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役行者 最適を選んでいるだけ

 生まれ育った地域は身近に山があった。
父と母の田舎も山がそばにあり、山で育ち、山で遊び、山で暮らしていた。叔父と叔母も山が好きで週末はよく家族でハイキングや登山を楽しんでいて、年老いてからも趣味のカメラ撮った旅先や山の写真をよく見せてくれた。
そんな環境のせいか子どもの頃はよく山に山菜を取りに行ったり、沢を歩いたり、父母の田舎にあそびにいけば裏山で散策をして遊んだりしたものだった。

 大人になってからは山岳信仰に縁ができ、山を歩くようになった。私は捻挫癖があり、歩くのがへたっぴ、体力なしの本当の山初心者だ。帰りには膝が痛くなるほど運動が足りてない体になってしまいなんとも情けない成人だ。子供の頃、軽やかに恐怖なく野山を駆け回った身軽さがウソみたい。

 ある日、行者さんたちと山歩きをする機会があった。東京郊外の山でさほど険しい場所でもないけれど地名には修験道に由来する名前がつけられている場所がちらほらある。

 さて、私の目の前には小柄なちょっとうす汚い行者さんがいる。夏だからか、上半身をはだけさせ、なれた足取りでさっさと岩場を上っていく。ついていくのに精一杯だ。

 ついていこうと必死になるとけっこうキツイ。どうしたもんだ。
それでも行者さんはどんどん先へいってしまう。なんとか段差の多い岩場を登り終えると目の前がひらけた斜面にでた。

『まわりをご覧。地形や障害物などざっと見渡して、前をみて歩いてごらん。複雑な道じゃなければ景色を楽しんで』

斜面を上りきると朝日に照らされて林がまるで黄金のように光り輝いていた。

歩行に余裕がでてきたのが伝わっているのか、豪快な笑顔で話しかけてくる。
『つべこべいわず、山にこい』
『とにかく登れ。ぐだぐだ考えたりぐだぐだいってないで登ればいい』

必死に追うが私の体は山を登るには体力も体もまだまだだと痛感していた。
わたしの足取り見て、
他人の動きが速く、すごいことかのように感じるかもしれんが、それは自分が歩きやすい場所を自然と選び、一歩一歩進んでいるからだ。決して速く歩こうだとかすごいことをしようとしているわけではないんだ。自分の歩きやすい道をえらび歩くことだ』と語ってきた。

ふ・・・深い。これは山歩きだけの話ではない気がする!!!
だんだんと楽しくなり、言われたことを意識しながら歩き続けた。
いつのまにか自分の表情もにこにこしている。歩くって気分がいいな!

行者さんは『そうじゃろう!』といわんばかりに笑った。

気づいたら幼い子どもたちもたのしそうにきゃっきゃきゃっかと登っている。

『寺に引き込もってお経を読んだり、説法なんかするよりよっぽどわかるものがあるだろう?』行者さんはまたニコニコしながら話しかけてくる。

それからしばらくして、『そこの道をいくと面白いものがあるぞ。・・・おや、行かないのか。」残念そうに言うのだから、先を歩く夫さに知らせた。
「ここに道があるんだって。ちょっと来ないか?って」二人で引き返してみて、辛うじて道になっている木の間をくぐると、大きく平らな一枚岩が現れた。
その先はなんとも…こわい崖だった。

そこで座禅を組むと、広い空と風が心地よい。のも一瞬で、美しい目前の景色への感動と同時に高所恐怖症の自分には、そこがまるで覗き岩のようで恐怖感が込み上げてきた。

 一緒にいた行者さんと夫はそこでしばらく行に耽っていた。そして、その場をあとにし、気持ちのよい山道を歩きたど着いたのは『役行者』が祀られている場所だった。
愛嬌のある前鬼後鬼の石像がなんとも親近感がある。夫とそこで法楽をした。

ずっとそばで指南していた行者さんが豪快に笑いながらこう言った。

『役行者の跡をたどるもの、それもまた役行者なり』

そして私たちは、役行者の地をあとにした。
最後にいただいた言葉と役行者の笑顔を心にやどし、次の峠を目指した。

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