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じいちゃんのお葬式

うちのじいちゃんのこと。

つい数日前、99歳で亡くなったうちのじいちゃんのこと。亡くなってからでは本人に伝えることもできないのに、書かずにはいれなくなってnoteを開きました。18年間同じ屋根の下で暮らし、私に絵を描くことを教えてくれ、最後までご飯をモリモリ食べてたじいちゃんのことを、誰かに知って欲しくて書いてます。

お葬式の喪主はわたしの父が務めた。父はお葬式の最後の挨拶でこう言った。

「父は、絵を愛し、酒を愛し、人を愛した人でした」

まさにその通りの人だと思った。

うちは、半二世帯住宅になっていて、玄関と風呂場が兼用、生活の場所は分かれていた。じいちゃん達の住む1階の、離れの部屋にじいちゃんのアトリエがあった。このアトリエ、4畳くらいのほんとに小さな部屋で、じいちゃんが描き続けた油絵か生まれた場所だった。沢山の絵が置かれ、絵の具のにおいが充満していたこの部屋は、幼い頃の私には秘密の部屋みたいだった。ちょうどわたしが小学校の頃、ハリーポッターが爆発的に流行ったが、特段珍獣がこの部屋を守っているわけではない。

私はこの部屋に時々通い、じいちゃんの絵を描く姿を隣でただただ静かに眺めたり、じいちゃんのいない日には油絵の匂いのこもった部屋に、なにをするわけでもなくこっそり入り描きかけの絵を眺めたりしていた。じいちゃんの絵は風景が多かった。まだちょっと若かった頃は人物画も描いてた。ほらでも、女の人が白いペラっとした布一枚で隠すとこ隠してるとかは幼心になんかちゃんと見たらあかんやつと思ってたりもしたわ。

ちょうど40歳前後でじいちゃんは師匠に弟子入りしたらしい。弟子入りって父の言葉をそのまま使ってるけどじいちゃんの頃はスクールなんていう小洒落たものじゃなく、寿司屋の弟子入りよろしく絵の世界の門を叩いたんじゃなかろうか。

うちのじいちゃんは、絵をとても愛していた。それと同じくらい人も酒も愛した人だ。だから、じいちゃんが眠るように横たわる棺の中に、紙パックの日本酒のワンカップも一緒に入れた。その周りにはじいちゃんの体が見えなくなるくらいに、祭壇の花を、お葬式に参列したおじいちゃんの子どもや、わたしら孫が目一杯敷き詰めた。向こうでも絵が描けるように、生前の絵と筆を入れた。忘れちゃいけない、亡くなるその日に撮ったばあちゃんの写真も入れた。向こうでも会えるように。

お葬式のあった夜、母と父と兄と私で晩ご飯を囲んだ時に、「おじいちゃんとの思い出って何があった?」と母が聞いた。和尚さんのお経に乗せてじいちゃんとの思い出をぐるぐると思い出していたから、私からすかさず答えた。

「幼稚園の送り迎えだな。おじいちゃんが自転車の後ろに乗っけて送ってってくれたじゃん。じいちゃん朝早いから、わたし、幼稚園時の中で一番登園早かったんだよね」

じいちゃんの手にかかれば、行きたくないとずぐる暇を与えない完璧な手捌きで、いつのまにかチャリの後ろに備え付けられた椅子に鎮座している。「はぁい!いってらっしゃーーぃ」母の声はもはや遠くこだましている。

「あとは、あれだ、ジャスコの駄菓子屋行ったことかな?」

「あれ、あんたもジャスコ、じいちゃんと行ったっけ?お兄ちゃんはよく行ったわね。じいちゃんとお兄ちゃんジャスコに車横付けして、私が送っていってたっけ。屋上の遊具の車乗ってたよねー」

母が懐かしそうに言う。ジャスコに車で横付けて。さもベンツで送り迎えしました、おぼっちゃま、と言い出しそうだけど、当時は家族5人が乗れるエスティマだったよね。

ジャスコの屋上にはちっちゃい子が乗る車の遊具があった。100円で、サークルを2周くらいできるゴーカートみたいなやつだ。今はなきジャスコの屋上は兄の魅惑のスポットになっていたようだ。そんなに物欲のなかったじいちゃんへ孫からのお願いだ。消防車からパトカーに車種を変え、「これにも乗りたい!」せがまれれば、そりゃあ、つい財布の紐も緩む。

わたしは駄菓子、兄はゴーカート。100円の使い道は兄弟によって違ったと言うわけか。ちなみにじいちゃんはかなりの子煩悩だった。孫煩悩か。


「あと、お風呂上がりに夜ご飯のおかずよく食べさしてもらってたよね?」

「あーそれ、ほんと覚えてる。」と兄。

「唐揚げとか、肉巻き餃子とか!」

「やたらと味付け濃いやつね」

わたしと兄がおかずトークで盛り上がるが、よく喋る母がこの時ばかりは全くついてこれない。てっきり父も母も知ってるものだと思ったら、「え??なになに?お風呂上がりのおかずってなに?」と聞いてくる。


当時、私たち兄弟は父のお風呂タイムに合わせて一斉に風呂場に集結する。

お葬式夜の晩御飯には用があっていられなかったけど、妹も含めて、子ども3人+父1人の4人が風呂場に集まる格好だ。

決して広いとは言えない我が家の風呂場は、素っ裸の4人がすし詰め状態と言うカオスな状態だった。父は洗車マシーンよろしく、私たちの頭から背中からゴシゴシ洗っていく。みるみる間に綺麗になった我が子が出来上がる。

うちの実家の周りには、今でこそコンビニもコインランドリーができたけど、当時はゲーセンも小洒落た公園なんてものも皆無なもんで、私たち兄弟はよく、遊び場とも言えぬ場所を遊び場にしてよく外で遊んだ。カブトムシやらトンボやら虫を捕まえに繰り出したり、神社の鉄棒とかジャングルジムで忍者ごっこをしたりした。

一輪車にやっとこ乗れるようになった頃、調子に乗って友達と手を繋いで円形にぐるぐる回る技を取得しようと奮起したものの、派手に転んで膝から流血した。そんな膝小僧を洗い流してくれたもの父だ。

汗も涙も、時には流血も綺麗さっぱり洗い流された我らは、とりあえずバスタオル1枚で2階へ駆け上がる、ことになっていた。ほら、湯冷めしちゃいけないからね。


でもここで、おかずタイム・空白の3分間があった事を父と母は知らない。

我ら兄弟は3人順番に風呂から上がる。流石の父も3人一気に体を洗うことはできない。1番先に兄がバスタオルスタイルになり風呂場から出て行く。向かう先は一点の迷いもなくじいちゃんばあちゃんのいるリビングだ。

2人にとって、孫は可愛いのだ。明らかに2人分ではない量のおかずはこの時間のために作られている。全ては計画されていたのだ。私たち兄弟3人と彼ら2人は完璧にわかり合っていた。

じいちゃんばあちゃんからそれぞれおかずを1個ずつもらい、頬張る。ちょうど兄がリビングから出てくると同時にわたしがスイッチする。2人は次にわたし用におかずを1個ずつ、皿に盛る。お風呂上がりの一杯ならぬ、お風呂上がりの一唐揚げだ。

そして、父さえもグルなのではないかと言う完璧なタイミングで、わたしと入れ替わりに妹がやってくる。じいちゃんとばあちゃんは、飽きもせず3人におんなじようにやってくれるのだ。

ちなみに、口の中に唐揚げをモグモグとしながら2階に上がるのはご法度だ。私たち3人は、母の作るご飯を食べる前までには、3時のおやつが最後と言うことになっているのだから。

バスタオルスタイルから、ちゃんとパンツを履いてパジャマを着て、食卓に着く。そこへ、1人お風呂タイムを満喫した父が揃う。そして晩御飯をちゃんと食べる。今思えば特別に秘密にしてたわけじゃなかったんだけど、夜ご飯の前にお菓子食べたらご飯が食べられなくなるよ!って言われていたし、おかずだからと言ってOKじゃあないだろうな、そうよね?兄、妹よ。という暗黙の了解でこうなっただけなのだ。



「がはは!なにそれ!わたし知らなかったわよ!」兄26年越しの、私は22年越しのカミングアウトである。素晴らしき連携プレーの思い出だ。

よく食べ、よく飲み、よく絵を描いたじいちゃんにも、生きるものとしての限界は来る。


99年も生きれば、いろんなことが起きる。

若かりし頃のじいちゃんは戦争にも行った。交通事故で首が回らなくなってしまうほどのとんでもない事故にも遭ってしまったこともあった。なんでも自分でできた人だったけど、体力と記憶力が落ちることは避けられなかった。ここには書ききれないくらいの介護の大変さもあった。私のことも最後はよくわかってなかった。長く生きるとはそういうことなのだ。

わたし、じいちゃんが棺に入るところから、出棺されるところ、火葬されて真っ白な骨になるまでを見届けることができてほんとに良かったと思った。

とっても不謹慎だけど、ほんとに眠っているみたいな穏やかで安らかな眠り顔のまま、棺の中にいたもんだから、和尚さんのお経の時に、むっくり起き上がってきやしないかと、希望にも似た気持ちでいたんだけどさ、やっぱりそんなことなかったね。骨になってしまうとさっきまで横たわっていたじいちゃんが、本当は別のところに収まって、これはすっかり誰がが入れ違えたのだと思おうとしたけど、きっとこの白い骨が今のじいちゃんなんだ。

じいちゃんとの思い出が兄弟でも1番多いのは兄だ。共働きの両親に代わり3歳まで兄の面倒を見、幼稚園の送り迎えと、幼稚園が嫌いで脱走を図った兄をあやして、大好きな電車を見せに、お散歩に連れて行ってくれたのもじいちゃんだ。

火葬をする直前の、最後のお別れの時、家族と親族だけになった部屋では順番にじいちゃんの顔を拝み、お別れをした。

兄は、じいちゃんの顔のところだけ扉になっている小窓から、顔を眺めて、最後に「トントン」と、小窓を優しく叩いた。しばらく手を置いて、沈黙していた。

兄の後に並ぶわたしは、その様子を後ろからしか見えなかった。兄はなにも言わずに、ただじいちゃんの最後の顔を見つめてた。

あぁいいんだ、ちょっとずつ理解できれば。目に見えなくなったじいちゃんは、ユーモラスでチャーミングなじいちゃんであることに変わりは無い。

大往生したからもう頑張ってなんていわん。ゆっくり休んでください。ありがとう。



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