わり、彼女たちは学童保育に向かった。毎日そうしてきたように。午後六時、仕事を終えて、私は電車に乗った。何ら逡巡することなく。最寄り駅のプラットフォームに電車が滑りこんだとき、電話が鳴る。急いで降車し、スマホをスワイプする。

 私の目の中に、何かを認めたのだろう。運転席の刑事はミラーから目を逸らし、前方にその目を据える。『ニューシネマ・パラダイス』の『愛のテーマ』ですね、と私も前を見ながら言う。フロントガラスに映った車中の三人が、うらぶれた幽霊のように見える。ご存知でしたか。エンニオ・モリコーネ、いいですよね。あの映画、すごく好きなんですよ、と助手席の刑事は言う。顔は見えないが、その声の調子も話し方も、薄いコートに覆われた肩の線も等しく柔らかい。鼻腔をかすめる仄かな煙草の匂い。整頓された車内。私は往年の祖父のことを、ぼんやりと思いだす。
 底冷えのする日だった。ヒーターはついていたが、爪先は凍てついたまま緩む気配はなかった。眩いライトが交錯する道路は、不意にパリンと割れて粉々になりそうだった。その上を、闇を絞ったような色をしたその車は、振動も衝撃も感じさせることのない滑らかな走行を続ける。私は、遠い日の朝を思い出している。健やかないびきをかいて眠りつづける兄の横で、ブレーキを踏んでも微塵の衝撃すら感じさせない祖父の美しい運転に、安心して身を任せていた朝のことを。
運転席の刑事が口をひらく。あの映画、ほんとうにいいですよね。そして、言葉を継ぐ代わりに、吐息をつく。
 いつしか私は泣いていた。夫のことで泣いたのは、後にも先にもあの時だけだ。滑るような運転と、流れる温かな会話にほどけた私は、祖父の軽トラックに揺られながら家路に向かう少女に戻って涙を落とし、それを隠さなかった。

 国道を逸れ、細い道をいくつも曲がって家の前で車が停まっても、音楽はつづいた。警察署からの長い道のりを送っていただいたお礼を伝え、後の日に何度も思い返すことになる心のこもった気遣いの言葉に感謝して、冷たい門を越え、重たい扉を閉め、暗がりで独りになってもなお、モリコーネの音楽はなおそこにあるようだった。エンジンを鎮め、車内灯を点け、腕を組んで座ったまま、俯いたり首を傾けたりしている二人の姿が、空気を求めて細くあけた台所の窓から半分見えた。音楽は止んでいないようだった。暗闇に沈む庭の打ち捨てられたスコップや、家の扉を飾る艶やかな柊のリースや、門のかたわらで物思いにふける白い椿の上が、その美しい旋律にじっと耳を傾けているところを、私は想像した。

 母の白い睫毛が震えている。映画『ドライブ・マイ・カー』の『Drive My Car (The truth, no matter what it is, isn’t that frightening) 』の清らかな流れに身を任せながら運転する私の睫毛も、たぶん震えている。

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