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神さまの名前

 土地の神様というのは時代によって名前や呼び方が異なることが多い。時として、祝詞に存在の断片は残っていても現代では姿や呼称が変わっていることはよくある。
 祀られなくなった神もいるだろう。今回はそんな山の神様のお話です。
各地にあるよく聞く名前の神社。今では管理する人も少ないのか、本殿は荒れ、山の中には旧拝殿跡、奥宮、御神木と山中まわるのに小一時間はかかるでしょうか。
道は草や木の枝、蔓に覆われていて、参道の入り口ですら見失われるほど。滝場は木の枝が流れを止めてしまい水が淀んでいた。
富士講の遺跡のようになってしまっているような。神社の名前からして富士信仰をなされてるのかと思っていたのだけど‥。

この山には名前があった。
そして山頂に登っても富士山を拝むことはできなかった。道すがらこんなことを言われた。

信仰と神は別だ

と。

ここは私であって富士ではない。
我を登拝してからの富士浅間社である、といったお話。

たとえばその山が仮に山田山という名前だったとしよう。それはあくまでも山田山であり富士山ではない。
山田山を富士山として拝むのではなく、山田山を登拝してこそ富士につなぐということだそうだ。

この山は今では、〜ケ岳と呼ばれていますが、おそらくこの山自体にも昔からの名前があり、ずいぶん大切にお祭りされていたのではないかと感じます。大きい山ではありませんか山菜、木ノ実、日当たり、水源、実に豊かな山で人々は恵みを大いに受けてきただろうことがわかります。
気高さを感じました。

仮に権現さんとお呼びしますが、この山の権現さんが言うには人間界で言えば大手〇〇会社の佐藤太郎、ではなく大手〇〇会社という肩書がなければどこの佐藤太郎だということなのだそうです。

産土神や土地の神と渡りつけるのとは土地の加護を得ることができ、次に地域の加護、そして管轄の加護、国の加護、そのような流れや道理のようです。

神様に挨拶をするときはどこどこの〇〇ですと挨拶しましょうといいますが、どこのだれかで、どこの人間なのかは大切なことのようですね。

また、神様は名前を呼ばれることに喜ぶフシがあります。時代や歴史によって土地の名称や信仰によって神仏の名前が変化することはよくありますが、名前があるとより存在が具体化するようで、それを喜ぶようなところがあります。
〇〇の稲荷さん、〇〇の神様、〇〇(土地や地域)の龍神さん、〇〇の観音さん、〇〇地蔵、〇〇弁天さん、〇〇聖天さん、みたいに。

身近にある土着の神仏、ぜひ大切にしてまずはご挨拶してみてください、というお話でした。

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