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「教育」と「共育」と「協育」、そして「きょういく」

この記事の内容の1分解説動画はこちらから。

私がこれまでも、これからもメインテーマとしている「きょういく」。
この「きょういく」という表記に行き着くまでにはさまざまな経験と葛藤がありました。


そもそも、「教育」とは

教育(きょういく、英語: education)は、教え育てることであり、ある人間を望ましい状態にさせるために、心と体の両面に、意図的に働きかけることである。教育を受ける人の知識を増やしたり、技能を身につけさせたり、人間性を養ったりしつつ、その人が持つ能力を引き出そうとすること[3]である。             (Wikipedia 「教育」のページより引用)

この文面を見る限りでは、「教え育てる人」と「教え育てられる人」との間には明らかなるボーダーが引かれていて、「教え育てる人」上位で話が進んでいます。ここでは、「先生が教壇に立って、生徒は先生の教えを請う」という主従関係が成立しているのです。

現在の一条校(学校教育法第一条で定められた教育施設のことをいいます)の典型は、この「先生が教壇に立ち、生徒は先生の教えを請う」スタイルの画一的な授業形態が主流となっています。

では、「共育」とは

《「ともいく」とも》親・教師・学校など教育権を持つ主体だけでなく、多様な立場や領域の人や組織が連携して教育を担うこと、あるいは教育・養育・指導を行う側と受ける側がともに学び成長すること、などを意味する造語。               (デジタル大辞泉のページより引用)

こちらは残念ながら造語のため、デジタル大辞泉にしか掲載されていませんでした。


実は、引用文の前半部分は私自身の解釈ではどちらかというと「協育」にあたる部分にあたります。

「教育≒画一的な授業」とは一線を画し、先生と生徒の間にはボーダーが引かれていないイメージです。ある共通のテーマをもとに皆で話し合って意見を出し合っていきます。
先生は、時には生徒と一緒になって意見を出し、時にはファシリテーターとして司会進行役をし、時にはアドバイザーとして助け舟を出してその問題解決をはかる役を担います。

「協育」とはなにか

さきほども触れましたが、私は、「共育」と「協育」を分けて考えています。

「共育」は「ともに考え、全員で問題解決をはかる教育法」ですが、「協育」はその範囲が先生、生徒という関係性だけでなく、地域住民や一般企業人などを含めた多様な立場や領域の人も巻き込み、連携して教育・共育を担うことと考えています。

私は現在、GEWELというNPO法人に所属し、ダイバーシティ&インクルージョンについての学びを深めています。
その中でもインクルーシブ教育という「さまざまな立場や背景を持った人たちが、お互いを認め合い、融合した状態」が自分の理想の姿であり、これから目指すべき姿であると強く感じています。

講師時代は「共育」「協育」が思うようにできなかった

遡ること約30年。
大学生の時から個別指導塾で講師をしていました。

また、数年ではありましたが私立高校の国語教員をしていたこともありました。
このときの私は理想の授業をしようと思えば思うほど、いわゆる画一的な授業からは外れてしまい、何度かお偉い先生方から叱責を受けたこともありました。
でも、いわゆる「赤本(先生が使用する赤字で書かれた先生のための教科書)に沿った画一的な授業」をしてしまうと、クラスの半分以上が眠くなっるような授業しかできませんでした。
結局、眠くならない教科指導というミッションをクリアできないまま教員生活は終了しました。

20年の時を経て、子を持つ親になって感じた違和感

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教員を離れて20年以上。
子を持つ親となり、学校という場にわが子を送り込んだ時、とてつもない不安を抱きました。
自分が小学生のころのような「ある程度自由な空間」からは程遠く、まるで軍隊かなにかのように「評価」という呪縛にかかっている先生や生徒たち。それは、まるで「ケージに押し込められたニワトリ≒恐育」のようにみえました。

当初は「教育」がいけないのではないかと思っていた

なぜ、こんなにも一人一人が息苦しさを感じているような空間になってしまったのだろうか。

この問いに対し、当初は、「教育≒画一的な授業」というのが一因にあるのではないかと考えていました。「共育」して「協育」すればステレオタイプな人間は生まれないし、なによりみんな自由に動き回れるようになる。

ただ、時間がたつにつれ、必ずしもそうではないのでは?という思いも出てきました。
画一的な授業は、ある程度標準な人間を作り上げてくれるので、基礎的な学びを提供するには有効な手段なのではないか、と。問題はそれしかしていない授業の形態にあるのではないかと考えるようになりました。

そして、結局「きょういく」という言葉にたどり着く

いろいろ考えてはみたものの、行き着いたのは、「一つの手法ではなく、全てを融合したかたち」ではないかということでした。

「教育」だけ、「共育」だけ、「協育」だけ。
「教育」と「共育」のミックス。
「共育」と「協育」のミックス。
「教育」と「共育」と「協育」のミックス。
そして、ここにテクノロジーという新たな媒体もミックスされ、人間とテクノロジーのミックスも加わりました。

さいごに

行き着いた先は、すべてにおいて万能であるということから、いまのところは「きょういく」という言葉に落ち着きました。
コロナという予測不能なウイルスの侵入により、きょういくのあり方が加速度的に変わってきつつあります。これからのきょういくは学校に行くばかりではなく、学校とオンラインの融合(いわゆるハイブリッド型)が徐々に浸透してくるのではないかと思います。オフラインにはオフラインの、オンラインにはオンラインのよさがそれぞれあります。それと同じく、画一的な授業とオルタナティブ教育(学校教育法では規定されていない、いわゆる一条校以外の学校教育)にはそれぞれのよさがあります。さまざまな手法、さまざまなアイテムを子どもたちに提供し、時には融合して、より将来の選択肢を早い段階から知らせ、広げていくことが大人たちのやることではないかと思います。そして、子どもたちは自分に合う手法、アイテムを取捨選択してこれからの社会に立ち向かえる力を養うことが肝要だと思います。

「今日行く」(追記)

こちらの記事を投稿した後、さまざまなご意見、ご感想を頂戴いたしました。
その中で、きょういくには「今日、行く」いうことも大切な要素として挙げられるのではないかというご意見をいただきました。
それぞれの「きょういく」を「今日、行く」。
計画をたてて(Plan)、実行して(Do)、評価して(Check)、改善する(Act)。
これを日々内省していくことは本当に大切なことだと思います。

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