弁才天の裏話1

 はじめて弁才天にたのみすがったときの話。
自己嫌悪の嵐に苛まれ、自分の過去、自分のしてきたこと全てがのし掛かってきて辛くて辛くて仕方がなかった。

考えを止めろ、寝ろといわれてもうまくできない。
(もちろんそれでもできるかぎりの手を尽くすようにした)
そして、読んだことのない観音経を泣きながら唱えた。

声もうまく出せない、読み方もわからないけどとにかく必死だった。
弁天堂でお仕事をさせていただいていても自らお経をあげたことはなかったのだけど、このときは行者さんに「やってみなさい」と言われやたので素直にやってみたのだ。

するとどうだろう。
ろうそくをつけ、線香を焚き、仏前に手を合わせ、一礼をしてからたどたどしくお経を読み始めた。
自分の苦しさやくやしさが込み上げどうにもこうにも辛くなり吐き出すように唱えていると、狭い祭壇のまえに今でもありありと再現されるのだが、赤い橋が目の前にみえたのだ。赤い橋の両端には提灯のように明るく灯った擬宝珠があり、暗闇を照らすようだった。

私はびっくりしたことと、やべえついに幻覚までみえてるのかという混乱と、助けてくださいという必死な気持ちに弁才天から手をさしのべられたこと、いろいろびっくりしたけどその慈悲に触れたことに泣いた。
一旦落ち着こうと気を取り直し、最後まできちんとお経を唱え、真言も気がすむまで続け、終わったころにはどっと眠気におそわれ気づいたら眠っていた。

そして、私の気が触れてしまったのではないか、幻覚をみてしまったのではないか、なにかおかしな解釈をしていないか、と怖くなったので現実からぶれないために、信じられないその出来事を行者さんに話した。

真摯にその話に耳を傾けてくれ、そして行者さん自身が体得している弁才天にまつわるお話を聞いた。本筋からそれていないようだし、大丈夫そうだ。
スピスピな人たちが言う「エネルギーが!」とか「光につつまれて」とかそんなことはまったくなかった。
この出来事から私は神仏はすがりたよったときには手をさしのべて勇気を与えてくれることを体感した。

手をさしのべてくれる、というのはなにか物理的にものを与えてくれたりする魔法ではない。慈悲というものなのだと思う。
慈悲は目に見えないものなのでわかりにくいけれど、なんとも言えない安堵に塞き止められていたものが一気に解放されるような感覚とでもいいましょうか。

それでも私は弁才天の存在を信じきれずに数年を過ごした。
何度も「そばにいますよ」「見守ってますよ」そういわれてもわからなかった。だけど、最近はわかりやすく見せてくれるようになった。

 例えば、天河弁才天にお参りしたときに視たもの(これはまた別の機会に)、それでも信じられない私に蛇の赤ちゃんを見せたこと、そして笑っちゃうのがおみくじにはこう書いてあった。
「大いなる巳の神を信じなさい」とでかでかと大きな文字で書いてあったのだからもう吹き出して大笑いしてしまった。

どの宗教の人も、どの宗派の人も、スピスピした人も同じこと言う。
神仏は素直な心を喜ぶ。

無神論者の人はこういうかもしれない。
素直な人は好かれる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?