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先日、所属しているTeacher’s Flagの1on1の様子をライブで見る機会がありました。

メンターとメンティーとの間で、「寄り添う」と「認める」というのは違うのでは、というやり取りをみていて、確かにそうだなと思いました。

では、「寄り添う」と「認める」、両者のどこが違うのでしょうか。
そして、人と向き合う上でどういうスタンスで対応していけばいいのでしょうか。
自分なりの考えをまとめておきたいと思います。

各言葉の持つイメージはあくまでも一個人の意見であり、これが正解である、というわけではありません。参考程度に見ていただければと思います。

他人軸と自分軸

私の永遠の課題、インクルージョンに絡めて考えてみたところ、「寄り添う」というのは受ける側と受けられる側の二者が存在し、「認める」というのは受ける側の一方的な思いではないかと思いました。

インクルージョンとは、万民がフラットな関係性でお互いを尊重し、共創(協創)する状態をいいます。

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「寄り添う」という言葉からは、ある人に対し、横について伴走してあげる人が存在する印象です。この、「あげる」の部分に責任というものが生じているように感じます。 ただただ見守るというイメージにプラスして、半歩後ろからその人を見守り続ける、というイメージです。つまり、伴走してもらう人に対し、伴走してあげる人がどう感じるかという観点からみると他人軸であるということがわかります。

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それに対し、「認める」という言葉は、単純に社会の一員として存在しているという意味合いを持っており、そこに伴奏をするとか見守るとかいった継続的なケアということも特に存在しません。あくまで認めているのは自分であり、軸を自分に置いています。

他に似たような言葉はあるのか

二人のやりとりを見ていて、「寄り添う」「認める」以外にもなんとなく似たような言葉があるのではないかと思っていた時、「受け入れる(受け容れる)」という言葉がふとうかんできました。

私の持つ「受け入れる」のイメージは、「寄り添う」と「認める」の中間に位置するような言葉です。「寄り添う」と同じく他人軸ではあるものの、「寄り添う」ほど伴走するような感じではありません。ただ、「認める」ほど突き放した感もありません。

人と向きあううえではどのスタンスがいいのか

「寄り添う」「認める」「受け入れる」が三者三様であるとして、では、どのスタイルを採用するのかというと、結論から言えば、併用するのがベストといえるでしょう。
相手の話に耳を傾け→認め→受け入れ→寄り添う、というサイクルでトータルにサポートしていく必要があります。
大事なことは、相手の思いを察知することと、いい塩梅に伴走していくことだと思います。

「塩梅」とは、塩と梅酢のことをさします。
梅酢は製作工程が非常にシンプルで、塩漬けした梅から抽出した酸味のある果汁をさします。
醤油やソース、マヨネーズなどのなかった古の時代の調味料は塩と梅酢の二種類しかなく、味付けは塩と梅酢の微妙なバランスで決まっていました。

塩と梅酢の関係性が伴走する人とされる人との関係性に似ていると思いませんか。

両者の微妙な配合が少しでもずれると、いい味が生まれない=いいところが引き出せない、ということにつながりかねません。

これからは、信頼と共感の積み重ねで共用・協創していく時代です。
時にはITとの協創も必要となっているいま、人間の心と心を通わすことは非常に重要です。
寄り添う気持ちと、認める心。
意識していきたいと思います。

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