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噂は本当だった ヒト受精卵の遺伝子を改変した研究成果が発表

(2015年4月27日作成のものを再掲)

先月「ヒトの受精卵の遺伝子を改変する実験が行われているらしい」という噂が飛び交いましたが、噂は事実でした。4月18日に論文が発表され、研究者間の議論が加速するだけでなく、社会を巻き込んだ論争になると見込まれます。

メジャー学術誌に掲載拒否された論文を無名学術誌が掲載

3月に「ヒト受精卵の遺伝子改変実験をまとめた論文が査読(第三者の専門家による審査)に出回っているらしい」という噂が、海外のニュースサイトで報じられました。経緯は以下にまとめております。

「ゲノム編集」とは、従来の遺伝子組み換え技術よりも簡単に、安価で遺伝子を改変できる方法です。使うタンパク質などによって何種類か方法はありますが、最も使われているのが「CRISPR/Cas9(クリスパー・キャス9)」という方法です。

基礎研究では広く使われており、ヒトの培養細胞やiPS細胞でも実績があります。受精卵においても、マウスやサルなど、すでに多くの動植物で使用されています。ただ、ヒトの受精卵に対しては行われていませんでした。

そして、CRISPR/Cas9を使ったヒト受精卵のゲノム編集実験の論文は、4月18日に『Protein & Cell』誌に掲載されました。

無名の学術誌だったせいか、掲載直後には話題になりませんでしたが、4月22日に『Nature』誌が報じたことで世界中に知れ渡りました。

この論文は、以前に『Nature』誌と『Science』誌にも投稿されたのですが、両誌とも「倫理的な理由」で掲載拒否したようです。このときにリークされたのが、先月の噂の震源地だったと思われます。

ところで、本質とは関係ありませんが、『Protein & Cell』誌は「査読付きのオープンアクセスジャーナル」と名乗っているわりには、今回の論文の受理は3月30日、掲載決定は4月1日と、査読に2日しかかかっていません。普通の査読はどんなに早くても2週間はかかるので、今回の論文はまともに査読されなかった「エア査読」だと想像できます。無名誌が名前を売るために利用した可能性もあります。

ヒト受精卵のゲノム編集は効率が悪すぎる

論文の著者らは、「βサラセミア」というヘモグロビン異常による貧血を引き起こす遺伝子疾患に注目し、原因遺伝子であるβグロビン遺伝子の編集を目的としました。遺伝子疾患の治療を意識したものを思われます。

最初にヒト培養細胞で実験を行い、βグロビン遺伝子だけを編集できることを確認してから、ヒト受精卵のゲノム編集に取りかかりました。ただ、通常の受精卵を使うことは世間的な反発を受けるため「3前核受精卵」を使っています。

3前核受精卵は、1個の卵子に精子が2個受精してしまったもので、心臓や神経細胞もできないまま、受精後5日には死んでしまいます。体外受精では5%程度の割合でできてしまうのですが、研究グループは体外受精クリニックからこれを譲り受け、ゲノム編集しました。絶対にヒトとして生まれない条件で実験した、という弁解が成り立ちそうです。

実験では86個の3前核受精卵にゲノム編集を試み、効果が現れる2日後に生存していたのは71個でした。このうち54個を調べたところ、ゲノム編集が確認できたのは28個、およそ半分だけでした。

さらに、培養細胞では見られなかった、目的の遺伝子(ターゲット)以外の場所で予期せぬ変異が起きる副作用「オフ・ターゲット効果」も見られました。

また、ゲノム編集2日後には細胞分裂が進んで、1個の受精卵は8個の細胞に分裂しています。細胞が1個である受精卵にゲノム編集を行えば、細胞分裂後の遺伝子はすべて改変済みとなっているはずです。

ところが調べてみると、遺伝子が改変された細胞もあれば改変されてない細胞もあるなど、遺伝情報の異なる細胞が混ざった状態(モザイク)となっているものも見つかりました。モザイクでは着床前遺伝子検査も使えないため、うまくゲノム編集できた受精卵の選別も不可能です。

以上のことから、現時点では受精卵のゲノム編集は効率が悪すぎて、医療現場で使えるレベルに到達していないと研究グループは述べています。そして、ゲノム編集のさらなる精度向上、原理解明が必要だと結論付けています。

研究者でも意見が分かれる実験一時休止案

受精卵や精子・卵子へのゲノム編集は、その効果が次の世代以降にも残るため、より慎重な姿勢を取るべきというのが、大多数の研究者の考えです。

国際幹細胞学会は4月23日に、研究者の統一的な合意形成、社会への説明のために、ヒト受精卵や生殖細胞へのゲノム編集実験を一時休止する(モラトリアムを設ける)ように呼びかけています。というのも、今回のように生存できない受精卵を使った研究は、中国だけでなくアメリカでも可能です。

ただし、どのような合意が形成されるかは不透明です。今すぐ医療現場で使用して、ゲノム編集した受精卵を子宮に戻すことはないでしょう。ただ、受精卵や精子・卵子のゲノム編集を全面的に禁止すべきと考える研究者がいる一方で、ゲノム編集の精度向上や遺伝子の機能解明のため、基礎研究に限っては許容されるべきと考える研究者もいます。

上の両誌は投稿された論文を掲載拒否しましたが、その理由を明確に説明すべきだという意見もあります。オックスフォード大学の実践倫理に関するニュースサイトでは、どちらかというと今回の論文を好意的に受け入れており、掲載拒否の理由である「倫理的問題」とは具体的に何か、明らかにするよう要求しています。

この記事では、『Nature』誌と『Science』誌が掲載拒否したという事実が他の学術誌に影響を与え、同様の研究を掲載しないような流れになる可能性を危惧しています。

なお、最初に紹介した『Nature』誌の記事によると、発生学に詳しい中国の消息筋の話として、中国では他に少なくとも4つの研究グループがヒト受精卵のゲノム編集実験を模索しているようです。

日本の「科学コミュニケーション」界隈は何をしていたのか

合意形成がどうなるかわかりませんが、もはや研究者間の議論に収まらず、社会全体の問題に発展していく可能性は大いにあります。

海外では先月の噂の段階から、大学のウェブサイトや一般のニュースサイトまで、多くのところでヒト受精卵へのゲノム編集について議論されてきました。ところが、日本ではほどんど取り上げられていませんでした。日本の大手メディアで詳しく報じたのは、産経新聞社のSankeiBizくらいでしょうか。あとは、NPO法人「オール・アバウト・サイエンス・ジャパン(AASJ)」はかなり詳しく書いていました。

AASJの記事では「我が国ではアカデミア、マスメディア、政府もこの問題の重要性を認識していないのではないだろうか」と、(噂段階の時期ですが)日本で注目されていないことに危機感を募らせています。

確かに、噂段階で過剰反応するのも問題なのは理解できます。実際に発表された論文も、現時点でヒト受精卵へのゲノム編集は早すぎるアプローチで、その結果も惨憺たるものでした。ただ、こういった技術は精度が向上して、いずれは実用化レベルにまでなっていきます(それがCRISPR/Cas9の改良版か、まったく別の手法かはわかりませんが)。

技術が実用化レベルにまでなった場合、もはや科学の問題だけでなく、社会を巻き込んだ議論が必要になります。いわゆる「科学コミュニケーション」と呼ばれているものです。

残念ながら今回の噂段階で、日本の科学コミュニケーション界隈でゲノム編集を話題にしているところをほとんど見てきませんでした。この点が、僕が今回最も失望したことです。得意分野にもよりますが、「科学コミュニケーション」を自負する人たちは真剣に考えるべきではないでしょうか。

詳しく知りたい方へ

・ゲノム編集について簡単に
http://www.mls.sci.hiroshima-u.ac.jp/smg/genome_editing/technology.html

・『Nature』誌の解説記事の要約
http://togetter.com/li/812273

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