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また、手紙を書きます

あなたは、と母が大人になった私にむかって幼いころの私を語るとき、字を書きはじめるのが早かった、と必ず言ったものだ。それは、私の祖父である母の父から受け継いだ資質、と母はかたく信じていた。福岡県の、とある中学校で教頭をしていた祖父は、帰宅するとすぐに、仕立てのよい久留米絣に着え、庭に面した静かな座敷で一人、熱燗を飲みながら本のページをめくっていたという。少しウェーブのかかった前髪が額にかかる角度で、ピンと背筋の伸びた美しい正座を決して崩さずに。あなたの、と母は続ける。姿が見えないときは、居間の本棚の前に行けばよかった。あなたをデパートで見失ったときは、本売り場を探せばよかったのよ。床の間に行きさえすれば、父を見つけることができたようにね。

居間の本棚の上段には、空色の装丁が美しい石井桃子さんの『のんちゃん雲に乗る』があった。その横に、松谷みよ子さんの『ちいさいモモちゃん』シリーズや、『オバケちゃん』シリーズがずらりと並ぶ。『からすのパン屋さん』や、『だるまちゃんとてんぐちゃん』、『ゆきのひ』といった、かこさとしさんの本は中段で賑わっていた。下段には、早乙女勝元さんの本が静かに佇む―私がいちばん頻繁に、耳で読み、目で記憶した本たち。
日に焼けた私の記憶に浮かぶ、日に焼けた本の背表紙たちを思い出すのは楽しい。その記憶だけは、ずっと舐めていたい飴玉のように、舌がとろけるほど甘いのだから。多くの思い出が塩辛く、水で薄めなければ耐えられないほどなのに比べて。

早乙女さんの本は、字がまだよく読めないころから、繰り返し母に読んでもらった。もちろんそれは母の意思でもあったのだろう。私の鼓膜を細かく震わせ、脳に深く染み渡らせるまで、何度も何度も読み聞かせたのは。ブダペストで出逢ったベトナム戦争の遺児との交流―「ベトナムのダーちゃん」。広島に投下された原子爆弾により、命を失う家族と生き残った猫の物語―「猫は生きている」。遺され、残されたものたちが、クリアな声でまっすぐ私に語りかけてくる。
それらは祖父からの贈り物だった。そして、その2冊が最後の贈り物になるとは、祖父もゆめ思わなかっただろう。胸の違和感を感じて友人のクリニックを受診し、念のため入院したその夜のうちに、祖父は一人で逝ってしまった。読み挿しの本をサイドテーブルに置いたまま。本を愛した祖父は、歴史の教師でもあり、戦争をその目で見た帰還兵でもあった。

本の海に頭のてっぺんまで浸かっていた私は、幼稚園に通う前から文字を書きはじめた。そして、文字は文を書くことを私に可能にさせ、文を書くことが私に物語を綴らせることを許した。わけもなく象に魅せられていた私は、執拗に象の絵を描き、象の物語を書いた。書くことは、ここにいない象の耳の匂いを嗅ぎ、象の長い鼻にくるりと巻かれ、象に乗って遠い国を旅することだった。
もっともそれは、大人になって久しい私が、遥かな私に贈りたい物語かもしれない。私はただ、手にした小石を積むように、文字を重ねていたにすぎないのかもしれない。

年長組の部屋には、手作りのポストが置かれていた。手紙を書き、投函すると、配達当番の子どもがそれを配達する仕組みだった。私はそれに夢中になる。家に帰ると、手を振って別れたばかりの友達にあてて、「お元気ですか」と書き、翌朝ポストに投函した。私たちの登園を見守る先生の目の前を通過して、「早く先生に会いたいです」と書き、そのままポストに投函した。
私が書いた手紙を読む彼らを、遠くから眺めるのは楽しかった。その視線が上下するのを見るのは。ときどき笑みがこぼれるのを認めるのも。言葉は魔法だ。誰かをぱっと喜ばせることができる。それが、誰かを奈落の底まで突き落とせるということを、後の日に知ることになるのだけれど。

あれは夏が背中を見せて去っていく9月のこと、近くの特別老人養護ホームの皆さんにお手紙を送ります、と園長先生が宣言する。便箋が配られ、好きなように書いていですよ、と促される。どなたが読むかわかりません。ですから、「おじいさん、おばあさんへ」とはじめに書いてくださいね。
最後の蝉たちの、まだら模様の絶唱を聞きながら、私は見知らぬ誰かに送る手紙の文面を考える。会ったことのない人に手紙を書いたことは一度もなかった。そこで、見知らぬ誰かの首に、昨年他界したあの祖父の顔を乗せてみる。
おじいさんへ。
手もとには広大な白が横たわっている拡がっている。私は本好きの祖父に宛てるつもりで、もぞもぞと鉛筆を動かす。

子どもたちの手紙は、ホームの住人たちに1通ずつ配られたに違いない。私の書いた手紙もその例外に漏れなかった。例外だったのは、その受け取り手から返事が来たことだった。表に私の名前が、裏にその人の名前がそれぞれ漢字で書かれているクリーム色の封筒を、漢字の読めない私が見つめる。これは何ですか?と訝しげに訊ねられた先生が微笑む。こっちはあなたの名前、こっちはおじいさんのお名前。きくちうしおさん、って仰るのよ。
急いで、見知らぬ誰かの首に乗せた祖父の顔を、牛の顔にすげ替える。それから、感情の細い糸であらん限りの言葉を繋ぎながら、いつ果てるともわからない長い返事を書きはじめる。

手紙、というものが好きだったのだろうか。あるいは、孫のような子どもから手紙をもらったのが嬉しかったのだろうか。もしくは、単に礼儀正しい人だったのかもしれない。いずれにしても、菊地さんは私に手紙を送りつづけ、私も返事を書きつづけた。試合を目前に控えた選手たちの、終わらないキャッチボールのように、真剣に。
むろん、書いた内容は覚えていない。菊地さんが送ってくださった手紙の文面も記憶にない。ただ、文字のシルエットだけは瞼の裏側に残っている。縦書きで書かれたその文字は、大きく傾きながらぶるぶると震えていて、ときどきスケートリンクでバランスを崩した人のように方向性を失い、宛てどない滑走を経て、不意に止まるのだった。後日、菊地さんは脳梗塞を経て半身麻痺となり、会話はおろか、筆記にも歩行に苦労されていたことを知ることになる。

文通をはじめて半年近くなったころ、私たちを乗せたレモン色のスクールバスは、特別養護老人ホームの門に吸い込まれていく。その日はいわゆる慰問の日で、私が菊地さんに初めてお目にかかる日でもあった。
一例に並んで食堂に入ってきた園児の数は、40人は下らなかったはずなのに、なぜ私が私であると、菊地さんは気づいたのだろう。満面の笑顔の中に埋もれた、どんぐりのように円らな目で、迷いなく私を見つめながら、小刻みに左手を振る。職員が制しなければ、そのまま車椅子から立ち上がって駆けよらんばかりの喜びようだった。
手紙では饒舌なくせに、生来の人見知りが邪魔をして、菊地さんの気遣いにもかかわらず私たちの会話は弾まなかったように思う。だが、その日の面会のことを、菊地さんは折に触れ手紙に書いて寄こした。他に語るに足ることは、この世に一つもないかのように。かわいらしいわたしのお友だちと会えた日のことを、死ぬまでわすれることはありません、と。

卒園して、近くの小学校に進学した後も、菊地さんと私の交流は続いた。三菱鉛筆1ダースに添えられた手紙が、真剣な面持ちで私に語りかける―鉛筆がすべてなくなったらまた送ります。たくさん手紙をください。
私は、小豆色の鉛筆の尖端を、鉛筆削り機でカリカリ削る。書くほどに少なくなっていき、削るほどに短くなっていく鉛筆を、私は奇妙な晴明さで意識する。

小学校の運動会の日、来賓席の最前列で座っている菊地さんの写真が、今も手元にある。それがお会いした最後だった。手紙も、その直前にいただいた、ほとんど判読できないほど筆跡の乱れた一通が最後で、次に受け取ったのは、彼の姪なる人から送られてきた一枚の葉書だった。

母が管理していた菊地さんからの手紙が、この家のどこにあるのかもうわからない。母の記憶がほろほろと崩れる砂糖菓子になってしまった今となっては。ただ、3年、という月日を鑑みれば、かわした手紙は30通を下らなかったはずだ。もっと書きたかった。菊池さんもきっと、私よりもずっと。 

鉛筆が尽きて何十年も過ぎたが、私はそのことを菊地さんに伝えられていない。だから菊地さんより31通目の手紙が、私に送られてこないのかもしれないと、あの頃の無邪気さで、今もぽつりと考える。

スマートフォンもパソコンもなかったあの時代、連絡手段は電話か手紙だった。私たちは長い電話をし、まめに手紙を書いた。その選択肢の少なさ、融通の利かなさが、数えきれないほどの手紙を私に書かせ、受話器を握りしめる時間を無限にしたのだとしたら、いっそ私は幸福だったに違いない。
手紙を書いたり読んだりする時間、電話で話す時間を思い出すとき、まず灯が追憶の世界に降りてくる。それは机の上の電灯、足元を照らすフットライト、背の高い街灯、公衆電話の青白い光だ。それから、光の周りに拡がるおびただしい闇がやってくる。それは薄い紅茶のような闇、煮詰めたコーヒーのような闇、蒼ざめた闇、すべてを溶かす闇だ。

友だちと手紙を交換し、思い人に手紙を送った。手紙が、久しぶり、と冷えた旧交を温め、さようなら、と私の口の代わりに別れを告げた。手紙の言語は日本語から、英語、中国語に広がっていき、しだいに世界津々浦々へと羽ばたいていくようになる。そのうち世界津々浦々から帰ってくるようになる。移動することを宿命とする、あの渡り鳥のように。
ワープロはあったが、私は手で書くことに拘った。キーボードを叩いて作るより、ペンを走らせて綴るほうが、私の思いは言葉になりやすい気がした。

大学の友だちと3人と東北の山々を歩いた夜、投宿先に、その日のガイドを務めた人がふらりと現れた。呼び出された私は、ロビーでその人の顔を眺めている。その人が言うことを、頷きながら聞いている。ときどき目を逸らし、小首を傾げながら、差し出された手帳の白を、私は自分の名前と住所で埋めていく。娘と同じ名前ですね、とその人は快活に言う。3歳で別れてから一度も会っていないんだけれど、もうあなたと同じくらいの年になっているんじゃないかな。

文通を始めた理由を、もっともらしく書くのは容易い。だが、実際のところ理由らしい理由はなかった。申し出があり、私はそれを受容した―それだけのこと。「なぜ」を埋める答えはどこにもない。なぜ、その人は文通を申し出たのか。なぜ、私は文通を受け入れたのか。答えがあるとしたら、「わからない」。ただそれだけだ。

ほどなく、私の父親ほどの年の人から、長い手紙が送られてきた。達筆というよりむしろ流麗な、美しい文字がえんえんと続く。雪を被った冬のアルプス山脈のように。名だたる山々に登頂し、ライターとしても名を成していた人らしく、文章はよくこなれていて、なにしろ面白かった。そこには、眼鏡の奥で笑っていたその人の印象を損なうものは何もなかった。むしろ、自己紹介もほとんどせずに始めたこの文通が、必ずや楽しいものになることを私に予感させるに充分だった。
印象的だったのは、冒頭の「お元気ですか」のあと、5列ほどの空間をとってから、おもむろに本文か始まるその書き方だった。それは、その人の手紙の特徴だったのだろう、あとにつづく手紙でも、その特異なスタイルが変わることはなかった。
あの空間は何だったのか。なぜか私はそのことを、彼に訊ねようとはしなかった。ただ、呼びかけと一人語りのあいだに横たわる白を見つめ、「どうでしょう」とか、「元気がありません」とか「まずまずです」といった、声にならない思いを、密かに吐息に変えていたように思う。彼の聞き耳がそこにあるかのように。谷間に響く木霊のように。木々を渡る風のように。

翌年、交換留学生となった私はイギリスに飛ぶ。就職してからも、命ぜられる出張先は海外ばかりで、日本にいる時間の方が少ないくらいだった。数年後に退職し、再び留学生活をはじめる。中国を経て、アイルランドに渡り、紆余曲折の末日本に帰ってきたのは、文通を開始してより10年が経過した夏のことだったか。
どこにいても、彼は手紙を寄こした。手紙の中には常に自然があふれ、四季折々の山から臨む絶景は目に染み入るようだった。どこにいても、私は手紙を返した。パラグアイから。チリから。アルゼンチンから。ビルマから。ラオスから。バングラデシュから。とりわけ、アイルランドからの手紙は、その人をひどく喜ばせた。若かりし日の彼が、隈なく歩いた国だったから。その反応に呼応するように、休みごとに小旅行をしては、せっせと手紙を書いた。スライゴ―。ドネゴール。キルケニー。アラン諸島のイニシュモア。北アイルランドのベルファスト。そのころから、相手の手紙に返信するというより、お互いの日々と生活をリポートする、という文通形式が確立されていったように思う。1人しかいない読者にむけて熱心に記事を書く記者。あるいは、ただ1人のために語るための物語をひたむきに書く作家。

著書の打合せのため、東京にやってきたその人と、神楽坂の喫茶店で向き合っていたとき、これまで交わした手紙を本にしたらどうか、と彼が言いだした。書簡集、といった体裁でどうかな?
私は、頭に考えさせる間隙も与えず、脊髄の反射でそれを固辞した。目に見えて彼が意気消沈したことを覚えている。完璧に膨らんでいた風船が、私の一言が針となってあえなく萎んでしまったように、急激に。

なぜ、彼は私を文通相手として白羽の矢を立てたのだろう、と思うことは少なくない。恋愛感情は否定できないが、現実的ではなかった。独り身だったとはいえ、20年以上続いた文通のなかで、ただの一度も彼はそれを匂わすことはなかったから。
ならば、なぜ私はその文通を、水を飲むように受け入れたのだろう。

21歳のころの私は、今の私から一番遠くて近い。同時の私から年齢的に一番離れているのは今の私。あの時の私に心情的に最も近いのも今の私。同時の私ではない、しかし最もあの時に近い私は、こう結論づける。この人は私にとてもよく似ている、と思ったのだと。自分の語りと沈黙が、ときどき人に理解されないことを骨の髄まで感じていた私にとって、私の言葉が伝わる人を見つけることは、簡単なことではなかったのだ。

時は移ろう。人はそれに流されていく。いっとき、特派員同士のようになった私たちは、心を映す鏡を磨きあうような文通相手へと、静かに変わっていく。
結婚と仕事のあいだで悩み、仕事と病のあいだで戸惑う私にあてて届けられる手紙に、励ましや慰めの言葉はなかった。相変わらず、自然があふれ、四季折々の山から臨む絶景が目に染み入るような文を結ぶのは、「また、手紙を書きます」だった。徐々に、彼の「また」は、絶対であり、その威力は絶大であることに気づいていく。
人生は続く。人はそれに抗えない。夫が逝き、長女が生母のもとに帰り、半分の家族になったあとも、人生は軋みながら進んでいく。そうした日々にあっても、私の奏でる不協和音に聞き耳を立て、静かな旋律をそっと被せるような彼からの手紙が絶えることはなかった。途絶えないということの意味を、立ち去らないという意志を、その人はひと月に一度は書き送る手紙に込めて、伝えてくれたのだのだろう。
その人自身にもいろいろあった。私も、その人が眠る透明な家のドアにそっと耳を当てるだけで、乱暴にそれを叩き、中に立ち入ることは決してしなかった。ただ淡々と手紙を書き、四季折々の切手を貼って、ポストの暗がりにその純白を、ぽとりと落とし続けた。

ある年、それまで毎月来ていた手紙が、ぷつりと来なくなる。12月のポストは、華やかなクリスマスカードで明るく満たされていたが、その人からの静かな手紙が、そこに混じることはなかった。私は手紙を送る。重ねて書いて送る。送り出した手紙が返送されてくることはかなったので、彼の生存に疑いはなかった。

いつからか、仕事以外の手紙に、返事を求める思いを消失していた。焼失、と書くべきかもしれない。そうした欲望のようなものは、すっかり燃え尽きてしまったのだから。あるいは、喪失、のほうが適当かもしれない。喪失が重なりすぎて、あらゆる意欲を喪ってしまっていたのだから。だが、彼からの返信だけは違った。彼からの手紙だけは、何があっても私のもとに届かなくてはならなかった。

3か月後、私は初めて電話をする。文通当初には予想もできなかったほどの長い時を経た今、携帯電話で連絡を取るのは簡単だったし、メールアドレスの交換も終えていた。それでも、私たちは手紙を書き、切手を貼って、ポストを目指して歩きつづけたのだった。到着した手紙をひらき、そこにある文字を追うと、封筒に戻しいれる作業を、ずっと繰り返してきたのだった。

5回目のコールのあと、彼の携帯電話口に出たのは女性だった。ざわざわとした生活音と、がさがさとした嗄れ声が、鼓膜を震わせる。上の空で名乗ったあと、我にかえった私は、彼の名前を口にし、話せますか、と訊ねた。そこにいますよ。でも今は話せません。そして彼女は続ける。あなた、誰ですか?
私は、誰なのだろう。口ごもり、押し黙り、そのまま私は電話を切る。

春が潰え、夏が立ちはだかり、秋が忍びよってきたころ、彼の名前をインターネット探した。彼の訃報が瞳に映る。訃報を張りつけたまま、私は瞳を閉じる。

また、手紙を書きます、という言葉を200回近く繰り返したあと、はじめて「また」を実行できずに彼は、別れの言葉さえも省略して、私たちの文通を永遠に終了させた。



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