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「こだわりをなくす」のは、老化か成長か

いつからだろう。「多少のことはどうでもいい」おおらかさが身についたのは。

元来私は何でも自分で決めたいタイプだった。そして「私が選ぶものが自分にとってベストだし、何なら皆にとってもベストだと思うよ!」くらいの押しつけがましい自信家だった。根拠なく天狗になっていた鼻を、自らへし折るまでは。

私が一番頭がいい。
私が一番センスがいい。
私は誰よりも可愛い。
私が仕切ればすべてがうまくいく。

今思えばどんだけ傲慢なのかと呆れるが、小学6年までの私は、その無駄にポジティブな思考のおかげで、いじめに遭っても凹まず生きられた。正論でやり返せるくらい知恵がついた小学校高学年の頃には、その雄弁さに支持者がついた。
成績もクラスで1番、自他ともに認める学年のリーダー的立ち位置に君臨し、天狗の鼻は伸び続けた。

天狗は選ばれし民らしく、親と担任の勧めにより中学受験をすることになった。地元のヤンキー区立中学ではなく、私立のエスカレーター校へ進学するためだ。もちろんこれは私の意志ではない。

だけどそこで天狗は生まれて初めての挫折を味わった。第1志望である偏差値68の学校に落ち、次に受かった偏差値64のお嬢様学校へと進学することになってしまったのだ。

「この私が合格点を取れないなんて」
これまで脇役のジャガイモにしか見えていなかった周りの人々の中には、私よりも優れた人間が山ほどいた。学習塾ではトップの成績ではなかったのに、なぜか「私ならイケる」と思い込んでいた。その時の私は、恥ずかしいとか情けないとかよりも先に、己の視野の狭さに愕然とした。

第2志望とはいえ、入学パスを手にした学校へと進学するしかない現実を受け入れた私は、ひそかに落ち込んでいた。
もはや天狗の鼻は折れ曲がってフニャフニャだ。それをへし折った私は、不安なまま大海へと泳ぎ始めた。


過剰な自意識が生み出す「こだわり」とは

こだわりは、プライドと近いところにある感情だ。すべてのこだわり人間がそうだとは思わないが、少なくとも過去の私においては「他人の目にどう映るか」を常に考え、己の欲求や「こうしたい」望みよりも「カッコよく見えるか」を追求していた。他者軸の、承認欲求ありきのこだわりは、思春期の過剰な自意識とばっちりシンクロした。

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