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東京・車窓から

2021年1月10日
眠れない日がつづき、不足した睡眠時間が、覚醒時間を侵食するようになってきた。ホームのベンチに腰をかけた瞬間、意識が重力に負ける。電車のシートに座った途端、身体が青い闇に溶ける。深く眠る時間が欲しい。
でも、誰も時間を分けてはくれないから、自分で何とかするしかない。そうはいっても空っぽの井戸から汲み上げる水はないし、桶を投げ入れればカラカラとむなしい音を響かせるだけ。
今日も東京行きの中央線で眠ってしまったようだ。たぶん、とろんとしたクリームのような形で。とろとろ、とろとろと蕩けるように眠りながら、朝日を浴びる背中のあたたかさを、遠くに感じていた。そういえば、曾祖母である「赤羽のおばあちゃん」は、私の兄を膝に乗せたまま、座椅子で死んでいたそうだ。冬の朝日を背中に浴びながら、兄という無垢な蚕を護る、やわらかな繭になって。
赤羽のおばあちゃんは、背中のあたたかさを遠くに感じながら、心静かに逝ったのだろうか。

2月18日
宗教を理由に迫害を受け、中国から逃れてきた方から聞き取りをする。留学中は滑らかに話していたその言語──四川に行けば「北から来たの?」と訊ねられ、大連に行けば「南の方から?」と訝られた、かすかな訛りのある私の中国語は、最近ますます足もとが怪しい。頻繁につまずいたり、ふらついたりしてしまう。言語の筋力が落ちたのかもしれない。もっともあの一件以来、中国語には甚だ自信がないのだけれど。
雲南行きの揺れすぎる寝台列車の中で、私はぐっすり眠っていた。乗客の起床時間は、掃除婦の勤務時間に服従する。体にかけていた私の毛布をつかみ、そのまま持ち去っていく人のうしろ姿を、眠気まなこで見おくる。窓の外は真っ暗だ。次にやってきた掃除婦が、私が敷いていたシーツを引っ張り出し、手荒く袋に詰めて意気揚々と出ていく。夜明けはまだ遠い。身ぐるみ剥がされた私はその身を起こし、中国語で文句を言う。それまでの学習効果を総動員させて、私の歴史上最高の流暢さで。完璧だ、と思うよりも早く、その人が振り向きざまに叫ぶ──なに言ってるのかわからない、中国語で言って。

3月2日
マテ茶用の壺に、小首を傾けた桃の花を生ける。片手で握れるほどのサイズで、容量300ccほどの、おおらかな曲線を描く容器。思い思いの形に育った瓢箪をくり貫いて作られているため、この世に同じものは一つとしてない。
これはパラグアイから持ち帰ったものだ──仕事のカウンターパートの方から、到着したその日にいただいた。マテの茶葉を入れて熱湯を注ぎ込む代わりに、花を挿して水を注いでいると知ったら、彼は嘆くだろうか。あの気球のように大きな身体を、悲嘆のあまりビー玉サイズに縮めて。
あれはどこの駅だったのだろう。首都アスンシオンを目指す機関車は、待てど暮らせど現れず、廃墟のような無人駅のプラットホームで、私たちは途方に暮れていた。そのうち日まで暮れてくる。夕日を背に、砂埃をもうもうとたてながら、気球の彼が車に乗って現れる。今日は列車が来るかもしれないし、来ないかもしれません。唯一わかることといえば、わからないということだけです。
私たちは顔を見合わせる。
すくう端からこぼれ落ちる砂のような時間の中で、あらゆる常識の砦が融けてしまった20代から50代の、国籍さまざまな私たち7人は、誰が言い出したのか隠れんぼにうつつを抜かして、さらさらとした時を消費した。
身を隠した駅の階段の陰から、息も絶え絶えの木の枝に、滴るように瑞々しいオレンジの実が半分見えた。

4月1日
吉祥寺駅で、渋谷行きの井の頭線に乗り、駒場東大駅で降りる。黒いトレンチコートと、黒いワンピースの裾が大きく揺れる。朝から南風が強い。肩甲骨に桜の花びらがとまり、そのままじっとしている。誰かの心残りのように。
プラットフォームから、東京大学の無愛想な壁が見える。壁の向こう側は見えないが、そこには殆ど牧歌的なグラウンドがあり、それを囲むようにして植えられた桜の木々が、満開のときを迎えていることを私は知っている。
この近くに住んでいた幼いころ、私たち家族は、母のお手製幕の内弁当を提げて、あの土手をそぞろ歩いた。満場一致で、群れから少し離れた桜の木を選び、荷物を下ろして格子柄のシートの上に座った。父は多数決を好んだ。独断は罪だ、という考えを終生曲げなかった人。それなのに、罪深い独断を自ら行使するようにして、病に倒れてしまった人。
その父も死に、先週、親友の父が亡くなった。満開の桜と、夥しい桜の思い出に背を向け、むせかえるような春を蝕む一点の染みとなって、告別式に向かう。

5月27日
週末に掃きためていた一週間分の家事を終えて、私は家を出る。今日は、遠くから兄が車を走らせて来てくれたので、少女になった母の心配はいらない。心配のいらない、という状態を久しく忘れていたことを思い出す。
どこかに行こう。どこに行けばいい?とりあえず電車に乗ろう。どこに向かえばいい?私は本を開くが、言葉が意味をなさない。視界に靄が立ちこめるが、意識と無意識のあわいに落ちない。終点に着き、改札を抜け、改札に戻り、また電車に乗る。窓の外で千切れて消えるビルを、千切れて消えるがままにし、向かいに座る見知らぬ人たちに、思いついた名前を与える。もう一度本を開き、相変わらず意味のなさない言葉に別れを告げる。眠りの淵に向むかうが、どうしてもその先に進めないので踵をかえす。心配のいらない、という状態より、心配だらけの状態にいつしか私は慣れてしまったようだ。静かに電車を降りて、心配が首を長くして待っている、高台の家を目指して足を動かす。

6月13日
〈今は亡き人たちを詰めこんだ貨物列車が、この上を通ったのだと思いながら、私は靴の下の、固い金属の冷たさを意識する。この上を通ったときは生きていた人たちの、この線路の尽きた先にある窓のない部屋で、強奪された命のことを考える。あのとき、ここで絶命したアンネの日記を読まなければ、私は満ち足りた世界で言葉を浪費する日々を送るばかりで、世界中からやってきたばらばらの言語を話す人たちとともに、言葉を失くして歩くこともなかった。〉
アウシュビッツ収容所の正門に掲げられている「ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)」という文字の下をくぐり、ビルケナウ収容所へといざなう、ユダヤ人輸送貨物列車が走ったレールの上を歩いた日の夜、クラクフのホテルで綴った日記を読みかえす。言葉を尽くせば、思いのすべてを伝えられると、疑いもなく信じていた私が、言葉を失した日の、言葉による記録。言葉は私を伝えない。言葉は私を救わない。それでも、その伝えられなさを、その救いのなさを、苦しみながら書き残すしかない。彼女に倣って。

7月3日
久しぶりに、谷崎潤一郎の『細雪』を読みかえす。ヒューストン駅からゴールウェイ駅まで、アイルランド鉄道に乗って移動したあの夏、この本を読んでいた。その証拠に、本の最後のページに走り書きが残っている──「あえて描き切らないこと、描かれないものが語りだすまでは、 1996年8月27日」。片身はなさず持っていた青い万年筆の軌跡と、軸をなくして左右に振れる文字。この時の感情は、この色の儚さと、文字の不安定さによって保存されている。だが、この言葉を書いた理由はわからない。自明を謎に置き換えてしまうのが時間だとしたら、それを元に戻せないのが、生きるということなのだろう。
隣に座っていたフランス人の恋人は、フランス語の小説を読んでいた。何の本を読んでいるの?と私は彼に訊ねはしなかった。彼も私に訊ねなかった。ねえその本は何?と。私の視線は上下に動き、彼の視線は左右に動く。その頃の二人の視線が決して交わらなかったのと同じように、別々に。
彼が車窓を眺めるさまを、私は目の端で追いかける。なだらかな牧草地のえんえんと続く、美しいけれど退屈な風景を見ているのか、窓に映る、もう美しいとは思えない私の姿を見ているのか、どっちだろう、と思いながら。
翌月、私はコノリー駅からDART(Dibulin Area Rapid Transit)に乗って、ダブリン東部の海岸線を走る。私の手には本があり、私の隣には誰もいない。

8月21日
お母さん、と娘が呼ぶ。きれいな横顔をテレビ画面に向けたまま、細い手首を上下に動かして。羊水に浮かぶ胎児だったころに公開された、『千と千尋の神隠し』を、成人した今も愛してやまない彼女は、調子が悪いときほどそれを見る。そして、海原鉄道のシーンになると、必ず私を呼ぶ。私が家事の佳境にあろうとも、誰かと電話で話しこんでいようとも。
膝を揃えて座るカオナシと千尋。海月のように揺らめく半透明な人たち。背後から迫りくる逢魔が時。疾走する電車と、加速していく風景。私は自分の時を止めて、流れる時を見つめる。
釜爺は言った──昔は戻りの電車があったが、近ごろは行きっぱなしだ、と。行きっぱなしの電車に乗りたいな、という言葉を飲みこみ、体調はどう?と娘に訊ねる。大丈夫、と彼女が答える。口には出さない何かの思いを、気取られないように飲みこんで。

9月9日
厳しい残暑のつづく東京の朝の通勤ラッシュは、そこに立ち会うことを余儀なくされる人たちを、容赦なく痛めつける。お客様と呼ばれる私たちの、疲れた身体と倦んだ心は、味気ない贈答用クッキーみたいに車輌に詰めこまれ、目的地まで運ばれていく。割れないようにとだけ、注意を払われて。
小さな「あっ」が、その鬱屈に穴をあける。誰かが首をひねり、誰かが顔を上げ、誰かが指をさし、誰かが両手をひらひらさせる。「ジジッ」と、その手の先で蝉が鳴く。
誰かが窓を全開にして、誰かがその蝉を追い立てる。減速した電車が神田駅に滑りこもうとしたとき、蝉が脱出する。ビルを抜け、送電線を越えて、薄青の空にまっすぐ飛んでいく。少年に戻った誰かが手を叩き、かつての少年少女たちがそれにつづく。

10月15日
丸の内線・四ツ谷駅の改札を抜けると、新宿通りの向こうに横たわるアトレの屋根に、夜の帳が降りていた。横断歩道を渡り、自動扉を通過する。スープストックトウキョウのカウンターで、小鳥のように小綺麗な人たちが、スープを啄んでいる。PAULの磨き上げられたショーケースの中で、くたびれたサンドウィッチが、誰かを待っている。早く引き取り手が現れますように──あなたたちが腐ってしまう前に。
ロサンゼルス発・シカゴ行きのアムトラックの屋根に、夜の帳が降りてくる。旅の相棒、折り畳み自転車が心配で、空腹を抱えながらも席から離れることのできない私に、身体も心もLLサイズのおばさんが、Trast me、という。逃げようとしたら叱っておくから。ほら、行っておいで。
車両の中ほどにある売店で、夕食になりそうな軽食を物色する。店のおじさんも、マシーンで落としたコーヒーも、食べ物も等しく生気がなくて、食指がなかなか動かない。その人の蜂蜜色の肌を、窓に納まりきれない夕日が朱色に染める。燃え上がる顔の中央で、毛虫のような眉毛が蠢く。ガーネットの瞳が私に決定を促す──で、どうするんだい?
催眠術にかかったように、私はハムサンドを指さす。
相棒の隣に戻り、LLサイズのおばさんに礼を言うと、LLサイズの笑顔が返ってくる。煎じ薬の色をしたコーヒーをすすり、玉ねぎの皮のような包装紙を剥いて、サンドウィッチに齧りつく。
あの瞬間以来、私はハムを食さない。この世にハムしか食べるものがないという事態に見舞われない限り、間違いなくこれからも。酸味と腐敗臭と、あの食感──白い糸を引く強い粘り気──の記憶は、口腔内にとどまり、容易に立ち去ってはくれない。

11月12日
朝食の卵焼きをつつきながら、おばあちゃんの卵焼きはもっと甘かったね、と娘が言う。私は頷く。母の作る卵焼きは、みりんとお砂糖の分量が過剰なくらい多く、うんと甘かった。焼きたてのそれは驚くほど柔らかく、カラメルに似た香りがした。もう、おばあちゃんの卵焼きは食べられないね、と娘が重ねて言う。今度は頷かず、そのかわりにうつむく。
母がそこにいるのに、母がいないかのように話すのが苦しかった。たとえ、母が、己の過去と現在について、ほとんど理解できなくなっているとしても。
夕方、上野駅構内を歩きながら、今朝の食卓の1コマを繰り返し思い出していた。好きでもない映画のワンシーンを、わけもなく見返すことをやめられないように。あれほど頭の回転が速く、少し遠いながらも地獄耳で、前にのめるように話していた彼女が、夢でも見ているかのようにうっとりとしながら、促されるままに卵焼きを食べるあの様子──私の作った、さほど甘くない卵焼きを。
上野駅を発ち、寝台特急北斗星に乗って、私たちは札幌を目指した。私の初ボーナスを、母の希望に捧げたのだった。あの日の母は、いつにもまして饒舌だった。旅という日常からの脱出は、彼女の火のような口に垂らした、一滴のオイルだったのかもしれない。
狭いながらも快適な寝室で、生後間もなくの私と、3歳になったばかりの兄を連れて、東京発・博多行きの夜行列車に乗って帰郷した日のことを、漏れなく母は語った。私たちきょうだいがどんなに賑やかだったか。父のいない寝台車の夜がどれほど心細かったか。妻を亡くして意気消沈していた祖父が私たちの帰郷をどんなに喜んだか。繊細な刺繍を施した美しいドレスを、一針一針、手で縫うように丁寧に。人生は面白いわよね、と母は言った。辛いことがあっても、振り返れば強い気持ちになるもの。道なき道とか、ごつごつした岩場を、よくもまあこうして歩いてきたわよねえ。
都営浅草線に乗り継いだあとも、振りかえる時間ががらんどうになってしまった、母のことを考える。彼女の口から、「人生は面白い」という言葉がこぼれる日は、もう二度と来ない。ケーキのように甘いあの卵焼きも、もう二度と食べられない。

12月28日
9月に亡くなった方のお別れ会が終わる。心の重さは、軽くはならなかった。いよいよ今年も終わりだ、と思う。重たい心を抱えて、来年を迎えよう。それが生きている人の責務かもしれない。彼らの哀しみを引き受けながら、生きながらえるということ。
あれほどの笑顔を見たことはなかった。マンダレーに行ったことがあるよ、と私が言った時、ほとんど眩いほどだった、彼のあの笑顔。

(マンダレーから、ヤンゴン中央駅まで、だいたい18時間ぐらいかったかな。12時発の列車が15時発になり、ヤンゴンに着いたのは夜明け前の午前6時ごろだったのだから。あんなに揺れる列車に乗ったことはなかった。左右上下に振り回されているうちに、だんだん身体が慣れてきて、物売りのおばさんや子どもたちから買った、ラペットゥとか揚げ海老とかダンバウとかを、ぽんぽん飛び上がりながら食べたんだ。私の席の両脇は、オレンジの袈裟をきたお坊さんたち、だからなんとなく安心だったなあ、仏に遣える心優しき用心棒、って感じで。車窓ははじめ、見渡す限り緑一色だったけれど、いつの間にかすっぽり黒い布に覆われていた。漆黒の窓を見つめているうちに、私の心は天高く昇って、闇の中をひた走る列車を──輝く金の一筋を見下ろしていた。希望の光のような、私たちの列車を。)

(僕がマンダレーに帰ったら、かならず遊びに来てね。日本生まれの子どもたちを連れて、大切な妻と一緒に、ミャンマーの政情が安定したらきっと帰るよ。パコダを巡ろうよ。バガンやメイミョーに遊びに行こうよ。美味しいものをご馳走するよ。お母さんのマンダレー・ミーシャイ、ほんとうに美味しいよ。)

私は首を振って、緩んだマフラーをきつく巻きなおす。
高田馬場駅前の喧騒を抜け、山手線のプラットフォームに立ち、新宿行きの電車を待ちながら、涙をこぼす。


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