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私が長らく離れていた教育の世界に戻ろうと思ったのは、子を育てる親として学校に通わせるようになってから。自分が学生として過ごしていた小中学生の時代と今とではだいぶ学校のなかの様子が変わってしまったと感じたからです。

私自身、特に中学時代は今でいうところの「いじめ」にあっていたこともあり、あまりいい思い出はなかったのですが、その中でも多少の居場所、自分だけの空間を見つけて、なんとか毎日学校に通えたのではないかと思います。

今の学校は、その時に比べても全体的に縛りがきつくなってしまい、生徒だけでなく、先生も保護者も、みんなで様子伺いをお互いにしながら過ごしている感じがするのでなんとなくギスギスしていて居心地の悪い空間になってしまっているのではと感じています。

ただこれは、あくまでも自分の身の回りで起こったことであり、これが今の日本の学校全体に起こっているのかといえばそうとも言い切れないところが難しいところです。

「標準」という基準がものすごく狭い範囲で、この「標準」の以下の人だけでなく、以上の人も居心地が悪くなってしまっている感じがあります。そして、その「標準」が現場の校長先生の裁量に委ねられている部分もあるので、良くも悪しくも地域間格差、学校間格差の増大につながってしまっている感じもあります。

今回は、私が銀行を辞めてこの仕事をやろうと思った原点に立ち返ろうと思い、そのきっかけとなった2019年5月に国立で開催されたイベント、「みんないっしょが当たり前の社会へ」で紹介された、息子が木村泰子先生にあてたお手紙を公開させていただきたいと思います。

(2019.5.24 木村先生イベント内で手紙を読み上げているようす)


                    眞島誠吾(ましま まさみち)
 木村先生、こんにちは。眞島誠吾です。
 ぼくは、小学校の時に、福岡県の小倉というところに住んでいました。小倉北区の小学校ではたまに落ち着きがないと先生から注意されていて、補助の先生が横についていたことはありましたが、毎日通常学級に通っていました。
 小学3年にあがるときに、父が仕事を独立することになって、小金井市の小学校に転校することになりました。転校する前の面談で、ひまわり学級という支援級に行ったほうがいいのではないかと先生方に言われていたのですが、たくさんのお友達と一緒の教室にいたいとお願いして通常学級に通っていました。
 ところが、1か月たったところで両親が先生に呼ばれて、「眞島くんは落ち着きがないし、自分が気に入らないときにものに当たるくせがあるので、他のお友達に危害を加えてしまう可能性があります。ひまわり学級のほうがいいですよ。」と説得されてしまいました。ぼく自身も、「たくさんのお友達よりも少ないお友達の中に入ってじっくりと先生にみてもらったほうがいいんじゃないの?」と説得されました。
 結局、ぼくは最後まで納得いかなかったのですが、お友達に危害を与えてしまうのは危ないと親が判断して、ぼくはひまわり学級に転校することになりました。先生には「本人は、本当は通常学級を希望しています。1年だけ支援級で、来年からは通常学級に入れてあげてください」とお願いしたそうです。学年があがるごとに、両親が通常学級に戻すようにお願いしてくれましたが、卒業するまでずっとひまわり組でした。ぼく自身も、先生に「一生けんめいがんばったら通常学級に戻れますか?」と何度も聞きましたが、だめでした。ぼくは、母から「がんばって1年で通常学級に戻れるようにお願いするからね」とはげまされていたのに、その希望通りにいかなくなってしまったので悲しくなってしまいました。
 くやしい気持ちをうまくコントロールできなくて、ものや、つくえにあたってしまうと、面談の時に、「まさみちくんは、病院にいかせたほうがいいんじゃないですか。お薬を飲ませてあげたほうがいいんじゃないですか」と言われました。心配した母は、病院に連れていってくれましたが、そこの病院で、母は「この子は100歩ゆずっても通級。支援級に入る必要はないと思いますが、どうして支援級に入っているのですか?」と聞かれてしまったそうです。うちは両親共働きで、母は家から1時間以上かかるところまで毎日朝から夕方までお仕事をしているので、週2回、毎回の送り迎えができないという理由で通級に通わせることができなかった、と答えていました。
 ひまわり学級にはいろいろなお友達がいます。
 ぼくのように少し落ち着きのない人や、少しだけお勉強がおくれている人、少し体を動かしにくい人などがいました。なかには、どうしてひまわり組にいるの?というお友達もいました。
 ぼくが3年でひまわり学級に入ったときは、1クラスしかなく、10人以下でしたが、毎年どんどん増えていって、卒業するころには、3クラスになりました。
 ひまわり学級での生活は、ひとことでいうと監獄のようでした。
 通常学級のお友達が自由に走りまわれるとしたら、ぼくは、ぬかるみに足をとられて、1ミリも動けないような感じです。
 でも、ひまわり学級のお友達は明るくて優しい子が多かったのでとてもよかったです。
 残念だったのは、交流級のお友達とは学年があがるにつれて交流がなくなってしまったことです。
 3年生のはじめのころは、教科の交流も時々していましたが、6年生になるころには週1回の給食交流くらいしかには行かせてもらえませんでした。
 ほかにも、交流級の移動教室や、合唱コンクールにも参加させてもらえませんでした。
 ひまわり学級の学習は、みんな、でき具合が違うのですが、通常学級と同じように、先生が黒板の前にたって、一斉授業しました。
 支援級は、教科書が配られません。
 教科書ガイドが教室にあって、先生がそれをコピーしたり、先生自身が問題を作ってコピーしてくれたりして、問題を解いていましたが、通常学級で学んでいる内容の半分も学習していないと思います。
 宿題はいつも同じものばかりでした。
 漢字のプリントは、3年のときに宿題としてわたされて解いて、せっかく90点や100点をとったのに、学年があがっても、まったく同じプリントを何度も渡されました。
 ぼくがひまわり学級に入って一番悲しかったことは、「支援級」だとからかわれてしまったことと、3才上の姉が、学校で「支援級の弟」といじめられたことです。入りたくてはいったクラスではないのに、そういう形でいじられるのがいやでした。なんでみんなと同じクラスに入れてもらえないんだろう、みんな、とくいなこと、とくいではないことがそれぞれちがうはずなのに、どうしてぼくは支援級になってしまったのだろうと考えたこともありました。
 ぼくは親に、中学は通常学級にどうしても行きたい、と言いました。
 母は、「君が希望しているのに入れないのはおかしいから、中学は希望通りにするからね」と言ってくれました。そして、それを実行に移してくれました。
 今、中学では通常学級に通っています。
 1年の1学期は慣れない環境に戸惑って、先生やまわりのお友達にたくさん迷惑をかけてしまった時期がありました。親は別々に先生に呼び出され、「支援級に転校したほうがいいんじゃないですか」と言われたそうですが、「本人がどうしても通常学級を希望しているので、まわりに迷惑をかけないように病院に行って、先生に相談してみます」と交渉してくれました。何回か病院に行って、先生に学校の話をしたら気持ちが落ち着くようになりました。2学期に入ると、クラスメイトがいろいろと気を使ってくれるようになったので、ぼく自身も一緒にいやすくなり、トラブルがだいぶ減ってきました。今ではもう学校の先生に「支援級にいったほうがいい」とは言われなくなり、毎日学校に通いやすくなりました。
 学校で勉強するのは、ぼく自身です。学校の先生はぼくのことを良かれと思っていろいろと指導してくださったと思います。でも、ぼくが納得いく形で学校に通わせてほしかったです。通常学級の様子に慣れるのに、他の人よりも時間がかかるかもしれないけれど、しっかりと時間をかければ、まわりもぼくのことを「こういう子だ」と考えて行動してくれるようになります。ぼく自身もそうです。これからは、自分が希望したことが許される学校になってほしいです。そして、一人でも多くの人がいやな思いをして学校に通うことにならないようになってほしいです。

(2019.5.24 国立でのイベントにて)

私自身は特に文面をチェックすることなく、イベントで読み上げられるその時までこの文章の中身は知りませんでした。彼自身、作文があまり得意ではないと言っていたし、恨みつらみみたいなものを書き記していたら終わりだな、と思っていたので、文を書くにあたって約束したことは、①人の悪口は書かない、②事実だけを書く、③事実に基づいて自分が感じたことだけを書く、ということだけでした。

この文章を木村先生が涙声で読み上げてくださったこと、今でも鮮明に覚えています。

そして、少なくとも私自身も彼の本当の意味での大変さをその時に感じましたし、改めてインクルーシブ教育について考えるようになりました。

今、息子は高校生となりました。

当時とはまた違った意味でうまくいかない高校生活を本人の中では送っているようではありますが、その中でも、少しずつ自分のやりたいことを見つけて、その先の未来につなげてくれればいいなと願っています。

そして、私自身は、息子以外にも同じ感情を抱いているお子様がいないことを願っています。

同じ空間に入れることが必ずしも良いことではありません。おそらく、適不適があります。ただ、何もしないまま大人の都合だけで決めるのではなく、だめだったら次の方法、その次の方法と変えていきながら、その子にあった学びのスタイル、学校、学校以外の空間をうまくみつけてあげられたらな、という思いから「共育コンシェルジュ」サービスを展開しています。

究極のインクルーシブって、自分の居心地の良い空間をみつけて、それぞれのよさを引き出しながら新たなものを創り上げることだと思います。

(2020年1月 国分寺のイベントで再開したとき)


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